ドーナツの穴
子供の頃からドーナツの穴を集めるのが趣味だった。
初めてドーナツを食べたのは小学2年生のとき。その頃の僕はひどく体が弱くて、心配した母親が知り合いの医者のところへ僕を連れて行った。病院で一通りの検査を受けた後、僕と母は帰り道の途中にあったドーナツショップへ入った。
そのドーナツショップは日本で一番有名なチェーン店で、僕はそこでチョコレートドーナツとオレンジジュースを頼んだんだと思う。
そこで食べたドーナツのおいしさに感動した僕は、残ったドーナツの穴をこっそりと家に持ち帰って部屋に転がっていた空き瓶の中に入れた。
その後、病院に通うたびに母と僕はそのドーナツショップに立ち寄った。そして、そのたびに僕はドーナツの穴を持ち帰り、空き瓶の中に貯めていった。
中学に通う頃には小遣いを持って一人でドーナツショップに行くようになった。近所にある有名なチェーン店だけでなく、少し遠出してマイナーだけどその筋では有名なドーナツショップにも顔を出した。一緒に頼むドリンクはオレンジジュースからたっぷりとミルクを入れたコーヒーに変わっていた。
僕の部屋にあるドーナツの穴を集めたガラス瓶は2つ3つと増えていった。僕はそれを押入れの中にこっそりと隠した。
母親は僕が高校3年のときに亡くなった。葬儀の次の日、僕は母親と一緒によく来たドーナツショップに足を運んだ。僕はそこでチョコレートドーナツとオレンジジュースを頼んだ。
大学を卒業し社会人になる頃には、以前ほどドーナツショップに通うことはなくなっていた。それでも、出張先に珍しいドーナツショップがあるという情報を仕入れると、そこを訪れ、食べ終わった後のドーナツの穴を持ち帰っては家のガラス瓶に入れた。
ドーナツの穴は一見するとすべて同じように見えるが、実は一つとして同じものはない。オールドファッションの穴とフレンチクルーラーの穴はもちろん違うし、同じ種類のドーナツの穴でも僕くらいになると、縁のぎざぎざや円の歪み具合からひと目でそれがいつ食べたものか区別することができる。
「ふーん、そんなもんなんだぁ」
彼女はちゃぶ台を挟んで僕の向かい側に三角座りをして座っていた。タオル地のパジャマを着た彼女は、風呂上がりの濡れた髪をバスタオルで乾かしながらエンゼルフレンチを頬張っている。
「はい、どうぞ」、そう言うと彼女は自分が食べたエンゼルフレンチの穴を僕に手渡した。僕はそれを受け取ると手元にあった瓶の中へ入れた。
「私には違いがわからないけどねぇ」
「慣れの問題だよ。たとえば、このドーナツの穴。これなにかわかる? これは二人で初めて行った動物園の売店で買った動物ドーナツの穴だよ。こっちがキリンでこっちがシマウマ」
「あ、思い出した。すごい真面目な顔して売店でドーナツ買ってるんだもんね。びっくりしたよ。私よりドーナツ目当てだったんじゃないの?」
彼女がわざとらしくツンとした表情をして言う。
「そんなことないよ。ただまぁ、あの動物園のドーナツは有名でそれで覚えてたんで、初デートの場所として提案してみたっていうのはあるけど……」
「デートかぁ。ふたりでいっぱいあっちこっちに行ったよね。そのたびに私はあなたのドーナツの穴集めに付き合わされてたわけだけれど」
「付き合って頂いてありがとうございます」
「ふふっ、まぁ、わたしもドーナツ嫌いじゃないし。別にいいけどね」
「でも、ここにあるドーナツの穴を見れば、そのときのことは全部思い出せるよ」
「ふーん、じゃあこれは?」、彼女は瓶詰めのドーナツの穴の一つを指差す。
「それはふたりで北海道旅行に行ったときのだね、富良野の牧場で買った牛乳ドーナツ」
「お弁当食べてたら後ろからひつじの集団に襲われたときね」、彼女がくすくすと笑う。
「そうそう。僕がお弁当を投げ捨てるように叫んでるのに、君が一向にそうしようとしないからひつじはずっと僕たちを追いかけてきた」
「だってあれ、限定のお弁当だったんだよ?」
彼女が頬を膨らませる。
「じゃあ、これ」
「それはデートの途中で君が怒って帰ってしまったとき。いくら電話しても電話に出ようしないから、僕が袋一杯のエンゼルフレンチを買って君の家に押しかけた」
「普通、喧嘩して仲直りしようって時に自分の好物買ってくるかな?」
「エンゼルフレンチは君の好物でもあったじゃないか」
そう、彼女はいつもエンゼルフレンチを食べる。
「あのとき、わたしダイエット中だったんだけど」
「君はダイエットする必要なんてないんだよ」
僕がそう言うと彼女は少し頬を赤らめて目を逸した。
「でも、あのとき……」
「そう、あのとき、僕は君にプロポースした」
「……それは、うれしかった」
彼女はぽつりと呟くと、照れ隠しのように別のドーナツの穴を指差した。
「次、これ」
「新婚旅行でハワイに行ったときに現地のドーナツショップで買ったやつだ。あのときは英語が通じなくて大変だった」
「私の方が英語喋れるのに格好つけて自分で注文するって言い張ってたときね。でも、あのあとこっそり英語の勉強始めてたよね」
「今なら旅行の時に不便しない程度には喋れるよ」
「そっか……」
「ニューヨークに有名なドーナツショップがあるんだよ。2年くらい前にオープンしたんだけど、ネットで取り上げられてすごい話題になってる。今度、ふたりで行こうよ」
「……それは無理かな」
「どうして?」
「だって、私はもう死んでいるんだもん」
彼女のその言葉を聞いた途端、僕の視界がぐにゃりと歪んだ。
「どういうこと? 現に君はいま目の前にいるじゃないか」
「私は一年前に死んだ。通勤途中に車に轢かれて。あなたは病院で息を引き取った私を見た。そして、火葬場で骨になった私を骨壷に移したこともあなたは覚えているでしょう」
「今の私はただの影。あなたの記憶で縁取られた心の穴を実体化した影にすぎないの。あなたが拡張現実空間にタグ付けし固定化してきたドーナツの穴と同じ」
「ドーナツの穴も君も僕にとっては現実だ。ちゃんと存在する現実なんだ。だいたい人間は感覚器官が得た情報を脳で再構築して感じているに過ぎない。それだったら、仮想現実を本当の現実と区別する必要なんてないじゃないか」
僕の言葉を聞くと彼女は小さく頭を振った。
「あなたが私のことを忘れないでいてくれることは嬉しく思う。だけど、私はもう過去の影でしかないの。仮想現実空間を永遠に彷徨う未来のない影。でも、あなたにはまだ未来がある。手で触れられる現実、触れて感じられる未来を大事にしなさい。ドーナツがなくなったら、そこにもうドーナツの穴は存在しない。そうじゃなきゃだめなんだよ。そうしないとあなたもこちらの世界に引き込まれてしまう」
「嫌だ! いまここにあるものが僕の全てなんだ! ここにあるもの以外、僕にとって価値なんてないよ」
「だめ!」
彼女はそう叫ぶと立ち上がった。
「はやく! やつらに見つかるまえに!」
そう言った彼女の指先は徐々に黒ずんでいった。僕には彼女の身体が二重にぼやけて見えた。しかし、僕にはそれが涙のせいなのかなんなのかわからなかった。
「私はあなたのことが好き」
彼女はにやりと笑った。しかし、その笑顔はもはや僕の知っている彼女の笑顔ではなかった。彼女は僕に覆いかぶさり、その黒ずんだ指で僕の頬を触った。彼女の身体は徐々に黒い影で覆われていき、その影は僕自身をも覆おうとしていた。僕は彼女から目を逸した。目の前にはドーナツの穴を入れたガラス瓶が転がっていた。ドーナツの穴からは黒いタールのようなどろどろが流れ出しそれが瓶から溢れ出ていた。黒いどろどろに僕の指が触れると指に激痛が走った。
「はやく逃げて」
その言葉を聞いて、僕は覆いかぶさった彼女の方へ振り返った。彼女の眼窩からも黒いどろどろが流れ始めていた。どろどろが僕の頬にぽたりと落ちると、僕は自分の肌が焼ける臭いを感じた。僕は恐怖で動けなくなっていた。もはや、彼女の瞳は真っ黒に染まっており、そこから黒いどろどろが際限なく流れ出て僕の顔にかかった。
「私はあなたと一緒にいたい」
僕はがちがちと震える歯を食いしばって、目を瞑って自分の手をめちゃくちゃに振り回した。すると、ガチャリという金属質の音がして何かが僕の身体から飛んでいった。それとともに僕に覆いかぶさっていた彼女の影が止まった。しかし、次の瞬間、彼女の影が黒いどろどろになって僕の顔を覆った。僕は必死に顔からどろどろを払いのけようとしたが、どろどろは僕の顔から全く取れず、やがて息ができなくなった僕はそのまま気を失ってしまった。
************
目を覚ました僕は自分の部屋の床に寝転がっていた。窓からは明るい太陽の光が差し込んでいた。ふと横に目を向けると、そこにはつるの部分がポッキリと折れた眼鏡型の拡張現実装置と空っぽのガラス瓶が転がっていた。
部屋には僕一人しかいなかった。
全てを失ってしまった。僕はそう感じた。
僕にはもうドーナツの穴が見えなくなっていた。そして、ドーナツの穴に紐付いていたはずの記憶も僕には思い出せなくなっていた。
僕は彼女のことを思い出そうとした。僕の記憶の中にある彼女の顔は朧げで彼女がどのように笑っていたのかすら思い出すことができなかった。
もはや僕には何も残されていなかった。
そこにあるのはただ漠然とした未来だけだった。
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