第20話「お泊まり」
月光の美しい夜。花のような甘い香りが街を覆っていた。
月光を浴びてシルエットとなった高い建物には、一体の男と思しき精霊体が必死に腕を伸ばしている。
細い体を宙に浮かせ、そのまま落ちて行かんとする美しい女に。
女の美しい金の髪が空に揺らぎ、月に照らされ、儚く美しい光をくうに散りばめる。
女も男へと手を伸ばしている。
男の指が女に触れたと思った。
しかしもはや、触れたそれは花びらだった。女の姿は花びらへと変わり、風にさらわれて甘い香りとともに夜空へと身を投げた。屋根から身を乗り出し過ぎた男はそのままバランスを崩し、足を踏み外して屋根からずり落ちる。
男の視界は下へ下へと落ちて行き、最後には地面へ――……
アメジストのように深い紫の瞳。持ち上げられたまぶたの長いまつ毛のすき間から、濡れた瞳がすっと覗く。
清潔なシーツはいい匂いがして、なめらかで気持ちが良い。頬をすり寄せるようして、枕に乗せていた顔の位置をずらし、その弾みで視界に入ったものがあった。
ふさふさした、亜麻色の髪の毛――
そこでフレイヤは少しだけ目が覚めた。
体を半分だけ起こすと、遠くの方で床に座って、本を読んでいる精霊体が見えた。
あれはアヤタカ、太陽の精霊体。
その視線に気付いたアヤタカがフレイヤの方に振り向き、さっぱりした笑顔を向ける。
まだ少し眠たげなフレイヤは、首をかしげて呟いた。
「……あれ、お前……。そんな髪の色だったか……?」
朝だというのに、空気にはもう暑さを感じる。
獣の毛で作られた櫛で髪を撫で付けるフレイヤに、教科書を持ったアヤタカが後ろから話しかける。
「だからー、寝ぼけてたんだって。えーと何だっけ。ユメ? 夢でも見てたんじゃないの?」
フレイヤは黙ったまま、ややムスッとした表情で身なりを整えていた。
昨晩、晩餐を終えた二体はフレイヤの部屋へと向かうことにした。
彼の部屋は広く、家具などについている装飾もそれは豪華で美しかった。白い家具に金の装飾、そしてその上に透けたような淡い紫の布が掛けられている。
それこそ光の間で見た布のようで、実はフレイヤも光の間の同じ場所に行っているのでは無いかと勘ぐったりもした。
天蓋付きのベッドはものすごく大きかった。側転の練習すら軽々とできてしまうほどのベッドの広さ。そしてとても柔らかそうな枕や布団に、アヤタカは寝そべってみたいなあとも思って見ていた。
普段であったら、すぐに「どーん!」と叫んでベッドに飛び込んでいたものの、相手が相手なためそれはやめておいた。
部屋には花の香りでもまいているのか、とても良い香りがしている。その芳香にアヤタカは うへえと思いながら、匂いの出所を探したりもして楽しんでいた。そうこうしているうちに、シックな色合いの木でできた本棚が目に入った。
アヤタカは「あっ!」と叫んだ。フレイヤの方を振り向いて、人差し指をくるくるさせながら聞いてみる。
「あの、フレイヤ。教科書ない?」
アヤタカは、未だに宿題のことを気になって仕方がなかった。
フレイヤは学校から運んできたらしい荷の中から爪弾き学の教科書を無理やり取り出し、アヤタカの方へ無造作に突き付けた。
ありがとう! と言ってから、アヤタカはおずおずとごめん、紙とインクもない? と付け加えた。
乱暴な手付きで探すフレイヤに縮こまりながら、アヤタカは暗くなった窓の外を見つめ、やけに騒ぐ獣の鳴き声に首を傾げた。
真っ白な羽ペンを手にしたフレイヤ。アヤタカはそれを見て若干驚いた。
――お金持ちそうなのにどうして羽ペン? 奴隷だから?
フレイヤの方は、振り向きざまに口を開いた。
「お前、もしかして今から宿題をやるつもりか?」
アヤタカは何故そんな当たり前のことを聞くんだ、と思いながらフレイヤを見つめ返した。
フレイヤもまた、そんなアヤタカの様子に首を傾げながら言葉を付け足した。
「だから、そろそろ寝る時間だろと言っているんだ。」
アヤタカは尚更きょとんとした。眠りにつくのは人間だけだけの行動であり、精霊体には無縁のこと。睡眠というもの自体、アヤタカはここ最近知ったものなのだ。
何を言っているんだ、とアヤタカが聞こうとしたその時。
海の果ての方からとてもか細い、ハープを爪弾いたかのような一音が響いてきた。
たった一音だけが長く長く響き渡り、消えかかるとまた海の彼方から新たな一音が放たれた。
さざ波の音が途絶えた代わりに、その音が海辺の街に鳴り響く。
まるで、海の真ん中で誰かが海を弾き鳴らし、その余波が波となり海岸に押し寄せているかのようだった。
それを聞いているうちに、アヤタカは何とも奇妙な感覚に襲われた。
意識が遠のいてく。
どんどん、どんどん体の感覚が無くなっていった。
そして、長い意識不明から帰ってきた時、アヤタカは自分が「生きてる!」と思った。
「いやー、あれが『眠る』って体験なんだなー。 おれめちゃくちゃ怖かったんだよ? 死ぬと思ったもん! にしても、あの音を聞いたら眠っちゃうって何? これ、この国特有のなんか? にしてもこれって危なくない? その間に殺されたりしたら……。」
立て板に水、と言わんばかりにアヤタカはべらべらと話し続ける。フレイヤはハンドベルを鳴らし、アヤタカのことを鏡ごしに見つめて話す。
「……あれは海鳴りの楽器と呼ばれる現象で、 海の近くにいる者ならば誰でもあれを知っている。 知らなかった……というのなら、 内陸の民か。」
「おっ、 正解! おれ、山の方の谷間にある村で生まれたんだー。海鳴りの楽器かあ……。謎だらけの現象が、この世界にはたくさんあるんだなー。」
あの音は精霊体を眠りに誘う。しかし極度の興奮状態や眠りに対抗する魔法、その音が鳴り止むまで耐えることで、海鳴りの楽器に反発することができる。しかし耳を塞いでも効果はない。音を聞くというよりは、その音と共に来る波動が眠りを誘ってくる。
そして獣にも効果は無い。何故なら獣は眠るからだった。眠る生き物にあの音は作用しない。
そして海辺の民は、その音と押し寄せる眠気を受け入れていることが多い。何故なら睡眠は、光の間に行くことと同等の生気を養えるからだった。光の間へと続く場所は滅多に無い。そのためそれが無い者たちの生気を養う方法は、太陽の子ならば太陽の光というように、自分のルーツからエネルギーをもらうことであった。しかし例えばオーロラなど、発生が稀なものに対しては気軽に生気を養えない。そして自分のルーツからエネルギーをもらう方法は、長い間生気を養うまで耐えなければならないなど、色々な難点があった。
その点眠りに身を任せてしまえば、自分にとっては一瞬で、更に毎日のように体力を回復できる。そのため眠りは生気を養うことにかけて良い手立てだった。
実際、内陸に住む者よりも、海辺に住み眠りにつく者たちの方が長く生きることができた。
「光の間と同等とか、意識が体から離れるあの感じ。 眠りってやつは、回復しに意識だけ光の間に飛ばすみたいなものなのかな……。なんか、ミザリー先生も似たようなこと言ってたし……。」
そうこうしているうちに、部屋の外からノックが聞こえ、扉が開いた。そこには二、三体の召使いと思しき精霊体がいて、滑車付きの台を押して入ってきた。
さっきフレイヤが鳴らしていたハンドベルは、 彼らを呼ぶためだったらしい。
召使いたちにぺこりとお辞儀をされ、アヤタカも思わず頭を下げる。
召使いたちは鏡台の前にいるフレイヤを囲み、 滑車台の上に乗せていた、高そうな油やら粉やらを手にする。
そのまま召使いたちは さっさっとフレイヤの髪を整えたり、やけに良い香りのする油をフレイヤの肌に塗ったりしていた。
ぽかんと見ているアヤタカに、フレイヤは しっしっと右手で払うような仕草をした。
アヤタカは大人しく、ふかふかしたクッションを抱え、宿題の続きに取り組むことにした。
ややもすると、召使いたちが持ってきた道具の片付けを始める音が聞こえた。 身だしなみを整え終わったらしい。そして丁寧に挨拶をして、 アヤタカの方にもひとこと挨拶をして去っていった。
フレイヤは身だしなみを整えられている途中、 服も選んでいたらしい。あのエメラルド色のヴェールは、今日はラベンダーのようなパープルに差し替えられていた。
しかし、アヤタカにはそれよりも気になるところがあった。
何とも言えない顔をして、アヤタカは切り出す。
「昨日も思ってたんだけどさ、化粧……してんの?」
フレイヤの目元が不機嫌そうに歪む。
「文句でもあるのか。」
「や、 いや……。でも、男子が化粧って初めて見たから驚いて……ね?」
化粧といえども、つけまつげやマスカラの類いではなかった。女性のための化粧とはまた違う化粧の仕方であったが、アヤタカにはどうも慣れない光景であった。
フレイヤは不機嫌そうな顔のまま、唸るような声を出した。
「驚いたのはこっちの台詞だ。外国の学校に入学することになって、聞くと男は化粧をしないらしいと聞いた。女も化粧をしているかどうかはまちまちで、更に場所によっては化粧自体が禁止だとか。私たちにとって化粧というものは当然の身だしなみなんだ。それをしないということは、私にとってかなりの抵抗があった。最近は割と、慣れてきていたがな……。それだけじゃない。学校……あそこには、汚い奴が多すぎる。」
「……や、汚いは言い過ぎだよ! フレイヤやここの精霊体たちがきれいすぎるだけだから!」
「そうではない! 身だしなみに気を使わなさ過ぎるという意味だ! ……肌も荒れていて、髪もぼさぼさの者が多すぎる。お前もだからな。」
さくりと刺さったその言葉。アヤタカは否定できず、不満げにゆるく下唇を噛んだ。
それと同時に、あー、だからかあー。と、ここだと言わんばかりに声を漏らしてみる。 フレイヤはアヤタカの様子を見て、目に不審の色を浮かべる。
「おれさ、初めてフレイヤと会った時言ったよねー。『唇になんか塗ってるだろ、ピンクだもん』って……。あれ、やっぱり何か塗ってると思ったあー。」
フレイヤの顔がぴくりと反応し、じとりと睨む目に変わった。
「変なことばかり覚えている……。ああ、そうだ。噂では聞いていたが本当に誰も化粧をしないものかと疑わしかったからな。していたよ。……でも、色は付けていなかったからな。」
「……まあ、そのうち本当に色に関しては自前だったってことはおれにも分かったけどさ。 やっぱ、あれは何か塗ってると思ったよ……。」
フレイヤは フンと鋭く息をついてそっぽを向いてしまった。そんなフレイヤに、アヤタカは気になっていたことを問いかける。
「……にしても、どうしたの、その格好……。どっか出かけるの?」
「は?」
フレイヤは呆れ気味な声で言った。
「お前がストロ先生に説明しに行くと言ったんだろう。お前も早く用意しろ。」
白い街並み。船の乗客が飲んでいた、色とりどりのジュースやカクテルのような色をした花や葉っぱの色。
フレイヤの隣にいるアヤタカは、オミクレイ国の服に身を包んでいた。
あの後の身だしなみは大変だった。
まずフレイヤや使用人が持ってくる服装が華美なもの、アヤタカが自分で着るのは恥ずかしいと思うようなものばかりだった。勧められた何着かの服をアヤタカはやんわりと断って、その中で一番簡素な服を選び出した。そして化粧。アヤタカは頑なに化粧を拒み続けた。お互いの妥協点として下地のクリームだけはつけられた。アヤタカはアクセサリーもまた同様に嫌がった。
結局、今オミクレイ国の白い町並みを歩いているアヤタカの身だしなみは、いつもより若干こぎれいになっていた。しかし彼にとって大切らしいラインは守った。
朱色のダボっとしたズボン。上は白い布を巻いて服にしたもので、腰のあたりを帯で縛っていた。そして左手首には、赤い石のはめ込まれた黄金のブレスレットと、同じく金色のきゃしゃな二本の輪っこ。そのアクセサリーはフレイヤがつけているものと似たような形だった。
爪には油が塗られて、何やらつやつや輝いている。おまけに、小さな赤い石を中指の爪に貼り付けられた。
嫌だなあ、恥ずかしいなあと思いながら服で拭こうとしたが、この服自体借り物だったため、そうもできずに指で爪を強くこすっていた。
「おい、往生際が悪いぞ。」
フレイヤに肘で脇腹のあたりをどすんと突かれ、アヤタカはゆっくり彼の方に振り向いた。
「よく分かったね……。じゃあ、街を出て早々悪いんだけど、ちゃんと口添えしてちょうだいよ……?」
「考えておく。」
「えっ……。」
いよいよ朝の太陽はじりじりと灼けるような熱を含み始め、暑さによる汗なのか冷や汗なのか分からない汗がアヤタカの背筋を撫でた。
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