第22話「扉」
「だからここの魔法式は、基本形と合わせた変形型だと言ってるだろ。」
「基本……形……。ちょっとおれ、そういう難しい言葉あやふやにだからさあ。」
教科書を指差していたフレイヤの手が、一瞬アヤタカの視界から消えた。
次の瞬間フレイヤの手は、裏拳となってアヤタカのわき腹に突き刺さっていた。
「はい……ごめんなさい、もう少し簡単に教えてください……。」
まったくと言わんばかりの態度で足を組み替えるフレイヤ。
アヤタカは再度手にしていた教科書を、フレイヤが見やすい位置になるように開いて見せた。
馬車ががたんっと揺れるたびに、読んでいたところがどこだったか見失ってしまう。
「……でも、やっぱりいつも勉強してるだけあるね。おかげで大分分かったよ。」
「そうか。」
「うん……。あーあ、もっと早く聞けばよかったかも。また今度テストがある時に……」
そこまで言って、アヤタカは言葉を止めた。
目だけでちらりとフレイヤの方を見る。フレイヤは何をするわけでもなく、アヤタカが持って見せている教科書に目を落としていた。
「……早く聞けばよかったも何も、教えるような間柄じゃなかっただろ。」
「そりゃごもっとも……。ん? それはつまり、今はどうだってことかな?」
「は?」
にんまりと笑って煽るアヤタカ。冷え切った反応のフレイヤ。
アヤタカは苦笑いで言葉を吐いた。
「……まあね、そうくると思ってたよ。」
「どうでもいいから、さっさと公式を覚えろ。」
「あいっ」
アヤタカは自分の方に教科書を持っていき、そのまま指をごちゃごちゃ動かしながら暗記を始めた。
その様を何となしに見ていたフレイヤが首を右に向けると、馬車の小窓から、蜜のような夕焼けが流れこんできていた。
何となく手でそれをすくってみる。その器を崩すと指の隙間から、光は音もなくこぼれ落ちていく。
何度も、何度もフレイヤはその仕草をして、やがて手を止めて小さく握った。
「……おい。」
「え?」
フレイヤは、依然として外に顔を向けている。
彼のヴィンテージワインの色をした髪の毛が、夕日の光に透けていた。
「どうせ、もうじき記憶なんて消える。だからお前が、いくらさっきの私をみっともないと思おうが、すぐに消えるんだからな。」
ほんの少しの沈黙。
「恥ずかしいから忘れてってことだね」
そう言えば燃やされるか、裏拳がとんでくることをアヤタカは知っている。言いたくても言わない。心の中でしか言わない。
アヤタカは、ソファの背にもたれかかった。
そうやって、こっちを見ないフレイヤの方を眺めて ふっと笑った。
とうとう自分は、「顔を奪われて、嫌じゃないのか」と聞くタイミングを逃した、と。
アヤタカは思った。言っても相手が忘れてくれるから、だからだろうか。今自分が言おうとしているのは、どうせ相手は忘れてしまうからなのか。自分でも分からない、分からないままだけど。
「じゃあさ、おれもひとつ秘密を言っていい?」
フレイヤが、アヤタカの方へ振り向いた。
「どうせ忘れるんでしょ? もののついでにさ!」
アヤタカはいつもの笑顔に似た、とても無邪気な笑みを浮かべた。しかしそれを見ていたフレイヤは、それが何故か泣き顔のように感じた。
その雰囲気にほだされたのか、フレイヤは頷いた。
彼を見ていると、何故だかこの申し出だけは応えなければいけない気がして。
そして自分は、この柔らかい空間を壊してはいけないと。
聞くことを受け入れたフレイヤに、アヤタカの顔がぱぁっと明るくなる。
そのはずなのに、フレイヤはその笑顔がとても弱々しいものに見えた。
アヤタカは口を開いてから、困ったように視線を落とした。言葉を探し、なんと言えばいいのかを考えあぐねる。フレイヤは椅子に座りなおして、それを気長に待つことにした。
ようやくアヤタカの言葉が決まったのは、路地を曲がった後だった。
きっと時間としては、そこまで長い時間では無かっただろうけれども、固まっていた時間は動き出した。アヤタカは指を組み、どこでもない遠くを見てぽつりと喋りだす。
「おれはさ、物心ついた時から、自分の感情に周りを引きずらせちゃうんだ。例えばおれが嬉しくなったら周りが嬉しそうな雰囲気に包まれて、逆に悲しくなったらみんな悲しそうになる。 フレイヤの感じた違和感、おれが感情を抑えてるっていうのは、そういう理由。普段はともかく、本当に大事な場面でそうなったら、困るから……。」
いつもの調子の、いつもの口調。
話す内容と、話しだす前の様子とちぐはぐだった。
――何故なら、だって、それは……
「普通の、ことじゃないのか、それ。」
アヤタカの緑の目が、さっとこちらに振り向く。差し込む夕日の光が彼の頬の辺りを照らし、目元は影に覆われ見えなかった。
フレイヤはそのまま言葉を続ける。自分の声が、いつもより柔らかいものになってしまっていることも分かっていた。
「それだけお前の機嫌は周りへの影響力が強いのか。だから周りに、自分に合わせて無理させないために抑えているんだな。」
目元が影に隠れていなければ、読めていたかもしれなかった。
「そうまでして周りに気を使うことないだろう。多かれ少なかれ、それは誰でもそうだ。お前、そんな杞憂を――」
最後に発した音の形をしたまま。フレイヤの唇は、固まった。
――何だ、それは。その顔は、何だ。
アヤタカの目から、全ての光が失せていた。
魂が、砕けたような顔。
――取り返しのつかないことをしてしまった。
フレイヤは針の止まった頭の中で、はっきりとそう感じた。心配することなんてない、それは何も特別なことじゃない、普通のことなんだ。思いっきり感情だって出してしまえばいい。そう言ったつもりなのに。
――何故そんなにも絶望をした顔をしているんだ。
――それとも、それは――
「おい……」
――どうして、何が違った、何が不満でそんな顔をしているんだ?
「アヤタカ!」
「えっ」
怒鳴ってしまった声に、アヤタカはきょとんとした声で返してきた。その声は、あまりにも場にそぐわなかった。
目をぱちくりとさせて、アヤタカは言った。
「フレイヤもそのあだ名で呼ぶの!?」
空気が、ぱんっと柏手を打たれたかのように変わった。
「こういうおふざけ、乗らなそうだと思ってたんだけど! や、別に好きに呼んでいいけどさあ!」
アヤタカが太陽のように明るく笑った。明るい声で、いつも通りの彼が話す。
――はぐらかされた。
気付いても、言葉にできなかった。彼のあまりにも自然な笑顔に、空気に、飲まれそうになる中、それを繋ぎとめたのはあの一瞬の顔。どんな顔で隠そうと、あの顔は脳裏に焼き付いている。
そして今向けられている笑顔が、笑顔だからこそ悲しかった。
まるで、扉がばたんと閉まるように。
フレイヤは彼の本心から、永久に閉め出された気がした。
戸惑うフレイヤをよそに、彼は相変わらずいつもと変わらない、顔が見えない、像が掴めない笑顔を見せる。繰り広げられる明るい話は、まるで相談した行動自体を、消しゴムにかけるかのようだ。薄れさせて、消そうとして。
確かにあの時、アヤタカは扉をほんの少し開けてくれた。信頼して、自分を心の内側に踏み込ませてくれようとしてくれたはずだった。しかし自分はそれに失敗した。もう開かない、もう二度とこの扉は開かれない。
何を間違えたのか分からない。
――そこまでひどいことを言ったつもりは無い。たかだかそれくらいのことで、どうしてあんなにも悲しそうな顔をする。言って欲しかった絶対の言葉でもあるのか。そんなもの、私が分かるわけないだろう。なのに何でそこまで悲しそうな顔をするんだ。
――ああ、こいつ自分が特別だと思いたかったのか。意外と恥ずかしい所もあるんだな、そうなんだろう? そっちの方が可愛げがあるし、それどころか大そう普通で、結構なことじゃないか。
――そう思いたい。なのに、何故私は今こいつに対して、こんなにも遠くに感じるんだ? 違う。私がこいつを見ている時に感じた違和感と、今の私の見解では。
――何故私は今、孤独を感じているんだ。
いくつもの言葉がせめぎ合い、混線した感情となって入り乱れる。この決まりの悪さを、フレイヤは怒りでごまかしたかった。
途中で頭に浮かび、でも怖くて言葉に変えて浮かべられなかった懸念。
――それとも私に向けたそれは、失望なのか。
アヤタカとフレイヤを乗せた馬車が宮殿に到着するまで、もうそれほど時間は必要なかった。深い青の海に、夕日の黄金が散らばっている。まさしくそれは、ラピスラズリの海。その宝石の響きにフレイヤは、もう行くことのないだろう学び舎を思い出し、迫る時間に焦りを覚えた。
思いを馳せ、気がそれていた。だから、言われるまでそれに気がつかなかった。
「フレイヤ……何だか、宮殿が……変だ。」
アヤタカが、真剣味を帯びた声で囁く。彼の顔は左の窓に向けられていて、亜麻色の髪がその景色を邪魔していた。
フレイヤはぐっと身を前に乗り出し、アヤタカの頭を押しのけるような形で窓から顔を出す。
一見、いつもと何ら変わりのない宮殿。
大理石でできた列柱廊、そしてそれを支える無数の柱たち――
そこでフレイヤは、眉をひそめた。
廊下に見える、たくさんの青。そして時たまちらつく、銀の輝き。一糸乱れず動き回る、青の集団……。
――青地に、銀の刺繍ローブ!
――国王直属の、家来の衣装!
フレイヤは息を飲んだ。何故あいつらがこんな所に。そう思うと同時に、頭の中で銀光がちらつく。
アヤタカの手に記されていた、銀のエンブレム。
フレイヤは、嫌な予感に全身が痺れた。
――エンブレムの偽装は重罪だ。
自分の声が頭に蘇る。
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