万能細胞 (前編)
一面をステンレスで覆われた銀色の廊下を歩いていくと、つきあたりに大きな扉が現れた。
「ここがお前さんの担当だよ」
前を歩いていた班長はそう言うと、扉の取っ手を両手で掴み難儀そうに開いた。中にはやはりステンレスで覆われた体育館のようなスペースが広がっており、足下には橙色の半透明な液体で満たされた縦横10mほどの大きさのプールが並んでいた。リョウヘイは中を覗き込もうと一番近くのプールに近づいた。
「深さ5mはある。落ちないようにな」
部屋の隅で作業をしていた班長が、プールに近づくリョウヘイにそう呼びかける。
プールの底には大小さまざまな球形の物体が沈んでいた。小さいものはサッカーボール程度、大きいものは自分と変わらないくらいに思われた。
「これが”万能細胞”ですか」
「正確にはその塊だな。あれ一つずつが無数の万能細胞の集まりなんだ」
「これがニンゲンのタネになる?」
「らしいな。儂らには難しいことはわからんが。お前さんの仕事はこれの世話をすることだ。今日は儂が見本を見せるが、明日からはお前さん一人でやるんだぞ」
リョウヘイが返事をすると班長は満足そうに頷き、部屋の壁から伸びた蛇腹のホースの口をプールの縁まで持ってきた。
「まず、このプールに入った液体、儂らはバイヨー液と呼んどるが、それを三日に一回、三分の一ずつ取り替える。あの壁にある赤いボタンを押すとホースに繋がったバキュームが動くから、これであの目盛りのところまでバイヨー液を吸い出すんだ。そしたら、次に青いボタンを押すと上から垂れ下がってる方のホースから新しいバイヨー液が出てくるからプールの縁ぎりぎりまで足す。もう一度青いボタンを押すとバイヨー液は止まる。溢れさせないように気をつけてな」
班長は早口で手順を説明しながら、てきぱきと作業をこなしていった。リョウヘイはそれを聞き漏らさないように注意しながら懸命に作業を目で追った。
「万能細胞を吸っちまわないように気をつけるんだ。流れで浮き上がってくる奴がいるからな。あいつらを吸いこんじまうとバキュームが詰まって掃除が大変なんだ」
班長は丸太のようなホースを両手で器用に動かしてバイヨー液と呼ばれた橙色の液体を吸っていった。
バイヨー液の交換が終わると、班長は部屋の隅から大きめのバケツを持ってきた。バケツの中はどろどろとした乳白色のペーストで満たされていた。
「これは万能細胞の餌みたいなもんだ。これを一日一回バケツ一杯分やつらに食わせてやるんだ」
班長はそう言うと、手に持った柄杓でペーストをすくい、プールに向かって勢い良く撒いた。すると餌の臭いを嗅ぎつけたのか、底に沈んでいた万能細胞たちがゆっくりと水面に浮かんできた。間近で見る万能細胞は灰白色で、そのてらてらとした体表はなにか悍ましい化け物のように思われた。やがて球形の万能細胞に口のような腔が現れ、撒かれたペーストを飲み込んでいった。リョウヘイはその様子をただ眺めていた。
しばらくすると班長は足下に転がっていた竹竿を手に取り、水面で"食事"をしていた大きめの万能細胞をしたたかに打ち叩いた。叩かれた万能細胞は再びゆっくりとプールの底に沈んでいった。
「こうしてやらんと小さいもんに餌が行き渡らんのよ」
班長はそう言ってリョウヘイの方を見ながらニヤリと笑った。
「少し可哀想な気もしますね」
「なに、あいつらには知性なんてものはない。ただ外界からの刺激に反応しているだけだ」
その後、リョウヘイは班長に教わったように他のプールで作業をこなしていった。竹竿で万能細胞を打ち据えるのはやはり少し抵抗があり、恐る恐るやっていて班長に注意されることがあったが、作業自体は概ね順調に進んだ。最後のプールでの作業が終わると班長がリョウヘイに声をかけた。
「よし。これで終わりだな。力仕事で大変だが、慣れればもっと早く終わるさ。最後に全てのプールを巡視して、変な色の細胞や浮かんだまま沈んでいかないような細胞がいたら、コードと一緒に研究員に報告するんだ」
「コード?」
「ほら、そのプール脇のプレートに印字されたアルファベットと数字のことだよ」
リョウヘイが目をやると、小さな白いプラスチックのプレートがプール脇の床に打ち付けられていた。プレートには『SACHI_052816XX16ASD』と印字されていた。
「……サチ?」
「詳しい意味は儂もわからんが、どうやら最初のアルファベットはこの細胞の提供者の名前らしい」
班長は興味なさそうに呟いた。
「まぁ、提供者が誰かなんて、儂らにはもはやどうでもいいことさね」
************
新しい職場での初日を終え、リョウヘイが行きつけのレストランでビールを飲んでいると、オフィススーツ姿のキョウコが待ち合わせ時間に少し遅れてやってきた。キョウコはリョウヘイの向かいの席に座り、ウェイターにグラスワインを頼むと、嬉しそうにリョウヘイに話しかけた。
「就職おめでとう。新しい職場はどうだった?」
「特に問題はないよ。職場の人も親切だし」
「いきなり国の研究施設に就職が決まるなんてね。びっくりした」
「別に研究員というわけじゃない。下っ端の作業員さ」
「お給料や福利厚生も悪くないみたいだし、肩書きは正規公務員なんでしょう?」
キョウコはそう言うと運ばれてきたグラスワインに口をつけ、ふっと息をついた。
「でも、これで私の両親にあなたを紹介できる。国研に勤めてるって言えば父さんも結婚を反対することなんてできないはずだわ」
「心配かけてすまなかったね」
リョウヘイがキョウコと知り合ったのは、大学に入ってすぐのサークルのコンパでのことだった。同じ学年で趣味嗜好が近いということで意気投合し、2年の春が来る頃には付き合っていた。大学卒業後、リョウヘイは大学院に進学し、キョウコは中堅の広告代理店に就職したが、それからも二人の付き合いは続いた。
大学を卒業して2年が過ぎた頃から、キョウコの言動からそれとなく結婚を匂わせる言動が増えていった。リョウヘイもキョウコのことが好きだったし、自分が結婚するならキョウコ以外ありえないだろうと感じていた。しかしその一方で、リョウヘイには自分が誰かと結婚するということをうまくイメージすることができなかった。また、キョウコもリョウヘイとの結婚について直接に口にすることはなかった。それがキョウコの父親のせいであることはリョウヘイには容易に想像がついた。キョウコは地方の旧家の出身であり、父親は地元の名士だった。父親はもともとキョウコには地元の大学に進学し、地元で結婚して欲しいと考えていた。大学に進学する際も父親と大げんかし家出同然の状態で進学したと、キョウコが笑いながら話してくれたのをリョウヘイは覚えていた。そうしていつしか二人の間では、結婚は暗黙の課題として共有されていった。
「あの職はどこで見つけてきたの?」
キョウコはグラスワインの最後の一口を飲みながらリョウヘイに尋ねた。
「大学の先輩であそこへ就職した人に働き口があれば紹介してくれるよう前から頼んでたんだ」
リョウヘイはそう言うと、空いたビールグラスを掲げ、ウェイターにおかわりを注文した。キョウコもそれにあわせてグラスワインをもう一杯頼んだ。
しばらくの間、二人は無言で空いたグラスを弄んでいたが、そのうちキョウコがふと呟いた。
「……リョウヘイは大学に残るつもりなんだと思ってた」
リョウヘイは何も答えなかった。
「ねぇ、もし……」
「いや、いいんだ」
キョウコが顔を上げて何かを切り出そうとするのをリョウヘイが制した。
「自分のことは自分が一番良くわかってる。たぶんどちらにせよ僕にはあの世界は向いてなかったと思う。それより君の仕事の調子はどう? 最近、忙しいみたいだけど」
「まあまあね。面倒なクライアントの仕事がやっと一段落つきそうって感じ。ねぇ?今週末、あなたの家に泊まりに行ってもいいかしら? 久しぶりに土日フルで休みが取れそうなの」
「もちろん」
リョウヘイがそう答えるとキョウコはにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、あなたの好きなマカロニグラタンを作ってあげる」
************
リョウヘイが新しい職についてから2週間が過ぎた。仕事自体は手順を覚えてしまえば、後はほとんど問題なかった。朝9時に出勤し、午前中の間に担当する部屋のプールの半分をメンテナンスする。昼休憩を挟んで午後から残りの半分をメンテナンスし、3時ごろには作業が終了する。その後、オフィスで簡単な報告書の作成などを行っても5時には仕事を終え帰宅することができた。
仕事に余裕が出てくるにつれ、リョウヘイは相手にしている万能細胞をじっくりと観察するようになった。当初はただの丸い塊だと思っていた万能細胞も、よく見ると一つ一つ微妙に形が異なりそれぞれに特徴があることにリョウヘイは気づいた。それはちょっとした瘤だったり、(おそらくは竹竿でつけられた)傷だったりした。そうやって個体識別ができるようになると、リョウヘイは徐々に万能細胞に愛着を抱くようになった。
リョウヘイが特にお気に入りだったのは"サチ”のプールだった。サチのプールの万能細胞たちは、一週間もしない間に、リョウヘイがバケツを持ってプールの縁に立つだけで水面に上がってくるようになった。また、リョウヘイが竹竿を手にして餌を取り過ぎた万能細胞を打ちつけるか逡巡していると、サチの万能細胞は自分から餌を取るのを抑えるようになった。リョウヘイはその話を班長にしてみたのだが、班長は「気のせいだよ。あいつらに知性なんてものはない」と笑って返すだけだった。しかし、リョウヘイは自分と万能細胞の心が通じ合っているのではないかと感じ、サチのプールで万能細胞たちが食餌をするのをゆっくりと眺めるのが密かな楽しみになっていった。
ある日、リョウヘイは自分の担当するプールで万能細胞の数が増えていることに気づいた。慌てて班長に内線電話で連絡すると、しばらくして班長が見たことのない人々を連れてやってきた。彼らは万能細胞の数が増えたプールから増えた分だけの万能細胞を網で掬い上げ、持参した大きなケースに入れるとそのまま立ち去って行った。リョウヘイが呆然とその様子を眺めていると、班長が愉快そうにリョウヘイに説明した。
「あれはこの研究施設の研究員だよ。万能細胞の塊はな、徐々に大きくなっていき、ある程度大きくなると勝手にいくつかの欠片に分裂するんだ。面白いだろ。万能細胞の個数を維持しながら研究を進めるために彼らはこうして増えた分の万能細胞だけを使って研究を行ってるのさ」
「ニンゲンのタネを作る研究ですか?」
「まぁ、それもあるだろうがな。儂も詳しいことは知らんよ」
リョウヘイはそれ以上何も尋ねなかった。だが、心のなかでサチの万能細胞たちが研究員に連れて行かれることを想像すると胸が痛んだ。
万能細胞の提供者の情報は思ったよりも簡単に手に入った。所内の端末からリョウヘイのIDでそのまま提供者リストにアクセスできたのである。と言ってもそこに記された情報はほとんどなんの意味もないものだった。サチの万能細胞の提供者は小鳥遊紗千という16歳の少女だったらしい。彼女は生まれつき何かの疾患を患っていたようだが、リョウヘイにはそこに記された病名がわからなかった。どちらにせよ彼女がもうこの世に存在しないことは間違いなかった。リョウヘイはその16歳の少女のことを想像してみたが、ひどく朧げでうまくイメージすることができなかった。
************
リョウヘイが働き始めてから、キョウコは頻繁にリョウヘイの家を訪れるようになった。大学を卒業後はお互いに忙しいという理由で2~3週間に一回、週末に会う程度だったのだが、リョウヘイが5時には仕事を終えて帰宅できるようになってからは平日でも二人でリョウヘイの作った夕食を食べることが増え、一ヶ月も経つ頃にはほとんど同棲しているような状態になった。
キョウコは職場では非常に評価されているようだったが、そのぶん仕事量も多く残業が常態化していた。クライアントとの接待後らしきキョウコが泥酔した状態でリョウヘイの家に帰宅したこともあった。リョウヘイはキョウコの着ていた上着を脱がせ、ブラウスの胸元のボタンを外してやると、ベッドに寝かしつけて、自分はコップに水を汲みに行った。戻ってくるとキョウコは声を出さずに泣いていた。リョウヘイが水を飲ませようとキョウコの体を起こすと、キョウコはリョウヘイに抱きつき、顔をリョウヘイの肩に押し付けて「ごめんなさいごめんなさい」と呟きながら泣いた。リョウヘイは何を謝られているのかもわからないまま、キョウコの背中に手を回して軽く抱きしめた。キョウコが泣き止むのを待っている間、リョウヘイはぼんやりと天井の隅を眺め、そしてサチの万能細胞のことを考えていた。
(続く)
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