きすあと
愛人の仁志が触れた場所に、微かな熱が滞留しているような錯覚が続いていて、野方彰子は握り締めた軽自動車のステアリングから手を離した。
熱が宿る場所に指を這わせると数時間前の情事を、つい先程の様に感じる。
記憶として、頭が思い返すのではなく体躯が感じるのだ。
「仁志……」
独白して、唇を舐めてから現実に目覚める。自分の立場を理解させる。
妻である自分。
母である自分。
彰子は大きく深呼吸して車庫の奥に置かれている息子の自転車を眺めた。白濁とする感情を、日常に引き寄せ離脱していた世界から帰還する。それが、二週間に一度の儀式に成ろうとしていた。
そもそも、仁志が年下の上司というありふれた存在から、淫猥な自分をさらけ出せる唯一の存在に成るのに時間と言う概念は必要では無かった。
「野方さん、綺麗だから」パート先の忘年会終わりで、同僚達に取り残され、一人タクシー待ちをしている彰子に、仁志は冗談のように呟いて唇を奪った。躊躇する瞬間さえ与えてはくれなかった。だが、それは甘いチョコレートが唇の上でゆっくりと溶けて行くような拒絶出来ない感覚で、彰子の中に自然に浸透していた。
そして、最近に至っては同僚の目を盗み、社内でも社外でも互いを求め合っている。二週間に一度は、調整員達との打ち合わせの為に福岡まで出張する仁志に合わせて休みを取り、仁志と共に福岡へ向かう。調整員との打ち合わせが終わると、翌日の朝まで仁志に翻弄されるがままの自分を味わう。
全てを忘れる時間。
彰子は、目を閉じてその瞬間を取り戻そうとした。だが、助手席に投げ置いていたスマートフォンが発する震動音がそれを拒む。着信の表示は、夫の裕だ。
「はい……」
短く答えて返事を待った。
「あぁ、彰子。今、どこ?帰って来てるの?」
何気無い会話のつもりだろうか、夫の言動全てに彰子が辟易しているのだとまでは考えていないように聞こえる。彰子は、もう一度息子の自転車を眺めてから答えた。
「着いたよ。今、車庫の中」
「そうか……毎週、大変だな……出張で朝帰りなんて」
「二週間に、一度だよ……それに、仕事だから仕方ないし」
探るような言葉に一々腹立たしさが増す。嘘に気付いているなら素直に浮気してるのか?と問われた方が、楽な気さえする。
彰子は、運転席のパワーウインドを下げると、煙草を取り出しライターを擦る音がスマートフォンに届かないように火を着けた。小さく吸い込んで、暫く息を止めてから窓の外に紫煙を吐き出す。メンソールの爽快感だけが先に喉元を下りて、その後に不快な苦味が同じ場所に張り付いた。
「で、なに?」
尖った声色に成るのを抑えられなかった。追い詰めれば、追い詰める程、夫の粘り付く様な執着心が増すことは理解出切ているのに自分を抑えられない。
彰子は飲み掛けの缶珈琲に煙草を落とすと、小さくため息を吐いた。
「ごめんなさい。眠いのよ、疲れてるから。」
言ってから後悔した。惰性で繰り返される言葉が、夫婦と言う危ういバランスで保たれた 世界を崩壊させるきっかけと成る可能性を高める。
しかし、同時に自分に必要なものは伸二を想う淡い熱だけだとも感じる。それは、真夏のアスファルト路面の熱の様に、視覚で感じなくとも決して容易く消滅したりはしない根深いものだ。裕子は、再度ため息を吐いてから訊ねた。
「ねぇ、疲れてるから家に入って寝たいの。切っても良い?」
「あ……あぁ、ごめん。それじゃ、帰ってから話せるかな?」
「多分」
「分かった」
これだけ短いやり取りでさえ、上手く演じる事の出来ない自分に苛立つ。スマートフォンを助手席に投げ置く。仁志との関係が公に出来ない今はまだ、不自由無く生活する為に夫の力が必要だ。
彰子は、再度小さくため息を吐いた。
それにしても、首筋の辺りが熱い。仁志が触れた部分が痛いほどに熱を帯びている。それも、表皮ではなく体躯の奥がチリチリと痛む程に熱い。彰子は右手でその部位を撫でたが特に何か傷があるようには感じられない。
「痛い……」
思わず独白して、今度はサンシェードに設置された小型のミラーを使い、その部分を確認する。
「何?」
彰子は身を乗り出して更に、その部分を注視した。内出血で出来たキスマークに見えるが微妙に違う。
「文字?」
キスマークに見える楕円形の部位を注視し続ける。確かに文字が浮き上がっているように見える。直径2センチ程の楕円形の中に収まった小さな四つの文字。彰子は更に目を凝らしそれを注視し続ける。そして、飛び上がるように仰け反ると運転席のシートに身を預けた。
直ぐにスマートフォンを取り出し仁志の番号を呼び出す。
何度、発信を繰り返しても返ってくるのは電話会社のアナウンスのみだった。
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