せいくらべ
「私と、何回セックスしたか覚えてる?」
釜田香織が、フライドポテトの赤い紙容器を見詰めて呟いたので、僕は飲み掛けのコーラを吹き出しそうになって必死にそれを堪えた。
「えっ?……あ、当たり前だろ? でも、どうして?」
予期せぬ問いに狼狽しながらなんとか言葉を繋いだ。
「ん……別に意味無いけど」
言って、いつもの様にポテトを紙ナプキンの上に並べる香織。
「意味無いって……」
僕は並べられたポテトの小さな方を摘まむと、途方にくれながら訊いた。
「だって私達、不思議な関係でしょ?」
僕とは逆の大きい方のポテトで、指揮棒よろしく僕を指しながら香織が言った。
確かに僕と香織は不思議な関係だと言える。
半年前。
僕と香織には恋人が居た。
そして、僕達は互いにその恋人の友人だった。
香織の気持ちは聞いた事がないので本当の所は分からないが、少なくとも僕は香織が好きだった。
「中里が、美樹と別れたのどうしてだったの?」
「美樹から聞いてるだろ? 香織こそ三橋と別れた理由。俺は聞いてないぞ」
牽制の為に投げた嫌味のつもりで僕は訊いた。
このまま香織の言葉を浴びれば、悪い病原菌のように増殖する無意味な欲望に呑み込まれて、数時間後には悪夢をみているに違いない。
「私は、中里が好きだったからだよ」
あっさりと答えた香織の顔を僕は暫く見詰める事が出来なかった。
「違うだろ? 三橋の浪費癖に愛想を尽かした。だろ?」
誤魔化すようにポテト数本を頬張り、無理矢理コーラで流し込んでから聞き返した。
「中里は、美樹の浮気癖に堪えられなく成った。自分も浮気してた癖にね。しかも、恋人の親友と……」
舌を出して片目を閉じる香織。
「それは香織も同じだろ?」
「私がセックスしたのは、別れてからだから大丈夫!」
僕は半ば自棄になって訊いたが、香織は全く動じていないようだ。
「なっ……なんだよ。今日は、やけに絡むな……ってか、どうして今さらこんな話?」
「私、新しい彼が出来たの」
言って、飲み物に手を伸ばした香織の唇が艶やかな光をおびている事に気付いて僕は急に香織に大人の女を見た。
僕と香織の関係に契約や束縛は無い。それと同時に、色も形も無い。
僕も香織も、恋人と別れてから互いを恋人として扱った事はない。
僕達は自由だ。
気が向けば連絡を取り合い。こうして食事をしたり、映画やショッピングに出掛けたりする。
しかし、体は重ねない。
香織を抱いたのは、香織が三橋と別れた数日後と、僕が美樹と別れた日の二回だけだ。
「そっか……おめでとう……だよな、とりあえず……」
馬鹿げた言葉だが他に言葉が出て来ない。
「そう、おめでたいの」
香織が微笑む。
「おめでたいのか……」
僕はカラカラになった喉から、無理矢理に声を絞り出す。
「違う?」
真っ直ぐに見詰める香織の視線を受け止められない。
「違わないよ」
僕は単細胞丸出しで、不安から来る怒りに任せて呟いた。
「怒った?」
僕の変化を楽しむように香織が囁く。
「別に、怒ってはいないさ」
僕は駄々を捏ねる子供の様に言い捨てた。
「怒らないの?」
まるで子供の母親のように香織が訊く。
「意味分からないよ」
思考の回路は破裂寸前で煙を噴いている。
「分からないの」
「だから……どうしたの? 何が分からないの? 今日の香織は変だよ」
僕は、すがるように香織を見た。
「私達、ちゃんと付き合った事無いよね」
香織は僕の視線を真っ直ぐに受け止めている。
「だって、そんな事……香織は望んだりしないだろ?」
「中里は、どう思う?」
「香織は……俺と……どうしたいのよ?」
「さぁ? 良く分からないな。でも、考えたら私達……変だよね? 絶対変だよ」
「だから、何が言いたいの?」
もはや僕に言葉を生み出す能力は残ってなどいない。
香織の言葉に、すがるしか道は無いような気がした。
「分からないよ。分からないけど、中里に何かを伝えたいの」
香織の言葉に、僕はうなだれた。
「分からないの?」
僕は訊いた。
「分からないよ?」
香織が答えた。
ファーストフード店の僕達以外の存在が消滅して僕と香織だけの空間になる。
沈黙の二人の視線の先で、油まみれのフライドポテトが背比べをしている。
口に入れてしまえば、どれも同じ味で長さも太さも関係無い。噛み砕かれ飲み下されるだけ。比べる事に意味など無い。
それでも、香織と僕は互い違いの場所を好んで選ぶ。
規則的な手順を好んで選ぶ。
「彼は……良い人?」
僕は、沈黙に堪えきれなくて一番聞きたくない事をなぜか訊ねた。
「悪い人では無いよ。でも、良く分からないや」
香織の微笑みが、内臓の一番敏感に痛む場所で奇妙な化学反応を起こし、酷く切ない痛みを発しながら僕の中で暴れる。
「でも……好きだから。付き合う……そうだろ?」
重ねる無謀な挑発。
やぶ蛇だと分かっていても、確めずにはいられない弱虫な自分に嫌気が差した。
「うん……多分ね……」
歯切れの悪い香織の言葉が、物事の真実味を増す。痛みが増幅して行く。下らない自尊心が素直な言葉を否定する。僕は暗闇の中で手探りで無くしたコインを探す道化師。必死な道化師程、哀しいものは無い。
どうやら、映画のようなハッピーエンドは期待出来そうに無い。
「好きなら、良いんじゃないかな? 香織の幸せ? それが俺の幸せ? みたいなとこあるからさ……」
それだけ言って言葉が詰まった。
「そっか……ありがとう」
香織が呟く。僕は言いたい言葉をのみ込む。
僕と香織の単純で複雑なパズルはピースが足りない。
僕は、それを知っていながらパズルを解かずにはいられない。
道化師は道化師でしかないのだから。
「香織は……俺……と……」
僕は闇を照らす光を、記憶の断片から見出だそうと足掻く。
半年前
「私は、狡いかな?」
僕の腕の中で香織が囁いた。
「香織は、悪くない」
言って香織の髪を撫でると甘い香りがした。
余計な事は訊かないと、自分自身に言い聞かせる。
三橋と別れたばかりの香織から連絡を受けた時に、僕には期待に似た予感があった。
狡いのは僕の方だ。
「中里は、優しい」
「どうして?」
「何も聞かないから」
「そんな事より香織の髪の甘い匂い。好きだよ。興奮する」
「前言撤回!やっぱり、中里は変態だ!」
言って、シーツに潜り込んだ香織を愛しいと思った。
香織を僕だけのものにしたいと思った。
それでも、言うべき言葉は出てこない。
伝えたい想いは苦しい程溢れているのに、それを伝える勇気が無い。
もしも、想いが目に見える形を成すものなら、僕の想いは歪な形に違いない。
「香織は……」
言い掛けて止めた。
僕には、香織が幸せになる事を止める権利は無い。
あの時と同じく、伝えたい事を伝える勇気が無いだけかも知れない。
「中里は大丈夫!」
香織が呟く。
「大丈夫って、なにが?」
「直ぐに、好きな人出来るよね。彼女でも無いのに余計な心配か……それに、今時誰も言わないよねこんな台詞。でも、大丈夫!中里は私が居なくても大丈夫!」
香織は泣いていた。
曖昧な関係に決別する為の涙の雫が香織の頬を伝う。
僕に抗う術は無い。
「そっか……俺は大丈夫なのか」
僕の囁きが、香織に届いたかは分からなかった。
話すべき事は終わった。とでも言いたげに香織がテーブルの上の紙くずを無言で片付ける。
僕は言葉をなくして香織の所作を見詰める。
時間が止まる事はない。
どんなに悲しくても、どんなに苦しくても時間が止まる事はない。
時間を止めたいなら時間と云う概念を全ての生き物から消さなければならない。
同様に、永遠なんてものも存在しない。
香織との関係が、ずっと続くと勝手に考えていた僕は完全なる馬鹿だ。
「行こっか?」
片付けが終わりする事が無くなった香織が席を立つ。
「どこに?」
「映画!約束してたでしょ?でも、最後だから私が選んだ映画で良いでしょ?」
香織は明るい声で答える。
「好きにすれば良いさ」
言ったつもりだったが声になっていたかは分からない。
僕は、自分でも気付かぬ内に泣いていた。
俯いて涙を隠した。
最後の最後に、最悪だ。
「ごめん、ここで別れよう」
なんとか、絞り出した声で言った。
「大丈夫?」
香織が俯く僕を覗き込む。
「大丈夫……」
答えたが、もう僕には香織を見詰める事さえ出来なかった。
「それじゃ……行くね……」
香織の気配が遠ざかる。
代わりに周囲の好奇な視線と猥雑で無遠慮な声が甦る。
テーブルの上には僕が欲しかった写真集があった。
1ヶ月前
「中里、廃墟の写真集なんて好きなんだ? 何が面白いの? 私には理解出来ないな……
」
パソコンのディスプレイに見入る僕に呆れた表情で香織が訊ねた。
「壊れてから気付く大切さとか、美しさとか、手にしている時には見えないものが香織には分からない?」
僕は笑いながら聞き返した。
「私は壊れてからの美しさより、壊れないようにしたい」
香織の視線は美しかったころの廃墟を見ているように思えた。
僕は、テーブルから跳ね上がるように立ち上がり走り出した。
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