万能細胞 (後編)

 その日、リョウヘイはいつもと同じように朝9時に研究所に出勤した。しかし、所内に入るとなんだかあたりが騒がしい。今まで見たことのない全身を防護服で覆った職員がそこかしこを歩き回っている。また、普段は自分達の研究室からめったに出てくることのない研究員たちがあちこちで立ち話をしている。リョウヘイは妙な胸騒ぎを覚えてオフィスへと向かった。


 リョウヘイがオフィスの手前まで来たとき、扉が勢い良く開いて、中から同僚の一人が飛び出してきた。リョウヘイは駆け足でどこかに向かおうとする同僚の腕を掴んで強引に引き止めた。


「いったい、何があったんですか?」


所内汚染コンタミネーションだよ! お前もすぐに確認に行った方がいいぞ!」


 それを聞いたリョウヘイはカバンを自分のデスクに投げつけると大急ぎで万能細胞の下へと向かった。


 ざわつく気持ちを抑えながら滅菌消毒室を抜け、果てしなく続くようにも思える銀色の廊下を早足で歩いていき、ようやくリョウヘイは目的の部屋の前に到着した。震える手で扉の取っ手を掴むと静かに扉を開いた。


 室内に入ってリョウヘイの目に最初に飛び込んできたのはサチのプールだった。


 サチのプールに張られた液体は今まで見たことのない鮮やかな檸檬色をしていて、よく見ると薄っすらと白く濁っていた。水面には何体かの万能細胞が浮かんでいて、そのうちのいくつかは苦しそうに蠢き、またいくつかはすでに機能を停止しているようでその体は白く醜く膨らんでいた。他のプールも見渡してみたが、全てのプールが同じような状態だった。


 リョウヘイは呆然としたまま部屋を出て、ふらふらと銀色の廊下を歩いた。リョウヘイが歩いていると、前から班長が大股で歩いてくるのが見えた。


「班長、サチが……、サチのプールが……」


「汚染されていたか……。いいか! よく聞け! その体で絶対に他の部屋に入るな! すぐに滅菌室に行って滅菌処置を受けるんだ! 後のことは儂に任せておけ」


 班長の言葉を受けたリョウヘイは虚ろな表情のまま滅菌室に向かった。


************


 滅菌処置を受け、オフィスに戻ったリョウヘイは呆然としたままソファに腰を下ろしていた。手には同僚から渡されたコーヒーの入ったカップを持っていたが、それを飲もうという気にもなれなかった。


 1時間ほど経った頃、班長が渋い顔をしてオフィスに戻ってきた。リョウヘイの姿を見かけると、その隣にゆっくりと腰を下ろし諭すように話しかけた。


「空調設備の故障でな、どういうわけか外の微生物を含んだ空気がフィルターを通さずに所内に入っちまったようだ。お前さんの担当部屋も含めて全体の3分の1ほどの部屋がやられた。これはお前さんの責任じゃあない」


「万能細胞はどうなるんですか……?」


「あれはもう使えん。衛生管理部が全て運び出して焼却処分する。その後、部屋全体を滅菌処置してから別の部屋で増えた万能細胞の一部を新たに導入することになる」


 リョウヘイは何も答えず、手に持ったコーヒーカップを眺めていた。班長は少し困った顔をして続けた。


「なぁ、お前さんがあの万能細胞に愛着を持っていたことは知ってるがな……、あれは所詮、ただの細胞の塊だ。知性ある存在なんてものじゃあない」


「でも、ニンゲンになるかもしれなかったものなんですよね?」


「ニンゲンのタネの素だ。ニンゲンとは違う!」


 班長は少し声を荒げると、すまなかったと言って目を少し下げた。リョウヘイは手にしていたコーヒーを一口飲むと虚ろな視線のまま班長の方へと向き直った。


「ねぇ班長、実際のところ、班長は本当にあの万能細胞からニンゲンなんてできると思いますか? もっというと、あんな有機物で構成された体を持つニンゲンなんてものが本当に存在し得ると思いますか?」


「そりゃ、有機物でできた体を持つニンゲンなんて1000年も前に全滅しちまって今じゃ誰も見たことがないんだ。あの万能細胞だって大昔の研究施設の遺跡から奇跡的にサルベージされたもんだ。あれからニンゲンを作り出す方法どころかあれを増やす方法すら、戦争やらなんやらで散逸しちまっててイチから研究のやり直しだ。でも、大陸に行けばまだ有機体の犬や猫の祖先が生き残ってるそうじゃないか。この間、テレビで見たが、儂らが知ってる犬や猫と見た目はそっくりだった」


「ええ、知ってますよ。僕は大学で有機体生物学の研究室にいたんです。研究室では大陸から運ばれてきた有機体動物の飼育もしていました。研究のために分解したこともあります」


「じゃあ……」


「触ってみればわかりますよ。彼らは我々とは全く異質の生き物です。体はぐにゃりとしていて生暖かい。モーターの放熱とは違う暖かさなんです。それに体の一部を開いただけで赤い液体が流れ出してすぐに機能停止してしまう。我々の祖先があんな脆弱なボディで生きていたなんて信じられません」


「しかし、昔の文献によれば、有機体のボディは損傷を負っても自然に修復されるし、生涯を通じてアップデートもオーバーホールもいらないという話だが」


「少し外の微生物に触れただけで死んでしまうようなものから、本当にそんなボディが作れると思えますか。そもそも、それならばなぜ我々の祖先はそんな便利な体を捨てて機械の体を得たんですか」


 リョウヘイの言葉を聞くと班長は押し黙ってしまった。しばらくお互いに何も言葉を発さなかった。しかし、最後には班長が会話を打ち切るようにこう言った。


「儂には難しいことはわからん。儂らの仕事は万能細胞を言われたとおりに世話することだ。お前さんの担当部屋にも来週には新しい万能細胞が運び込まれるだろう。今週は有休でもとって少し休んだらどうだ」


 それを聞いて、リョウヘイは力なく微笑んだ。


「ええ。そうですね」


************


 リョウヘイはベッドに横になりながら今日一日のことを考えていた。横ではキョウコがリョウヘイの胸に手を当てながら眠っている。胸からキョウコのセルロイド製のボディのひんやりとした感触が伝わってきた。


「まだ眠ってないの?」


 しばらくすると、キョウコはリョウヘイが起きていることに気づき、話しかけてきた。


「ん……、ああ。少し考え事をしてた」


「ねぇ。そろそろ二人の子供のこと考えたいんだけど……あなたはどう?」


「もちろん賛成だよ。週末に保険局に行って二人の遺伝コードをダウンロードしてもらってこよう。遺伝コードの合成から初期人格形成までだいたい10ヶ月程度かかるという話だから、今すぐ依頼しても結婚式の少し後くらいでちょうどいい」


「じゃあ、赤ちゃんのためのボディも見に行かないとね」


 キョウコは嬉しそうに囁いた。


「幼児のボディはすぐに交換が必要になるから知り合いから使わなくなったボディを譲ってもらうのでもいいんじゃないかな」


「そんなのだめ。私の子供にはまっさらなボディを使って欲しいの」


 キョウコは厳しい声音でそう言った。リョウヘイが何も言えず黙っているとキョウコは少し言い訳するように付け足した。


「幼児期のボディは子供の人格形成に大きな影響を与えるって聞いたこともあるし……」


「そうだね」


 リョウヘイは静かに同意した。


「わたしは女の子が欲しいわ。大きくなったら一緒に洋服を選んだりするの」


 その言葉にリョウヘイはサチのことを思い出した。顔も知らない有機物の肉体を持った16歳の少女。1000年も前にこの世から姿を消し、そして今日、完全にいなくなった少女。


「……サチ」


「子供の名前?いい名前ね」


「いや、なんでもないんだ。もう寝よう」


 そう言うとリョウヘイは目を瞑った。


************


 その夜、リョウヘイは夢を見た。


 夢の中で、リョウヘイの前には一人の少女が立っていた。


 少女はリョウヘイを見つめると優しく微笑んだ。


 リョウヘイはその少女の体に触れた。少女の体は柔らかくそして暖かかった。その暖かさをリョウヘイは心地よいと感じた。


 それとともに、少女の体に触れている自分のセルロイドの手がひどく汚らしいもののように思えた。しかし、よく見るとリョウヘイの体はもうセルロイドの体ではなかった。


 リョウヘイが少女の前にひざまずくと、少女はリョウヘイの体をやさしく抱いた。少女の体の温もりを感じながら、リョウヘイは微睡みの中へ落ちていった。


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