べっど

【 僕 】

 僕は、上司である篠さんのベッドで目覚めた。

「篠さん?」

 白濁とした思考が膜を張る空間。 隣で寝息を発てる、篠さんの長い睫毛が微かに動くのを見詰めて呟く。

「起きたのね」

 視線に気付いたのか、篠さんは目を閉じたまま言った。

「起きました……って、篠さん? これって……」

 僕はシーツの中を覗き込んだ。 微かに見える暗闇に目を凝らす。 自分は勿論、篠さんも衣類を纏わない姿。 昨夜、何があったのかは容易に想像出来た。

 だが、記憶は霧の中……

 瞑れる程、呑んだつもりは無かったが昨夜の事は一部を除いて思い出せない。

「アハハ……やっちゃったね」

 篠さんの綺麗な瞳が見詰めていた。

「の……様ですね……」

 僕は、なぜか酷く恥ずかしくて、目を逸らして天井に吊るされた照明を見た。 味気のない極々普通の蛍光灯。 何て名前なのかは知らないが、淡い光を放つ親指程度の小さな電球がゆったりとした時間を作り出している様な気がした。

「気持ちよかった?」

 暫く黙ったまま、その光を見詰めていた僕に篠さんが唐突に訊いた。

「え? あっ、はい!」

 僕は何と答えて良いか解らず、曖昧に微笑みながら答えた。

「嘘つき」

「いやっ、本当に」

「アハハ……ゾエは、嘘が下手だな?」

 篠さんが上半身を起こして手を叩きながら言った。 僕は言葉の意味を探るより、目の前で揺れる篠さんの均一に突き出た乳房に意識が集中する。

「何で?」

「駄目だったじゃん」

「え?」

「ゾエの、ソレは、昨夜不調でした! アハハ……」

 篠さんがシーツに隠れた僕の下半身を指差す。

「マジ?」

 素早くシーツの中を覗く。

「マジ!」

 篠さんが更に声をあげて笑う。

「すいません……」

「オイオイ! 川沿佑樹くん、謝るな! それは駄目だ!」

「すみません」

 再度、恥ずかしくて俯いて頭を掻いた。

「もう一度……してみる?」

「え?」

 今度は篠さんが俯いている。

「だから、もう一度する?」

 篠さんが俯いたまま、小さく囁く。 その仕草が酷く可愛くて、僕は何度も頷いた。

「やっぱり駄目!」

 言ってシーツの中に潜り込んだ篠さんを、それごと抱き締めた。 温かく軟らかい感触と甘い篠さんの香りに鼓動が速くなる。

「でも、今……」

 僕は、シーツの中に潜り込んだ篠さんの脹らみを、両腕で優しく包み込む。

「言ったよ! でも、駄目!」

 シーツから飛び出た篠さんの手が、それを包み込む僕の手を叩く。

「何で?」

 思わず反射的に訊いていた。

「ゾエは、彼女いるじゃん」

 シーツの中から籠った声が響く。

「篠さんも、彼氏居ますよね?」

 僕は叩かれた手を、所在なく宙に置いたまま弱々しく訊ねる。

「そう! 居るよ!」

「からかわれてますよね? 僕」

 ふてくされて呟く。

「多分ね」

「まぁ……いいや……」

 篠さんの言葉に仕方無く頷き、自分もシーツにくるまり篠さんに背を向けた。

「ゾエは、いつもそれだ! 直ぐに諦める! んで、投げ出す! だから、昨日の青木工業の契約も危うく白紙に成り掛けた!」

 篠さんのタメ息混じりの声がする。 そして、思い出した。 昨夜の飲み会も、僕の失敗を補ってくれた篠さんへのお礼だった。

「ハイハイ! 篠さんは、凄いですよ! 僕のような、駄目人間は篠さんに迷惑掛ける事しか出来ませんし」

 背を向けたまま言い放つ。少し語気を強めたのかも知れない。 篠さんは部下の反攻を許さない。 僕は言ってから後悔した。

「あぁ、何だか腹立ってきた!」

「すいません!」

 間髪入れずに言った。 向き直ると篠さんが見ていた。 大きな瞳が、仕事の時と同じく熱を帯びている。

「ゾエ! 良く聞きなさい!」

「なんですか? 篠崎課長」

 僕は諦めて両手を上げて降参の仕草を大袈裟にして見せる。

「あ――、それ、マジでムカつく! ゾエは、基本的に子供なんだよね? ってか、女の腐った奴だよ。いや、中途半端でヤル気の無い、駄目人間だ」

「なんか……酷いな……」

「だから……」

「だから、何ですか」

「だから……放っておけない……」

 沈黙が続いた。

「なに? それ?」

 僕は、堪えきれず訊いた。

「だよね……自分でも解んないのよ……美形な訳でも、可愛い訳でも、仕事が出来る訳でも無い、どちらかと訊ねられなくても駄目人間の部類に悠々入るゾエの事が、どうしてこんなに好きなのか自分でも解んないのよ」

 篠さんの唇が動いて僕の唇に触れた。僕は静かに目を閉じた。



【 私 】

 私を揺らす時に発する、荒い息使いが好きだった。 子供のように、乳房に触れる仕草を愛らしく感じていた。 重なった時に囁く愛の言葉に、安らぎを覚えていた。

 だが、今は何も感じない。インクの切れたペンで文字を書くように、空虚で正体の無い時間が過ぎて行くだけだ。

 私は、隣に眠る仁志を見ながら何度も考えていた言葉を呟いた。

「終わりにしようか?」

 微かに揺れる仁志の肩の動きが止まる。 寝入ってはいなかったのだ。

「仕方無いかな……」

 仁志の声が静かに部屋に響く。

 瞬間。

私の瞳から意味も無く涙が溢れた。 哀しい訳でも。 悔しい訳でも。 寂しい訳でも無かった。 ただ、空っぽの私の心の中で、何度も、何度も、仁志の声が響いていた。

「簡単だね?」

 私は嗚咽しながら訊いた。

「君が、そうしたいなら僕には何も言えない」

 私に背を向けたまま仁志は答えた。 優しい答えにも取れなくも無いが、そこに愛情があるかと問えば、微塵も存在してなどいない。 仁志にとって私との関係が終わることなど、煩わしい手荷物を手放したに過ぎない。 仁志の人生と云う旅は、妻と言う名の案内人が導いてくれる。

「奥さんに、バラそうかな?」

 私は、心にもない毒を吐く。 仁志が、全てを見抜いて私の毒を鼻で笑う。 そのまま、ベッド脇にあるテーブルから煙草を取り火を点ける。 紫煙が昇り静かに消える。

「君も、悪い事ばかりじゃなかっただろ?」

 何処かで訊いた様な台詞。反論する気にも成れなかった。

「新しい娘が、もう居るの?」

「なに?」

「新しい彼女が居るの?」

 自分でも、信じられない程の無意味な質問。 質問の答えになど興味がある筈も無く。 ただ、仁志の謝罪を期待している愚かな自分。

「僕には、妻が居るんだぞ?」

「私とは、関係を持ったでしょ?」

「そんな下らない事を言うような女じゃ無かっただろ? 君は?」

 仁志の言葉に、止まりかけていた涙が又溢れ出す。

「最低だね」

 吐き出した言葉に意味なんて無かった。 私は、ベッドから降りて外を眺めた。小さく瞬く無数の光が海沿いの国道を右往左往している。光は何を乗せて、どこへ運んでいるのか。 不意に、部下が手掛けているプロジェクトが思い出された。 大量の資料を持ち、右往左往している部下の姿が目の前の光に重なったのだ。

 私は、仁志に声も掛けずに着替えると部屋を出た。 ロビーまで降りると、直ぐにスマホを取り出す。 着信の履歴を呼び出す。 事務所から連続した着信とメッセージが残されていて、再生すると聞き慣れた声が響いた。

「篠さ――ん! やっちゃいました……ヤバイかも……これ聞いたら連絡だけ下さい。ってか、やっぱ助けてくれます? 篠さんの好きな酒。いくらでも、奢りますから! 助けて! 多分、僕は徹夜なんでたす………」

 私は、途中で途切れるメッセージを、もう一度聞き直しながら微笑んだ。

「予知能力者か」

 ひとりごちて歩き出す。歩きながら、差し入れのお菓子をどの店で買うか考えた。



【 僕 】

  篠さんが触れた場所に熱が集中する。篠さんの指先が、唇が、僕の全てを暴いて行く。 白濁の浮遊感と、甘美な焦燥。

「篠さん………」

 篠さんと重なり、何度も夢中になって名前を呼んだ。真っ白になって弾けた。

「私……久し振りに感じた……」

 篠さんが囁いた言葉に、浮遊感に支配され鈍った意識が覚醒する。

「なんか、エロいよ篠さん」

 篠さんの頭の下に腕を差し込みながら言った。心地よい重みと温もりに、心の中の何かが溶け出す。甘い息苦しさを感じて切なく成る。そして明確な自覚を持つ。恋の始まりを感じる。

「そんな、意味じゃ無いよ……バカッ!」

 篠さんが、シーツを引き上げ顔を埋める。僕は、そのシーツを引き下げると篠さんを見詰めて訊いた。

「気持ち良かった?」

「こら!」

 篠さんが僕の額を指で弾く。僕は篠さんがしたのと同じように同じ場所を弾き返す。

「った――!」

 暫く僕達は、まるで小学生のように同じ行為を繰返し、それと同じ回数弾けるように笑った。

「本当に、久し振りにだよ?」

「感じたのが? 篠さん不感症なの?」

 篠さんの独白に、笑いながら答えた。

「そう……感じ無く成ってた……ゾエが考えてるような、イヤらしい事じゃ無くて……っさ」

 篠さんが、伝えたい事は何となく解る気がした。 でも、それと同じく解らないフリをした方が良いような気もした。

「意味、わんないな……」


「難しいな……ゾエに理解出来るかな――?」

「あっ、又、馬鹿にしてますよね? 完璧」

 篠さんを指差し、問い詰める。 篠さんだけが視界の中で煌めく。

「違うよ。女にしか解らない事があるでしょ? 多分?」

「ん……それは、篠さんが女だったらでしょ?」

 僕は、完全に篠さんを感じた気がした。そして、篠さんも僕を感じている気がした。

「んだ? 挑発的だなゾエ! さっきまで、私のテクで悶えてたクセに」

「確かに!」

「調子狂うな……ゾエと居ると」

 篠さんの表現に、不意に小さな棘が心の奥に刺さる。ハッキリとしない痛みが胸を締め付ける。訊きたくも無い事を確認したく成る。傷付きたく無いクセに、傷口を見ないと落ち着けなく成る。

「彼氏が、素敵過ぎて?」

 言ってから、後悔した。

「残念! 違うよ……彼は……」

 それっきり、篠さんは黙り込んだ。ついさっきまでの時間が、嘘のように沈黙が室内に広がる。僕達は、天井で淡いオレンジの発光を続けている電球を見詰める。全てを、暴いてしまう程の強さの無い頼り無い光。でも、少なくとも僕には、その弱々しい光が心地良かった.

「僕、捨てられたんです。つい最近……」

 至極自然に、僕は誰にも明かしていない秘密を吐露していた。

「嘘!」

 静けさを弾き飛ばすように篠さんが言った。

「嘘付いても、仕方無いでしょ?」

「嘘、嘘、マジ?」

「だから……マジですよ」

「なんで?」

「そんなんまで、訊きます? このタイミングで? 嫌です、教えない」

 言ったが、本当は話してしまいたかった。

「聞きたい!……話して!」

 篠さんが、僕の頬を両手で包み込み覗き込む。ワザと、出来るだけ間を空けてから答えた。

「二股だったんですよ……んで、僕は……赦せなかった……最後に、彼女は僕を選んでくれたけど……僕は……」

「赦せなかった?」

 真っ直ぐに見詰める篠さんに、全てを暴かれて行くような気がして、僕は大袈裟に頷いてから答えた。

「器の小さな男ですから」

 暫く、僕を見詰めていた篠さんが、僕を抱き寄せてから呟いた。

「私ね、この時間が好きなの」

「この時間って?」

 訊きながら、篠さんの柔らかな肌が触れた場所から優しい何かが広がっていくような気がする。

「初めて、お互いを感じた後で交わす、打ち明け話?」

「なんか話が、どんどん変わるな――」

「女は、そんな生き物なの」

「ですね。それで?」

「それでね。打ち明け合った秘密を互いに共有する。ゾエの秘密を、私は知ってる。それって嬉しい事でしょ?」

 言って笑う篠さんを、僕は強く抱き締めた。



【 僕 】

「ごめん……無理だよ……」

 僕の言葉に、美紀は弾けるように泣き出した。

「嫌……だよ……仁志さんとは終わったから……私、謝るから、ごめん……ごめんなさい」

 嗚咽しながら謝罪する美紀を、愛しく感じた。でも、それ以上に憎くて虚しかった。

「無理だよ……」

 言って、部屋の鍵をベッドの上で泣きじゃくる美紀の側に置いた。

「ごめんね……佑樹……駄目だよね。ゆる……し…てくれないよね?」

 言葉に成らない美紀の謝罪に胸が締め付けられる。想像出来ない程の強さで、何かが僕の内側を締め付けている。劇痛とは呼べない。でも、鈍痛ではない息苦しさに似た痛みに叫びだしたくなる。

 手にした温もりが失われる喪失感。裏切りを赦せない下らない自尊心と、繰返し襲う失うことへの恐怖。美紀を傷付けても尚足りない渇いた復讐心。ボロボロになり懇願する美紀を見下ろす、僕ではない僕が存在していた。

「駄目だよ。俺は恋人や家族の居る相手とは寝ない。しかも、上司と寝るなんて。会社で、毎日会う奴とお前は寝てたんだよ? 今、お前を赦せても、この先信じ続ける事なんて出来ないよ」

 吐いた言葉が、どれだけ美紀を傷付けても心に出来た空洞に何かが満たされる訳ではない。そんなことは分かっていた。

「ごめん……ね……」

 美紀の謝罪が欲しい訳では無かったが、言葉は鋭く美紀の心を抉るものばかりを選らんでいた。元には戻れない。 自分が欲しているのは美紀の従順さや愛情の深さでは無く。 傷付けられた自尊心の為の復讐。

「最低だね……」

 自分に吐いた言葉が、美紀を傷付ける言葉に変わる。価値を無くした言葉達が、僕と美紀の溝を更に深く広げて行く。僕は、小さなベランダから見える味気無い街並みを見下ろした。僕の見ていた世界は脆く崩れてしまったのに、目の前の昨日と変わらない風景に叫び出しく成った。そして、僕には僕以外の何をもコントロールなど出来ないって事に思い至って笑っていた。泣きながら笑っていた。

「俺は、お前が……」

 それ以上、言葉に成らなかった。口を開く度に、美紀を傷付けてしまうきがした。いや、本当は傷付けてしまいたかった。怒鳴り声を張り上げ、罵倒したかった。でも、出来なかった。僕は、美紀の中にある僕を傷付けてしまいたくなかった。そして僕は、狡猾さだけを磨いた大人の様に、優しい振りをして黙ったまま美紀の部屋を出た。



【 僕 】

「僕で、良いの……?」

 僕は、隣で眠る篠さんを見詰めて呟いた。愛情なんて、きっと、どれも同じだ。空のグラスに注ぐ少しだけ苦いビールと同じだ。酔いつぶれるまで飲めば、グラスの中が空になるのは必至だ。 しかし、舐めるように飲むだけでは酔うことは出来ない。どちらも、嫌なら。通りに並んだ自販機で清涼飲料水を求めれば良い。飲み干しても、又直ぐに新しい自販機に巡り会う。通りには、無限に自販機は並んでいる。昼間だろうが、深夜だろうが、通りだろうが、職場だろうが、誰に咎められる事なく渇きを癒せる。コインさえ有れば無限と言って良い程に簡単に手に入る 。

 僕の隣で、寝息を発てる彼女にしても同じだ。愛情なんて形の無いものが、何故愛しいのかなんて誰にも正確に表現出来ない。手にした悦びや、失った哀しみが、一人一人違う様に。僕でなければイケない理由を彼女に訊ねても、彼女を苦しめる以外のなにものでもない。僕は、篠さんが外した腕時計をベッドの縁からとり見詰めた。

 プレゼントなのだろうか、有名なブランドの小さな時計は小さな秒針を必死に動かし、正確に時を刻もうとしている。もしも、世界中に存在する時計全てを巻き戻せる事が出来れば時間は戻った事に成るのか? そもそも、時間なんて概念自体が切り刻む事が出来ない連続したものなのに、必死に秒針を動かすのは何の為なのか? 多分、人は自分の為だけに何かを切り取る。時間だって、空間だって、生命だって、愛情だって、同じだ。裏切り、労り、騙し、与え、奪う。

 それでも、僕は淡い感情に導かれて、篠さんに恋をして、篠さんを感じて、自分だけのモノにしたくなる。

「それでも……それでも……」

 僕は、泣きながら篠さんを抱き締めた。篠さんの身体から発せられる、香水とは違う甘い香りに酔いしれ。泣きながら抱き締めた。

 僕には、それしか出来なかった。

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