マクスウェルの悪魔

「魔法って存在すると思う?」


 彼女は急に顔を近づけると、囁くようにそう尋ねた。


「ええと、それは恋の魔法とかそういうやつ?」


 彼女の不意の行動に、僕は視線を少し逸らしながらそう聞き返す。


「はぁ? 違うよ。もっと即物的なやつ。手から炎を出したり、空を飛んだりするような」


 そういうと彼女は乗り出した体を引っ込め、ふたたび手元にあるカレーを食べ始めた。


 僕と彼女は大学食堂のテーブルで向い合って昼食を食べていた。昼休みも半分が過ぎ食堂の混雑も徐々におさまりつつあったが、それでもまだあちらこちらで学生達が大声で談笑しながら食事をしている。


 彼女は僕のクラスメートの一人だ。僕が入学した理学部は1クラスに50人ほどが在籍していたがその中に女子は6人しかいなかった。その中でも彼女の容姿は特に人を惹きつけるものがあり、入学当初はクラスの男子の半分がなんとか彼女と親密になろうと画策し、残りの半分は彼女を気にしないように振る舞うことに四苦八苦していた。しかし、夏休み前になる頃にはもはや彼女に進んで話しかけよう、ましてや一緒に昼食を取ろうと考える人間は(女子も含めて)誰一人としていなかった。


「即物的な魔法ねぇ」


 僕はその語感に妙なおかしみを感じてしまったのだが、それを彼女には悟られないよう極めて真面目ぶった口調でそう呟いた。


「手から炎が出るというのは、可燃性物質が手から噴出されてそれが燃焼反応を起こしてるということかな。空を飛ぶというのはなんらかの力が重力に対して拮抗しているということだよね。普通に考えると揚力だけど翼を持たない人間が自身を浮遊させるのに十分な揚力を得ることはちょっと難しい。そうするとなにか別のエネルギーを運動エネルギーに変換しないといけなくなる。ロケットみたいに。いずれにせよ人間がなにもないところからそんなエネルギーを生み出すなんていうのはエネルギー保存則に反してるよね」


 僕がそう答えると、彼女は少し顔を上げて僕の方を一瞥し、そのままなにも言わずにカレーを食べ続けた。僕の発した言葉はしばらくのあいだ、僕と彼女の間隙を漂っていたが、やがてまわりの雑音に流されて消え去っていった。僕は黙ってラーメンを啜った。


 僕がラーメンを食べ終わっても彼女はまだ自分のカレーを食べ続けていた。彼女は食べるのが遅い。一心不乱にもぐもぐと口を動かしているのになぜかいつも食べ終わるのに常人の2倍くらいの時間がかかる。僕はラーメンの汁に浮いた油をもて遊びながらそんな彼女の姿を眺めていた。


「そろそろ午後の授業が始まるよ」


 彼女がカレーを食べ終わり紙ナプキンで口元を拭くのを見届けた僕はそれとなく彼女に食堂を出るよう促した。しかし、彼女は僕の声が聞こえていないかのように今度はこう尋ねた。


「マクスウェルの悪魔って知ってる?」


 彼女が他のクラスメートから敬遠されるようになったのもこのマイペースさが原因だ。彼女は自分が考えていることをまくし立てたかと思うと突然黙りこむ。そして、その次にはまったく違う質問をぶつけてきたりする。僕がこうして彼女と食事をするようになったのはとある偶然がきっかけだったのだが、もちろん当時の僕にも多少の下心があったことは否定できない。しかし、今では彼女のこうした突飛な行動に振り回されるのも悪くないと感じていた。僕はわざとらしく少し間を置いてから彼女の質問に答えた。


「ジェームズ・クラーク・マクスウェルが提唱した思考実験。異なる速度の2種類の分子が充填された温度の均一な容器を考え、その容器を開閉できる窓のついた仕切りで2つに分割する。ここで、個々の分子の動きを観測できる仮想の存在、すなわちマクスウェルの悪魔を想定し、その悪魔が2種類の分子が各々容器のどちらか一方に移動するときにだけ窓を開けると考えると、悪魔はエネルギーを用いずに2種類の分子を分離することができる。しかし、これは熱力学第2法則に反する」


「そう」


「でもその問題はもう解決されてるんじゃなかったかな。マクスウェルの悪魔が分子の状態を観測するとそれ自体がエネルギーの散逸を引き起こす。それはつまり情報とエネルギーが置換可能ということであり……」


「それだよ」


 彼女はそう言うと僕に向かってにっこりと微笑んだ。


「情報をエネルギーに変換する。それこそ魔法の原理だと思わない?」


「ふむ」


「考えてみて。元々、私たち人間は情報のかたまりでしょう。私の脳の中には数千億個の神経細胞が存在していてそれらが複雑なネットワークを作ってる。それだけじゃない。血管の走向、指紋の形状、虹彩のパターン、遺伝子、どれも私を特徴付ける固有の情報。さらに私と私の周りの人たちとの関係性、彼らが思い描く私のイメージ、私たちが構成員として参加する社会のネットワーク、私に属する情報はほとんど無尽蔵に存在し日々増幅していっている」


「で、それをどうやってエネルギーに変換するのさ」


 僕が軽口を叩くようにそう指摘すると、彼女は再び微笑んだ。しかし、その微笑みはさっきとは明らかに違う意地の悪い空気を纏っていた。その瞬間、僕は自分の周りになんらかの異変が起こっていることに気づいた。慌てて周囲を見渡そうとする僕に向かって彼女は静かにこう告げた。



 広い食堂には僕と彼女以外誰もいなくなっていた。さっきまで聞こえていたはずの喧騒も今は霞のように消え去ってしまっている。


「どう? 仕切りのこっち側に残された気分は?」


「これは、君が魔法を使ってここにいた人達を消したって言いたいの?」


「消したわけじゃない。ただ仕切りを作っただけ。私たち以外の人達は仕切りの窓から向こう側に飛び出していったの。そしてこっちに戻ってくることはできない」


 彼女は指でテーブルに長方形を描くと、その真ん中に線を引き、線の右側から左側へと指を動かした。彼女の平然とした口調に僕は居心地の悪い気分になり、咄嗟にこう反論した。


「もう午後の授業が始まってるし、みんな授業に行ったんじゃないかな。僕たちも早く教室に行かないと」


「ええ、いいわ。行きましょう」


 そう言うと彼女はカレー皿が載ったトレイを手に立ち上がり、食器回収口に向かって歩き出した。


 教室に向かう道すがら、僕はずっと彼女の後ろ姿を眺めていた。跳ねるような彼女の足取りはいかにも上機嫌といった様子で、彼女の歩調にあわせて肩甲骨あたりまで伸びた美しい黒髪がさらさらと揺れ、彼女の着ている薄手の白いワンピースに映えた。彼女の歩く姿には小動物のような溌剌さと操り人形のような歪さが共存していて、それは僕にひどい危うさを感じさせた。なにかの歯車が一つ狂えば彼女自身が彼女を破壊してしまうのではないか、そういった類いの危うさだった。僕は彼女がその細い手足を本来とは違う方向に折り曲げながら飛び跳ねる姿を想像し、そして気分が悪くなってすぐにその妄想を追い払った。


 教室に着くまでの道でうすうす察していたが、やはり教室には誰もいなかった。


「今日の授業は休講になったのかしら?」


 彼女が悪戯っぽく笑いながら僕の顔を覗き込む。突然目の前に現れた彼女の大きな虹彩に思わず見惚れそうになって、僕は慌てて目を逸らした。


 僕たちの大学では休講が決まるとショートメッセージで携帯に連絡が届くようになっている。ここに来るまで僕は休講のメッセージを受け取っていない。そのことははっきりしていた。使 僕は混乱する頭を必死に動かそうと努力した。なんだか自分がここにいることが場違いなように感じ、こめかみがちくちくと傷んだ。僕が黙り込んでいると彼女は軽い口調で僕にこう提案した。


「どちらにせよ、これじゃ授業は受けられないね。ねぇ、気分転換に川に行かない?」


 僕たちは大学を抜け出して近くの川まで歩いた。川に辿り着くまでの道でも僕たちは誰にも出会うことがなかった。車も一台たりとも走ってはいなかった(ところどころに駐車された無人の車を見かけることはあったが)。信号機だけが通行人のいない交差点を律儀に交通整理していた。僕たちは車のいなくなった大通りの車道の真ん中を初めは恐る恐る、やがて堂々と並んで歩いた。物音一つしない街の風景は僕に台風が通り過ぎた後の早朝を思い起こさせた。


 川に着くと、川べりの芝生に設えられた木製のベンチに二人並んで座った。暫くの間、お互い何も話さなかった。川沿いにも人っ子一人いなかった。普段なら必ず見かける川沿いを走るランナーも、楽器を練習する青年も、寄り添って語り合うカップルもいなかった。彼女は川で餌をついばむ白鷺を楽しそうに眺めていた。僕は(動物は普通にいるんだな)とどうでもいいことをぼんやりと考えた。


「ねぇ」


 彼女が突然、口を開いた。


「あなたには会えなくなったら寂しい人っている?」


 その言葉に、僕は自分が大切だと思う人たちのことを思い出そうとした。両親、中学・高校時代の友人、大学で知り合った級友。でも、なぜかどれもぼんやりとしていて、その顔すらはっきりと思い出すことができなかった。僕は黙って彼女の顔を見つめた。彼女の美しい横顔は僕の心に焼きつき、それは決して忘れようのないように思われた。


「私にはいない」


 僕が返事をする前に彼女はそう続けた。


「これまでにいろんな人に会ってきた。楽しい人、陰気な人、親切な人、自分勝手な人、野心家の人、自暴自棄な人、下心を持った人もいれば純粋に友達になろうとしてくれた人もいる。でも、みんなやって来て、そして通り過ぎていった。人の心に波をたててそして去っていく。たぶんあの人たちが悪いわけじゃない。でも、私が私であり続けるためには私の心は弱すぎたんだと思う」


 僕には彼女が何を言っているのか理解できなかった。だから、ただ彼女の横顔を見つめ続けていた。


「だから私は仕切りのこっち側に留まることに決めたの。みんなが向こう側に飛んでいってしまっても。でも……」


 彼女はふいに立ち上がって僕に向かい合った。


「あなたのことは気に入ってる。だから、もしあなたさえ良ければ、私と一緒に仕切りのこっち側に残ってほしい。今は私が抑えているけど、このままだとあなたもすぐに仕切りの向こう側に飛んでいってしまう。でも、もしあなたが承知してくれれば、私はあなたを永久に仕切りのこっち側に留めておくことができる」


 そういうと彼女は僕の前に右手を差し出してきた。ほっそりとした指が少し震えているのがわかった。


 彼女と二人だけの世界を永遠に生きる?


 冷静に考えれば馬鹿げた提案だが、今の僕にはとても魅力的に感じられた。僕は彼女が好きだ。僕を見つめる彼女の大きな瞳が好きだ。抱きしめれば壊れてしまいそうな細い肢体が好きだ。さらさらと揺れる絹のような黒髪が好きだ。彼女と他愛のない会話をする昼休みが好きだ。彼女に振り回される日常が好きだ。彼女の提案を受けて初めて、僕は自分の気持ちがはっきりと分かったような気がした。


 そして、半ば無意識的に彼女の手を取ろうとしたとき、僕は視界の隅にが入り込んでいることに気づいた。


 は川の向こう岸にいた。枯れ木のように細い体にぴったりとした白いスーツを纏い、頭にはシルクハットを目深に被っている。顔はよく見えなかったが、こちらを凝視していることはわかった。僕はから目が離せなくなった。はやがてゆっくりと頭を上げた。その顔には、なにもなかった。目も鼻も口もなかった。しかし、がこちらを見ながら嫌らしい笑みを浮かべていることは直感的にわかった。何か言葉を発しようとしたが、喉がカラカラに渇いて言葉が出ない。僕は助けを求めるように彼女の方へ向き直った。彼女は僕の前に右手を差し出したまま、まるで電池が切れたように呆けて立っていた。そして彼女の顔を見て僕は息を飲んだ。彼女の美しい虹彩は消え去り、そこにはまるで木の洞のような瞳が残されていた。僕は出しかけた手を動かすこともできずじっと彼女を見つめた。彼女の輪郭は徐々に不鮮明になっていき、絹のような黒髪は平板なテクスチャへと変化していく。差し出された彼女の手からはあのほっそりとした指は失われ、醜悪な肌色の触手のようなものに変わっていた。


 ――情報をエネルギーに変換する。それこそ魔法の原理だと思わない?


 僕は彼女の言葉を思い出した。マクスウェルの悪魔は彼女の望みを叶える代償に彼女が彼女であるための情報を奪い去ろうとしているのだ。彼女の輪郭はいまやゼリーのようになっており、彼女の色素の薄い肌の色とワンピースの白と艶やかな髪の黒は互いに混じり合おうとしている。僕は向こう岸のにもう一度目を移した。は先ほどと変わることなく嫌らしい笑みを浮かべながらこちらを凝視している。僕はを睨みつけると、不確かになった彼女の右手を掴み自分の方へ引き寄せた。彼女の肉体はもはや形を保つことができず、覆いかぶさるような形で僕の全身を包み込む。僕は彼女の中で固く目を閉じ、ただひたすらに彼女のことを考えた。彼女の大きな瞳や美しい黒い髪、跳ねるように歩く姿、愉しそうに笑う仕草を思い出そうとした。そうして僕の中の彼女のイメージを出来る限り鮮明に描き出そうとした。その間にもべっとりとした流動体になった彼女の肉体が僕の頬を流れていく。僕は叫び出しそうになるのを堪えるため必死に歯を食いしばった。目を閉じ、息をすることも忘れ、すべての感覚のスイッチをオフにしてただひたすら彼女のことを考えた。やがて、僕の頭の中で彼女ははっきりと輪郭を持ち、僕の方へと歩いてきた。僕の前に立った彼女はしばらくの間、僕の顔を不思議そうに眺めていた。それはまるで知らない人間を見るような仕草だった。やがて彼女は上品な、しかしとても他人行儀な笑みを浮かべながら、軽く会釈をして僕の横を通り過ぎようとした。僕は慌てて振り返り彼女の手を掴んだ。彼女の手から先程とは違うしっかりとした感触が伝わってきた。僕はずっとなにかを叫んでいたが、自分でも何を叫んでいるのかわからなかった。自分で自分の声が聞こえなかった。彼女は困惑した表情をしていたが、やがてゆっくりと微笑み、もう一方の手で僕の頬をなでた。彼女の温かな手の感触を感じると突然、全身の力が抜けていくような感覚がした。そして、僕は意識を失った。


「痛っ」


 気がつくと僕は川沿いのベンチに座っていた。声のした方へ顔を向けると、普段通りの彼女が顔をしかめながら僕の横に座っているのが見えた。


「ちょっと痛いんだけど。急にどうしたの?」


 自分が彼女の手首を力いっぱい掴んでいるのに気づき、慌てて手を放す。


「ぼーっとしてたかと思うと急に手を掴むんだもん。何かと思うよ」


「マクスウェルの悪魔は!?」


「マクス……なに?」


 僕が逡巡しているとその前をタンクトップを着たランナーが颯爽と走り抜けて行った。遠くからはトランペットの下手くそな音色が聞こえる。僕はふうと息を吐いた。


「いや、いいんだ」


 僕はさっきまで彼女の手首を握っていた手のひらを眺めた。そこにはまだはっきりと彼女の細い手首の感触が残っていた。


「結局、午後の授業全部サボっちゃったね。でも、付き合ってくれてありがとう。最近、ちょっと気分が落ち込んでたからいい気晴らしになったよ」


「そんなことは全然構わないよ」


 僕は彼女の顔を見つめながらそう応えた。彼女は不思議そうに僕の顔をしばらく眺めていたが、やがてにっこりと微笑むと急に立ち上がった。


「じゃあ、おやつにドーナツでも食べに行こうか。お礼に奢るよ」


「いいね」


 そう言うと彼女は川沿いの遊歩道を跳ねるような足取りで歩き出した。僕もその後ろをゆっくりと歩いてついていく。


 あれはただの夢だったんだろうか?


 マクスウェルの悪魔は本当に存在していたんだろうか?


 僕たちは仕切りの向こう側にやってこれたんだろうか?


 


 道すがら、そんなことをずっと考えていたが、ドーナツショップで美味しそうにドーナツを食べる彼女のことを見ているうちに考えるのも馬鹿馬鹿しくなってしまった。僕には、今、目の前にいる彼女が間違いなく僕の好きな彼女だと、そう確信することができた。


 ただ一つ問題なのは、さっきからずっと彼女の名前を思い出せずにいることだった。

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