第4話
「どこが悪いかもわかる?」
「血液ですね。でも、大丈夫。すぐ良くなりますよ」
「まあ」
この目には、何か患っている人間の身体はその箇所だけが際立って見えるのだが、彼女の身体は流れる血が燃える燐のように見える。かつての正常な悪魔の目であったなら美しい、どろどろとした艶のない漆黒に見えただろうに、今の俺にはその白い輝きがチカチカと目に痛い。この光が彼女の全身を包んでたった一個の光になったとき、彼女の命は費えてしまうが、それも見る限りもうすぐだろう。
「あなた、本当にあれね。思っていることと、反対のことを言うよね」
またしても図星を付かれたんで、噴き出してしまう。
「そうなんです。いつからか、そういう性分になってしまったもので」
「そうなの。それじゃあやっぱり、あなたは、天使様じゃないね。天使だったらそんなひどい嘘つかないもの」
大概、こういうときはどんなに肯定したくても出来なかったものだが、どういうわけかこの度は大きく頷くことができた。
「それじゃあ死神か、悪魔さんかしら?」
また素直に頷くことができた。裏表なしの、本当の揺るがない真実なら鏡の効果で真逆になることはないのか?
「そう。お迎えに来たの?」
今度は首を横にふる。
「ならよかった。まだ、お墓決まってないもの」
シワの深い、長い指が手元の操作スティックを押した。力の入りきらない、白い腕と指先がその時ひどく美しく見えた気がした。
それは"死"の美しさではなかった。
「うーん、やっぱりお寺はいいね」
でも神聖すぎて落ち着かなかった。
閉堂間際まで観て回っていたくせによく言う。辺りはほんのりと夜に近づいてきている。
白い半月を見上げて女は深く息を吸い込んだ。
「充分楽しめましたか?」
「まさか」
女はまだつき合って欲しいところがあると言う。
「最初の小学校へ連れていってくれない?」
ふざけんなてめえ!
と、かつての俺ならすぐにそう思って、すぐに言葉にした。
「あいよ。おばあちゃん」
ババアは当然のごと両手を膝に置いた。
なんと図々しい。だがまあ、見る限りそうだろうな、と俺は思っただけだった。半日も経たないが、この女を見ているうちで一番嬉しそうな、心惜しげな、もの悲しいような表情をしていたのが初めの場所だったからだ。
静かに、細くて重い椅子をその方向へ押す。
「でも、みんなが心配しているかしら」
姿勢も変えずに小声で呟いたのが聞こえたが、無視して椅子を押し続けた。
陽が落ちきったばかりの、夜の紺と境目に残る昼の黄色が混ざった色が空に広がり、遠くから悪魔の王の金星がこちらを覗く。あれほど騒がしかった学校庭は静かになりつつあったが、居残りで何か運動しているガキどもの声が、それでも大きく聞こえる。
いまだに名を言いもしないその女は年相応に疲れたふうで、せっかく連れてきてやったのに下ばかり向いている。
病院へ連れていこうか?と聞いたがその返事はなかった。
「死んだら」
「ええ」
「私、どうなるかしら」
「どうって?」
「……良いとか、悪いとか。そういうのが本当にあるのかと思って」
「そうですねぇ……。死ななきゃ分からないですよ」
「あなたは、どっちだと思う?」
膝を包む手の指先が少し色づいた。
「当然、貴女みたいに何一つ悪いことをしてない人が地獄へいくはずがない。私なんかととは違う」
「そんなはずない。何か1つは、悪いことをしている。だいたい私、孫を家から追い出してしまったもの」
価値観の違いから思わぬ深いイザコザになり、まだ若い孫娘をたいそう傷つけてしまったらしい。その日のうちに孫は家を出た。そのせいで娘まで家を出てしまった、と女はぽそほそと呟いた。
「悪魔の私に懺悔したって無意味ですよ」
「悪魔だっていい。どうせじきに私もそうなるんだもの」
「ならないですよ」
「ううん、なる」
「大丈夫ですよ。あなたはきっと悪魔なんかにはならない」
「なる」
ぎゅ、と手を握りしめても女の手には力もろくに入らなかっただろう。始終潤みっぱなしだった老いた瞳から、涙が溢れて落ちた。
声をあげるわけでもなく、それでも子供のような泣きかただった。
涙を拭い肩を抱いてやると鼻も拭いて、と少し笑った。
「俺がそうはさせませんから、安心してください」
どうせ死に行く人間だ。抱き締めてでもやろうか、と思ったときだ。
「ヤヨイさん!!」
白衣にジャケットを羽織った女達が誰かをそう呼んだ。腕の中の老女はそれを聞いて、小さく反応した。
「そこの人!そのおばあさんから離れなさい!」
「ヤヨイさん大丈夫ですか!?」
老女は駆け寄ってくる白衣の集団に返事もせず、俺の耳元に口を寄せた。
「ここまで面倒をみたんだ」
最後まで言うことを訊いてやろう。
着ていたジャケットを広げて老女に被せ、俺はその場から消え失せて見せた。
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