アカデミア2.1(または彼女の教師あり学習)
金曜の昼下がり、タナカがオフィスで本を読んでいると珍しくドアをノックする音がした。
「どうぞ」とタナカが返事をすると、勢いよくドアが開き、少女が飛び込むようにオフィスに入ってきた。
「タナカ先生! 先週提出のレポート課題持ってきました!」
入ってきたのはタナカの主催するゼミの受講生の一人、タカナシ・サチだった。タナカは手元にあった消しゴムを手に取ると、不意にタカナシ・サチに向かって投げつけた。
「痛っ! なにするんですか!」と、額に消しゴムをぶつけられたサチは驚いた顔をして叫ぶ。
「なんだ。実体だったのか。3次元投影ホログラムかと思った」
「先生、ホログラムはドアから入ってきたりしませんし、だいたい学生が大学のホログラム装置を使えるわけがないじゃないですか。わかってて言ってますよね?」
サチはそう不平をこぼすと、左手で額を擦りながら、右手で入ってきたドアを閉めた。
「学生が大学に来るなんて、せいぜい期末試験と卒業発表のときくらいだからね」と言うと、タナカは再び手に持っていた本に目を移した。
ドアを閉めたサチは一直線にタナカの方へと歩いていった。淡いパステルカラーのTシャツにライトグレーのパーカー、デニムのショートパンツといういでたちはカジュアルだが、彼女のスタイルの良さをいささかも損なってはいなかった。テンポの良い歩調にあわせて、ショートに切り揃えられた栗色の髪がさわさわと揺れる。
「レポートなんてメールかなにかで送ればよかったのに」とタナカは本から顔を上げることなく言った。
「いつも言ってますけど、せっかく指導教官が生身の人間なんだから会わないともったいないじゃないですか。それにメールだったら先生はレポート受け取ってくれないでしょう?」
「そりゃ、先週締め切りのレポートだからね」
気がつくとサチはタナカのすぐ横に立っていた。両手を体の後ろに回し、満面の笑みでタナカを見つめている。タナカは軽く溜息をつくと、読みかけの本を閉じてデスクに置いた。
「シルフィー! タカナシ君のレポートを受け取って」
タナカがそう叫ぶと、身長10cmほどの銀髪碧眼の妖精を模したアバターが3次元ホログラムでサチの前に投影された。
「タカナシさん、こんにちは。レポートをお預かりいたします」とシルフィーと呼ばれた妖精はサチに会釈をしながら言った。
「シルちゃん、こんにちはー! レポートは私の学内クラウドに今日付のファイルで置いてあるから先生のサーバーに転送してくれる?」
「承知いたしました」と言うと、シルフィーは微笑み、そして姿を消した。
「先生、せっかく来たんだからお茶くらい出してくれてもいいんじゃないですか?」
携帯端末でファイルの転送を確認したサチは、わざとらしいふくれっ面を作りながらタナカに言った。
「そこのコーヒーメーカー使っていいよ。もし飲むならついでに僕の分も作ってくれるかな?」とタナカは本を手に取りながら答える。
「はいはい、わかりましたよ」とサチはおおげさに不満そうな声を上げて、室内に備え付けられた流し台へと歩いていき、慣れた手つきで水とコーヒー粉をセットしてコーヒーメーカーのスイッチを入れる。
「先生、なんで紙の本なんか読んでるんですか? なんていう本?」とサチは流し台に背を預けながら、タナカに尋ねる。
「エルヴィン・シュレディンガーの『生命とは何か』。古典を紙の本で読むと普段とは違うインスピレーションが得られるんだよ。君も試してみるといい」
「シュレディンガーって20世紀の人ですよね?」
「そう。20世紀の理論物理学者。量子力学発展への貢献を讃えられてノーベル物理学賞を授与された」
「それで、そのシュレディンガーさんは生命とはなんだって言ってるんです?」
「ふむ。彼はこの本の中で、『生物は周囲の環境から負のエントロピーをとり入れて自らの秩序を維持している』と述べている」
「ピンとこないです」とサチが答える。彼女は流し台から応接用のソファに移動し、足を組んで座っていた。彼女の引き締まった長い足が手前にあるローテーブルに軽く触れ、コツンと音を立てる。
「彼の偉大なところは、分子生物学が創始される以前にこの本を書いて、生物が物理や化学の言語で記述できる可能性を提示したことだよ」とタナカはサチの方へと顔を向けながら言った。
「はぁ。でも、やっぱり生命ってなに?って聞かれたらよくわからないです」と、サチは納得できないように眉間にしわを寄せる。
「狭く定義すれば簡単だけどね。核酸によって自らの情報を伝達し、タンパク質によって恒常性を維持する、細胞を最小単位として構成される物体。でも、それじゃあ面白くない」
タナカは読みかけの本を再びデスクに置くと、サチの方へと体を向け、にやりと笑った。サチは肘を膝について手で顎を支えながら、気のない振りをして横目でタナカの方を見やった。そのとき、コーヒーメーカーがカチリと音を立てコーヒーの出来上がりを知らせた。
サチは淹れたてのコーヒーを2つのカップに注ぎ、そのうちの1つをタナカに手渡すと、デスクのタナカと向かい合うようにソファの肘掛けに浅く腰をかけた。
「先生の言う生命の定義って自己複製とかそういうやつですか?」
「そんな堅苦しい話じゃない。んー、例えば、君と僕は人間だ。人間は生物と言える。一方、シルフィーは人工知能だ。人工知能は生物じゃない」
「シルちゃん賢いですけどねぇ」とサチは人差し指を唇に当てながら呟く。
「知性の有無と生命は全く関係がないよ。今、我々が生物と認識しているものの大部分は知性なんてものを持ってないんだから」
タナカは徐々に早口になりながら話を続けた。
「それでだ、君はここからの帰り道に不幸にもトラックに轢かれてしまう。幸い一命を取り留めたが、両足を電動義足に代えることになる。それでも、もちろん君は生物だ」
「先生、非道いですね」と、サチは口を尖らせる。しかし、タナカは気にする様子を見せない。
「でも、君はおっちょこちょいだから、その後もたびたびトラックに轢かれ、ついには脳以外の全てが機械の体になってしまう。そのとき、君は生物だろうか?」
「……脳が残ってるなら、生物じゃないですか?」
「よろしい。では、次に僕が損傷した君の身体から細胞をちょろまかして多能性幹細胞を作る。そして、それを使って完璧な脳組織を作り上げ、それを君のものと同じ機械の体に接続する。これは生物?」
「んー、わからないです」
タナカの勢いにおされ、サチはコーヒーカップを両手で包み小さくなってしまう。
「さらにだ、僕は君の多能性幹細胞から分化させた神経細胞を使ってコンピュータを作り上げ、その上でシルフィーの演算プログラムを走らせる。そのとき、シルフィーは生物だろうか?」
「わかりません! 先生はなにが言いたいんですか!」
サチがそう叫ぶと、タナカはまたにやりと笑い、こう言った。
「最初の前提が間違っている。人間が生物である必要はないんだ」
暫くの間、サチもタナカも口を開かず、オフィスには静けさだけが残った。やがて、サチは手に持っていたコーヒーを静かに啜ると、カップを応接用のローテーブルに置き、タナカの方へと一歩近づいた。
「まぁ、幸いなことに私はまだトラックにも轢かれてませんし……。先生、いまこの校舎内に生物の人間は私と先生の二人だけですよね?」
「たぶんね。うちの学部で人工知能じゃないスタッフは僕だけだし、この時期にわざわざ大学までやって来る学生は君くらいだからね」
タナカがそう言うと、サチは先ほどまでとは違う妖艶な瞳でタナカを見つめ、さらに一歩、タナカの方へと歩み寄った。サチはタナカの真横に立つと、軽く腰をかがめ、自らの顔をタナカの顔へと近づけた。
「じゃあ、先生がいま私を襲っても誰も気づきませんね?」とサチはタナカの耳許で囁く。
「校内全域には24時間稼働の監視カメラが動いてるよ。君を襲ったりすれば即刻、懲戒免職どころか刑事事件だ」
「先生が自分のオフィスのカメラをハッキングしてるの知らないとでも思ってるんですか?」
サチはそう囁きながらタナカの手に触れる。その瞬間、タナカの体に異変が起こった。
突然、タナカの身体が硬直し、口をあんぐりと開けながら目は宙を見つめている。そのうち、タナカの身体の輪郭がぼやけ、ホログラム消失時に見られる独特の燐光が現れたかと思うと、椅子にはタナカと同程度の背格好をした球体関節人形が座っていた。
サチが呆然としていると、デスクに置かれたモニタの電源が入った。
モニタ内のウィンドウに写っていたのはタナカだった。タナカは真っ赤な生地にハイビスカスをあしらったアロハシャツを着ており、その後ろには抜けるような青空とエメラルドグリーンの海が広がっていた。
「先生、どういうことなんですか!?」
『あー、タカナシ君か。僕、先週から国際会議でオアフに来てるんだよ。その間、学内業務を自律型の疑似人格プログラムに機械人形を操作させてやらせてたんだけど、さっき緊急停止アラームがなってね、なにか問題があったかなーっと思って』
「えっ、じゃあこれは……」
『あ、やっぱり止まってる? まぁ明日から週末だし、月曜には日本に戻ってるからそのままでいいや。なにか用事があったらシルフィーに言ってくれればいいから』
「……わかりました」
『……あぁ、それからタカナシ君』
「はい?」
『君は間違いなく生物だから安心していいよ』
それを聞くやいなや、サチの顔は真っ赤に火照った。
「やっぱり、先生は非道いです!」
サチはそう叫ぶと、一目散にタナカのオフィスを飛び出していった。
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