プロローグ3
午後からの授業が始まる時、いつも隣の席にいる裕樹の姿がなかった。 教師から逃亡しているか、説教を受けているかのどちらかだろう。
なんだかんだで裕樹のいない教室での授業の時間はとても退屈で、いつの間にか僕は眠ってしまっていた。
次に目が覚めた時、窓の外の風景はオレンジ色へ姿を変えていた。 グラウンドでは運動部が身体を動かし、青春の汗を流している。
僕は、せめて人並みの青春を送れていたのだろうか。
ふとそんなことを思った。
自分がどんな過去を送り、どんな生活を送っていたのだろうか。 誰に話しても自慢できる学園生活を送れていたのか、それとも、一人ぼっちで寂しく学園生活を送っていたのか。 僕自身でもわからないのだ。
「よっ」
声は隣の席から聞こえてきた。 いつからそこにいたのだろう、裕樹は椅子に座り、漫画本を読んでいた。
「いつ戻ったの?」
「ついさっきだよ。 ったく、ずっと逃げ回っていたから疲れたぜ」
「大変だったね」
「完全に他人事だな!」
「今度からはもっと簡単な罰ゲームにするよ」
「いや、それじゃあつまんねぇよ! もっときつくていいぜ!」
「逃げようとしていた奴が何を言う」
「知らんなぁ」
「ねぇ裕樹」
「あ?」
「僕たちって、本当に死んでいるの?」
それは何度も口にした言葉だった。
この世界にいる人間はみんな死んでいる。 それは僕がこの世界で初めて意識が覚醒した時に説明されたことだった。 今、外のグラウンドで身体を動かしている人間も、校内で僕たち生徒のために頑張る先生も、みんな心臓のない生きた人間なのだ。
「やれやれ。 またその話か」
それは目の前にいる裕樹も例外ではない。 彼もまた死人なのだ。
「俺たちは死んでいる。 俺は死ぬ瞬間の出来事を覚えている」
そう言うと裕樹は自分の頭を数回人差し指で小突いた。 この脳みそがしっかりと覚えている、と言いたのだろう。
「実感が湧かないんだよなぁ」
「当たり前だ。 いきなり 「お前はもう、死んでいる」 と宣告されて納得できる人間がいるかよ。 どこの世紀末の世界だ」
僕がこの学園にやってきてから数か月。 生きていた時と同様、この世界にも四季というものがあり、今は夏だ。 きっとこれから秋を迎え、僕の苦手な冬を越さなければならないのだろう。
「シキよ」
「何?」
「その――記憶は戻らないのか?」
裕樹は訊きにくそうにそう言った。
「うん。 まだ思いだせない」
「そっか」
僕には過去――すなわち生きていた時の記憶がない。 もちろん、箸の持ち方や二足歩行のやり方などは覚えていることから僕がその昔、人間だった可能性は極めて高いと思われる。 僕が生きていた時代に四季があったことは覚えている。
でも、本当の自分の名前はわからない。 どのように生活をしていたのか、結婚していたのか、子どもはいたのか、など詳細な記憶はほとんど残っていない。
「どうしてシキにだけ記憶がないのだろうなぁ」
この 「シキ」 という名前を付けてくれたのは圭司だった。 名前が思い出せない僕に圭司は 「いろいろな季節の出来事を思い出せるように」 と思いを込めて名付けてくれたのだった。
「僕にもわからない。 どうして僕には過去の記憶がなくて、裕樹や圭司たちにはあるのか」
他のみんなには生きていた頃の記憶が残っているらしい。 だけど僕にはない。 この違いが今の僕の最大の疑問なのだ。
「でもなシキ。 どうせ死んだのだったら、すべての記憶を失っていてほしかったと俺は思う」
「どうして?」
「それは――」
「己の罪を覚えているかだろう?」
威圧的で重厚感のある声が静かな教室に響いた。
「……高見先生」
教室の入り口に立っていたのはこの学園で 「転生官」 と呼ばれる役職に就いている高見将秀先生だった。
「人間悲しいもので、忘れたいと思う過去や記憶ほど、脳に根が張ったように忘れられないものだ」
ゆっくりとこちらに向かって歩く高見先生。 身長は特別高いわけではないが、普段から近寄りにくい、話しかけにくい独特の雰囲気をまとっている。 それは今も変わらず、黒いスーツ姿の男がそれよりも黒い漆黒の渦を周囲にまき散らしながら歩いているように見える。
「高田裕樹」
「……」
「返事はどうした」
「……はい」
「己の罪を、口にして言ってみろ」
もどかしいほどにゆったりとした口調だが、この人に対して口を開くという行為はとても神経を使う。
「……密告、です」
「具体的には」
「弟を国に売りました」
僕はこの時、初めて裕樹の罪を知った。
この学園にいる生徒には死人という共通点の他に、生きている時に罪を犯したという共通点が存在する。 何かしらの罪を背負い死んだ人間がここに集められる。
そう、僕らは死人であり罪人でもあるのだ。
「よろしい。 決して己の罪を忘れようと思うな。 この学園は、貴様ら罪人の更生施設なのだからな。 そしてそのために、過去の記憶は残っている。 たとえその記憶が己の首を絞めようが、その呪縛から解放されることはない。 死んでも償えない罪というものはあるのだからな」
「くっ……」
裕樹の唇は震えていた。 何も言い返せない悔しさからか、それとも自分の過去を思い出してのものか、その両方なのかはわからないが、今にも下唇を噛み切ってしまいそうだ。
「シキよ」
「は、はい」
突然名前を呼ばれ、身体中に緊張が走った。
「貴様は幸運だな。 過去の記憶がないのだから。 己の罪がわからないということは、ある意味では幸運なのかもしれんな」
そう言ってゆっくりと両目の視点を僕から裕樹に移した。
「どうして、僕には記憶がないのでしょうか」
転生官であるこの人なら何か知っているかもしれない。 今まで何度もそう思い、話しかけようとしたが、今日のこの瞬間までそれができなかった。
「知りたいのか?」
「はい」
「……ふぅむ。 やはり貴様はおもしろいな」
「え?」
「いや、こちらの話だ。 無い物ねだり、という言葉は知っているか?」
「はい」
「貴様は過去の記憶を、罪を思い出したいと思っている。 だが、この学園にいる人間のほとんどは過去の過ちを忘れたいと願っている。 そうだろう? 高田よ」
「……」
裕樹は何も答えない。
「人間の頭の中にあるものは、そのほとんどが、嫉妬と後悔だ。 自分が年をとると若い者に対する嫉妬の念が湧き、最近の若者は、などと批判、攻撃をしたくなる。 そしてそうなると、若い頃にもっとやれることがあったのではないかと後悔をする。 それは何も人として全盛期を超え、あとは衰えるのを待つ人間だけが思うことではない。 お前の記憶も、そういうもので溢れているかもしれないのだぞ?」
それでも過去を知りたいか、と先生は僕に問う。
「はい」
答えは決まっていた。
「ほぉ。 理由を聞かせてもらいたい」
「記憶はそれまで自分が生きてきた軌跡であり、証です。 それを忘れるということは生きていた証を失うことを意味します。 僕は自分にどんな罪があり、どんな人間だったのか思い出せませんが、それよりも生きていた証がないことの方が悲しく、悔しいと思います」
「生きた証、か」
先生は目を閉じ、何かを考え込んでいるようだ。
「ふっふ」
笑い声?
「言うのぅ。 深い。 いや実に深いご高説をありがとう」
言葉だけを聞くと褒められているように思えるが、実際にはバカにされているということがすぐに理解できる。
「いつか、その証が戻ると、いいなぁ」
そしてゆっくりと僕たちに背を向け歩き出した。
「しかし――」
教室の扉の前で一度足をとめ、振り向かずに言葉を続ける。
「きっと、絶望、するぞ、シキよ」
その言葉を最後に、先生は僕たちの前から姿を消した。 そしてその瞬間、永遠のような長い時間、息をとめていたかのような疲労感が僕を襲いかかった。
「大丈夫?」
心配なのは裕樹の心だった。 あれだけ言われ放題だったのだ。 さすがに辛いのではないだろうか。
「平気だよ。 慣れているからな」
慣れている、という短い言葉の意味から推測すると、もしかしたら裕樹は何度か同じような目に遭っているのかもしれない。
「俺の罪について話していなかったな」
「いや、いいよ。 興味ない」
僕は素っ気なく言う。
「そっか」
当然、興味はある。 ないなんてことはない。 だけど、それを聞くにはあまりにもタイミングが悪すぎると思ったから、僕は裕樹の過去について深入りはしないでおこうと思った。
「しっかし、あいつ本当に趣味が悪いよなぁ」
「転生官、だよね?」
「あぁ。 あいつの目的は一人でも多くの人間の罪を償わさせて、転生させることだ。 あいつはこの学園にいる奴ら全員の過去や罪を知っている。 そりゃ性格もひん曲がるよな」
この学園について、僕が知っていることはもう一つある。 先生が言っていたように、この学園は罪人の更生施設だということ。 のんびりと青春を送ったり、死後の世界を満喫したりする場所ではなく、あくまで罪を償い、転生させることが目的の場所。 そしてその試験管、判断をするのが転生官である高見将秀なのだ。
そしてもう一つ。 この世界の選択肢として、転生官になるという選択肢がある。 この学園のほとんどの人間は転生を目指していると思われるが、一部転生官になりこの世界の残ろうとする人間もいるのだ。 転生官になると、この世界で永遠に生きられる。 要は永遠の命を与えられるのだ。 まぁでも、その転生官試験の合格者はここ何十年もの間、生まれていないらしい。 その最後の合格者こそ、高田将秀なのだ。
「あー腹減った! 寮に帰ろうぜ!」
先ほどのことはなかったかのように裕樹は大声でそう言った。
「そうだね」
僕も同調し、学園から出ることにした。
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