どんかんで、しあわせ?
「とりあえず、キスとかしとく?」
居酒屋のテーブル向かいに座る雄二。
信じられない言葉を当然のように言い放った雄二。
その顔をしみじみと睨み付けてから答えた。
「香織は私の親友だよ? それに、アンタを呼び出したのは、そんなことする為じゃないでしょう?」
私は、ため息混じりに訊いた。実際、そんな事をする為に雄二を呼び出したのでは無い。
「そっか」
「そっか。じゃ、ないよ。私が言ったこと分かってないでしょ?」
「分かってるよ。香織とは別れない。美紀ちゃんが言うなら、別れない」
雄二は、出されたばかりの生ビールを一口飲むと真っ直ぐに私を見詰めて言い切ったが、私には更に混乱した脳内を整理する必要がある。
買い物に出掛けた帰りに、親友の香織が泣いていた。理由を聞いても答えない。問い詰めてやっと聞き出したのは「離れたくない」の一言だけ。それでも、私には充分に伝わっている。
気の弱い香織には、私のようなハッキリと物言うタイプが側に居ないと駄目だと思う。
私は香織の『離れたくない』人物を知っている。
父親の経営する会社の子会社で悠々自適に、何もかもを当然のように手にしている苦労知らずの駄目人間。
何度も香織が引き合わせるので、その軽い人間性すら理解できる程の仲になっている。
私は、香織と別れて直ぐに雄二を呼び出した。
理由は勿論、香織との関係修復だ。
「はぁ? 駄目だ……全然、分かってない」
「どうして?」
「当たり前でしょ? 二人の為でしょう?」
「じゃぁ、なぜ?」
「なぜって、なに?」
「なぜ、美紀ちゃんが二人のことに口出しするの?」
雄二が身を乗り出し訊いた。確かに香織に頼まれた訳ではないけど、頼まれなくても正しいことを行うのが親友だ。こんな、馬鹿でも香織が惚れてるならなにかしらの方法があるのかも知れない。
「私は……良いのよ。私は香織の親友だし、香織とは姉妹みたいなものだから。だから、私は良いのよ」
「ふ――ん。香織のことなら何でも知ってるって感じですか?」
焦って答えると、雄二は興味無さげに答えた。
なぜか、私はその態度に怒りを感じるより奇妙な焦燥感に囚われ口を尖らせた。
「そうよ! なにか文句ある?」
「アハハ、文句なんて無いよ。ただ……」
最後の言葉に、明白な意図がある事は分かっていたが訊かずにはいられない。
「ただ、何よ!」
「美紀ちゃんは俺のことが好きだから、ワザワザこんな夜中に呼び出したのかな? って思ってたからさ」
雄二の軽過ぎる考えに呆れる。呆れるというより怒りを感じる。これは正常な常識を持つ社会人との会話では無い気がする。
「はぁ? はぁ? はぁぁ――? どの口が、そんなこと言うの?」
「この口ですか?」
唇に指先をあてて、再度軽口を訊く雄二に両手を挙げる。
この男に何を言っても無駄としか思えない。
「なんで、こんな奴が香織は良いのよ?」
「多分、金持ちだしルックスも良いからかな?」
「ナルシストのボンボンなんて、最低よ」
「そうかな? 金が無いよりは、有る方が良いだろうし、ルックスも次の遺伝子の事を考えると重要だと思うけどな」
「あのね、男はなによりもハートよ、ハート! それに、アンタみたいなエゴイストより、包容力の有る大人の男に女は惹かれるの!」
言いながら私は恋人の東野新一を思い出していた。
新一とは二十二歳も離れているせいか雄二が酷く子供に思える。まぁ、会社経営者である新一が雄二より遥かに大人の男である事は比べるまでもない事だけれど。
「だから、美紀ちゃんは不倫とかしてるんだ?」
私の心を読んだのか、雄二が痛いところを突いたので慌てて反論した。
「ナニそれ? 最低!」
「口が悪いのは勘弁! でも、妻子持ちのオジ様に、美紀ちゃんは勿体無いよ。オッサンなんて止めて俺にしてよ」
「意味わかんない! とにかく、私にはアンタを好きになる理由が無いわ」
「多分、それは正解だよね。 でも、俺は美紀ちゃんが、好きだよ」
私は、自分の耳を疑った。
これは、告白でしょ?
叶わぬまでも告白は真剣に行うべきだ。居酒屋のテーブル席で、恋人の友人に別れないでくれと頼まれた時にするべきでは無い。
「駄目だ……完全に、駄目だ! アンタの脳ミソは完全に、く・さ・って・る!」
「待ってよ……俺は正直なだけだよ」
「正直なのに、香織に嘘をつくの?」
「君が望めば、なんだってするよ」
「だから……私の為に、ってのが間違いでしょ?」
「俺は、美紀ちゃんの為に出来る事をしたい!」
熱い眼差しで見詰める雄二が何だか憐れに成る。と言うか私の行動自体が酷く滑稽で哀しい気さえしてきた。
これはもう、香織を説得するしか無い。こんな奴に惹かれている香織が可哀想だ。
「ハァ………帰る! アンタと話しても時間の無駄だよ! 帰って、香織を説得する!」
「なに?」
「決まってるでしょ? アンタと、別れる様に説得するのよ」
「やっと、その気に成った?」
「なにが?」
「香織を諦めさせて、俺と付き合うんでしょ?」
「脳みその回路、壊れてるでしょ?」
「いや、真剣だよ」
「あん……たは……私は……もう良い。疲れたから帰る」
頂点まで怒り、呆れると、疲れるのだと初めて気が付いた。だが、とにかく帰る方が良い。話し合いなんて成立できない。私はバッグを握ると立ち上がる為にテーブルに手を突いた。
「香織から訊いたよ」
席を立とうとした私に先程までのフワフワ軽い感じではない声で、雄二が呟いた。
「なにを?」
思わず聞き返していた。
「手に入らない恋を諦め切れないって」
「私は……私の勝手でしょ? 放っておいて」
言って完全に立ち上がった私に、雄二がもう一度呟く。
「しあわせ?」
「なにそれ……アンタみたいな奴に説教なんてされたくない。部外者は口出ししないで! アンタみたいな、いい加減な男は本当に最低だよ」
私の言葉に俯く雄二。
少し言い過ぎたかと思い直し、雄二が俯く姿を見た。
どこかで見たような悲し気な雰囲気に直ぐにその場を立ち去ることが出来ない。
「俺は……本当に美紀ちゃんが好きだよ。それは、香織も知ってる」
「なにそれ? 知ってて、香織はアンタと付き合ってるとでも言いたい訳?」
「そうだよ」
雄二の言葉に卒倒しそうになる。完全に嘘だと分かっていても剰りに馬鹿にしている。
私の事を、いや、香織の事を馬鹿にしている。
「信じられない。香織に私の事が好きに成ったって、いつ言ったのよ! 馬鹿じゃないの?香織の気持ちとか考えた事無いの?」
「香織は……初めから知ってた」
「初めから? 意味が分からないよ……」
「俺は、初めから美紀ちゃんが好きだった」
混乱と怒りと得たいの知れない焦燥感が同時にこみ上げる。更に混乱した脳内で飲み下したアルコールが、ぐるぐると渦を巻いて脳の機能を奪っていく。
「嘘だよ! そんなの、知らないよ!」
「言えないさ。美紀ちゃんは、不倫相手に夢中で誰も近付け無かったでしょ?」
「それで、親友の香織を狙ったって事? 最低だよ? それって最低!」
私は全身から火を噴くほどの怒りに立って良いのか座っていた方が良いのかなんて全く関係のない事を真剣に考えたりしながら、結局座り込んでテーブルを手のひらで叩いて聞いていた。
「だから……香織は初めから全部を知ってるんだ」
私の迫力に気圧されたのか小さな声で雄二が答える。さっきまでの軽々しい雰囲気はどこかへ消えている。
それでも、雄二の口から次々に吐き出される信じられない馬鹿げた言葉に次第に私の鋼のような魂も磨り減る。
そう、磨り減る。
「それじゃ、なに? 二人で、私を騙してたの?」
「そう、なるのかな?」
「なんの為に……」
「あのね、香織は……美紀ちゃんが、好きな人の……娘なんだ……」
瞬間、猥雑とした居酒屋のざわめきが消えた。
違う。
私の頭の中に、ざわめきを消してしまう程の言葉が一瞬で詰め込まれたのだ。
それは、難解長文の論文や、著名な作家先生の小難しい言葉てはない「好きな人の娘」って一言だけ。
「えっ? 何それ? でも……」
混乱し続ける思考回路の隅で、意地の悪い顔をして時限爆弾のスイッチを入れる雄二がイメージとして浮かんだ。
「名前……同じでしょ?」
更に言われて気付いた。確かに香織と新一の名字は同じ東野。でも、東野なんてありふれた名前だ。
「でも……」
「顔だって、何となく似てる……違う?」
そう言えば、時折見せる香織の表情は何処と無く、新一に似ている。
「でも……」
「美紀ちゃんが、彼の事を相談すると決まって困った表情で別れることをすすめた……違う?」
確かに、困惑の表情で相談に乗ってくれていた。でも、それは香織と私は親友として同じ痛みを抱いていたからこその筈だ。
「でも……香織は……私の事を考えて……」
「確かに、本当に美紀ちゃんが好きだから……香織は、本当のことを言い出せ無かった。 アイツらしいよ」
「でも、アンタは好きでも無い女に手を出して最低! 香織も……正直に言ってくれれば良かったのに……」
「素直に、本当の事を話せば。美紀ちゃんと香織の関係は変わらなかった? いや、きっと駄目になってた筈だろ?」
雄二が言った通り、どんな言い方で伝えても香織との関係はギクシャクしたものになったかも知れない。
「何だか……話が急過ぎて、気分が悪く成って来た。 まぁ……でも……香織の事は後で考えるとしても、アンタが最低の男だって事は変わらない」
「香織に手を出したから?」
「そうだよ! 香織の気持ちを弄んだ」
「そっか……でも、俺も香織には指一本触れてないよ」
混乱した頭が煙を上げている。
雄二が香織に手を出していない?
では、二人は恋人では無いの?
「嘘! 香織はアンタの事を色々話してくれたよ。性格や外見だけじゃない……つまり……」
「つまり?」
「つまり……身体的な特徴とか」
「それは、内腿の黒子とか脇腹の切り傷とか……裸の時にしか見えない部分の事?」
「それよ! アンタが香織に手を出してた証拠よ!」
「確かに香織は知ってる筈だよ。だって、兄妹だから」
「えっ? えっ? エェッーーー!」
ホワイトアウトする。
白い世界。
放心とは、この事だ。
私は完全に停止しそうな脳の働きを取り戻したくてテーブルにあった飲み掛けのビールを一口で飲み干した。
「い、も、う、と」
「えぇ? つまり……」
「そう、俺は美紀ちゃんが不倫してるオヤジの息子だよ。似てるだろ?」
確かに似ている。
雰囲気は違うが、雄二と新一を形成する骨格はきっと同じ遺伝子から出来ている。
強引なところも、それを嫌われないように仕向ける軽い言葉と、たまに見せる真剣な眼差し。
似ている。
確かに似ている。
「でも……何? ほら……アンタ……」
私は勢いよく立ち上がったが、言葉を繋ぐ事すら出来ずに不様に立ち尽くした。
「美紀ちゃんが好きだったオジサンは、俺のオヤジなんだよね」
雄二が苦笑いしながら答える。
「私は……」
その先の言葉が出ない。
「そうだね……色々、今すぐには理解出来ないだろうから、明日まで返事を待つよ」
言って雄二は立ち上がると店を出て行った。取り残された私は腰砕けに同じテーブルに座り込んだ。
それにしても、無理がある。
私は手にしたいと足掻いていたものの重さに怯えて思考を停止させて空になったグラスを見詰めた。
暫く後、店員が焼酎のお湯割りを持って現れて、会計を雄二が済ませた事とラストオーダーに焼酎のお湯割りを頼んでいた事を告げた。
私は、出された香りの強い焼酎を一口で飲み干した。
脳内は理解できない出来事に停止している。
それでも、口内に広がる焼酎の甘くて切ない薫りを感じて声も出せずに泣いた。
(おわり)
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