第3話

 その後も俺たちはこの狭い部屋から出ることもできず、実質的な軟禁状態が続いていた。

 だがそれでも一応の身の安全が保証され、保存食のようなものとはいえこの状況下でも三食を食べられるのだ。考えようによってはこれほどありがたいこともない。

 もちろん機密情報などもあるだろうから、部屋の外の廊下には交代制で見張りが立てられている。

 あくまで俺たちは部外者だ。しかも客人というよりは捕らえられた闖入者といったほうが近い。

 地下なので当然窓などなく、携帯電話も通じず、インターネットも繋がらない。

 さらにあの地下駐車場に転がり込んで以降、時計の示す時間でしか昼も夜も分からなくなり、もはや自分たちがどの程度の時間をここで過ごしたのかも曖昧になっている。

 時計に従えば、このシェルターに入ってからそろそろ丸二日が経過したことになる。街が怪物に蹂躙されてから三日ということだ。

 その間も、俺たちにはなにも起こっていない。怪物の話も聞かなかったし、シェルターが崩落することもなかった。

 ここは世界のどこにも繋がっていないのだ。

 もっとも、それをどうにかしようとも思わず、その力がないことも自覚させられ、この狭い部屋だけが俺たちの全てとなっていた。


 そんな中やってきた外側との接触の機会は、あの怪物についての情報を求める千谷静の訪問だった。


「暇かしら、若人たち」


 相変わらずのアロハシャツの上に白衣を羽織るスタイルで、気怠げな表情が美人を塗り潰している。


「暇に決まっているだろ、なにもないこの場所にもう丸三日だぞ……」


 そう言い返しても、この女研究者はただ笑っているだけだ。


「暇なのね、それを聞いて安心したわ。じゃあ、ちょっとお話でもしましょうか。こんな狭い部屋じゃなくて、いくらか広い会議室へ案内するわよ」


 こちらの言い分を都合よく聞き流して、千谷は当然の顔をして俺たちを部屋から引っ張り出す。

 しかし、このなにもない虚無な生活の中では、この傲慢な研究者さえも貴重な刺激なのである。断るという選択肢はない。

 俺たちは千谷に続き、その狭いシェルター内を移動する。

 向かったのは、細い廊下の先にある小さな会議室だ。


 人工的な白い光に満ちた、狭い、十人程度しか入れないような会議室も、今の俺には物珍しく見える。

 そこでパイプ椅子に腰掛けて、俺とフジコーは千谷の質問に答え続けていた。

 この女研究者はとにかく、俺たちから怪物のことを聞きたがり、ポータル社が来る前の街のことを聞きたがり、さらには、俺たち自身のことについても聞こうと質問をぶつけてくる。

 その中には明らかに重要でない、たわいない、俺たちの趣味や日常生活のことまで含まれていた。


「で、お前はなんで俺たちのことまで知りたがっている?」

「もちろん、君たちに興味があるからよ。ほら、君ってイケメンだし」


 冗談めかして笑うが、その裏側にあるであろう意図は読み切れない。

 そこにあるのは個人的な感情だけではあるまい。

 さらに外やシェルターでの生活、保存食の質などについてのいくつかの雑談の後、話題はいよいよ確信へと迫っていく。


「あの怪物は、いったい何物なんだ?」


 不意に、俺の方からゆっくりとその質問を口にした。

 それを横で聞いたフジコーが、あからさまに驚いた表情で俺を見た。

 それは俺たちの心に刺さり続けている事柄だったが、その真実を知ればもはや日常が帰ってこない気がして、それを質問できるほどの強い意思を持てなかったのだ。

 だが、どう足掻いても日常が戻ってくることなどないことを自覚した俺は、あえて、自分からそれを口にした。

 狭い会議室の中の空気が重く淀む。

 だが、そんな俺たちの意思を汲むことなどなく、千谷は淡々とあの怪物について語り始める。


「私たちはあれを【フライ】と呼んでるわ」

「フライ?」

「フライ……」


 その奇妙な響きに、俺もフジコーもただその名を反復する。


「そ、フライ。私も観たことはないんだけど、大昔に物質転送装置の事故で人間とハエが融合してしまうって映画があったらしいのよ。で、そのタイトルが『ザ・フライ』といったらしいのよね。つまり、それと似たようなことが起こってしまったのではないか、とポータル社の考えてるわけ。ようするに、あの怪物はゲートの向こう側に紛れ込んでしまった生物の成れの果てなのではないかということ。ま、本当のところはどうなのかまだわからないけどね。で、名前もそこからとって安直に【フライ】。まったく、上層部の考える事はわからないわ」


 千谷は特に隠すことなく冗談めかしてあの怪物について語ったが、その告げられた内容はどこまでも不気味で、それが返って真実のようにも聞こえた。


「まさかあれは……、あの怪物も……、元は人間なのか?」


 思い出す、あの奇妙な姿を。カラスとトカゲの縫い付けられた異形を。金属のような声を。

 あれは怪物だ。人間なはずがない。

 俺が思わずそう尋ね返すと、千谷は意味深なため息を付いた後、呆れたように小さく首を振った。


「そうではない、ということにはなっているわ。ポータル技術で今まで人間の事故は確認されていないしね。もっとも、なんとかしてゲートを悪用しようという人間は後を絶たないのは、君たちのほうがよく知っているんじゃないの?」


 千谷がぼやいたように、ゲートへの侵入を試みる不法侵入者の話題は、以前から門津市内でしばしば聞かれたものであった。

 俺は直接目撃したことはなかったが、中学校でも高校でも、そういった不審者を見たという出所不明の噂話は幾度か流れたものである。

 それが真実だったのか都市伝説なのかは今となってはわからないが、少なくとも、いつそういう人物が現れてもおかしくないという認識は確かに存在したのである。


「むしろあの怪物については、こっちが君たちの意見を聞いておきたいのよね。君たち、自分で思っているよりも重要な存在なのよ。なにせ、あの怪物を出現時から目撃して生き残った人間は本当に少ないからね」


 千谷の態度は相変わらず他人事めいて平然としたものだったが、その言葉を聞いた俺は一気に肝が冷えるような思いだった。

 目撃者が少ない?

 いや待て。あれだけ溢れていた人々はほとんど死んでしまったというのか。

 かもしれない。

 怪物を思い出すと、そこにあるのは圧倒的な暴力と圧力の塊そのものの記憶だ。

 そこに誰かの生存など想像もできない。

 それだけに、俺にはどうしても、千谷に聞いておきたいことがあった。


「その前に、ひとつだけハッキリさせておきたいことがあるんだが」

「なにかしら」


 意を決し、俺は息を飲み込んで、一息でその質問を口にした。


「……あのフライとかいう怪物はお前らが仕組んだものなのか?」


 その質問を聞いて、千谷の表情が一瞬真剣なものとなった。


「まさか! と言いたいところだけど、残念ながら完全な否定はできないわね」


 千谷の口調から軽さが消える。


「簡単にいえば、想定の範囲外といったところ。ポータル社はああいった怪物が存在している可能性は把握していたけれど、それが現実になる時期についての見通しは少々甘かったわけ」

「把握していたのか!」


 だが、激昂し掴みかかろうとする俺の態度にも、千谷は冷静そのものだった。


「あくまで可能性として、よ。対策の研究も進められてはいたし、実際、外では今、それらの技術を使ってあの怪物を抑えこもうとしているはずよ。ただ、もう出てきちゃったか、いうのが本音ね」


 語り続ける千谷の口調は、自分の、自分たちの行動に間違いはなかったと確信を持っているかのようで、揺るぎない自信に満ちている。


「あなた方は、それで済むと考えているのか」


 今度は、フジコーがそう質問をぶつける。

 感情任せの俺とは違い、その怒りはあくまで静かだ。

 だからこそ俺は、今フジコーが本気で怒っているのがわかる。


「済むとは思ってないわ。でも、もうそんな議論は無意味よ。求められるのは、倍賞と、それ以上にあの怪物への対策の話」


 だがそんな怒りさえも、千谷はただ事実で持って受け流す。

 そう言われてしまうと、その事実が理解出来るだけにフジコーはもはや反論できない。


「よくわかった」


 だから俺が、今度こそ千谷を殴りつけた。

 相手が女性であることも、自分たちの生殺与奪権を握っていることも気にするとこなく、ただひたすら感情を込めた一撃をぶつける。

 頬を拳が捉え、千谷は床へと投げ出される。

 しかし、それに対して千谷は美しい顔が歪んだことも全く気にすることもなく、ただ静かに微笑みながら、ゆっくりと身体を起こす。


「おめでとう、やっと殴れたわね」


 それが、俺に殴られた人物の心からの言葉であった。

 その事実に俺の怒りはさらに煮えたぎるが、もはやどれだけこいつを殴っても無駄だということも同時に悟る。

 震える拳を握る。何発でも殴れるだろうが、殴っても虚無感だけしか残るまい。


「でも、君たちのその怒り、少しだけぶつける先を変えてみる気はないかしら? それは君たちにとっても、悪い話ではないと思うのだけど」


 埃を払いながら、千谷は時間をかけてゆったりと立ち上がった。


「どういう……ことだよ……」


 そうして目の前に立つ女性の姿に、俺は思わずたじろいでしまう。

 その眼はあくまで俺たちを見て、俺たちの中に未来を見て、それでいて世界を見ていた。

 勝てない。そう心で知ってしまった。


「そうね、詳しい話は外に出てからにしましょう」


 外。

 俺の心境を見計らったかのように、千谷はさらりとそれを口にした。




 こうして俺たちがこのシェルターの外に出られることになったのは、あの悲劇の日から三日が経過してからのことだった。

 千谷が語るには、怪物への対策の目処が立ち、ようやく一応の安全が確保されたのだという。

 人工的な光の細い廊下を抜け、俺たちが最初に転がり込んだ駐車場を超えて、崩れた出入口から外へと這い出す。

 そうして久々に日の光を浴びると、あまりの眩しさに思わず目を瞑ってしまう。

 ようやく目を開けた時、そこに広がっていた光景は、俺の知ってる門津市の街並みではなかった。

 それはまさに完全に廃墟そのものだ。

 周囲には原形を留めいてる建物はほとんど存在せず、遠くに見える新市街のポータル社の本社ビルの手前あたりまで瓦礫の山が広がっている。

 俺たちが逃げこんだビルにしても、上層部分は完全に崩壊しており、瓦礫の隙間から地下駐車場への入り口が見えるだけであった。

 逃げながら街が破壊される光景を見ていたとはいえ、これほどなにも残らなかったことに、ショックを隠しきれなかった。

 ここは、知らない街だ。

 たった三日しか経っていないにもかかわらず、俺はまるで自分が浦島太郎になったような気分になった。

 しかしその光景の中に、どこにも、その原因の姿は見当たらない。


「怪物は、あの怪物はどうなったんだ……?」

「ああ、フライなら一時的に封印されているわよ」


 俺の質問に答えたのは、同じように表に出て来て、俺たちの隣で街の残骸を見ていた千谷だった。

 当然のことながら、こいつと俺たちとでは持っている情報が違いすぎるのだ。

 千谷にとっては思い入れのなさもさることながら、この廃墟の光景もとっくに見慣れたものらしい。

 俺たちがあの部屋で退屈を持て余している間にも何度も外の様子を確認していたのであろう。

 街そのものよりも、まるでそれを見た俺たちの反応こそを確認しているかのようである。

 しかし今の俺が引っかかったのは、千谷の態度よりもその言葉の中身である。


「……一時的に封印? 倒したわけじゃないのか?」


 どこにも姿が見当たらないが、どうも消滅したわけではないらしい。


「残念なことにね。この平穏はあくまで一時的なもの、ただの先延ばしでしかないわけなのよ」


 答えながら、千谷は諦めたように首を振る。

 もちろんそれに納得行くはずもない。俺も言葉を探したが、質問がシンプルだった分、フジコーが先に口を開いた。


「……その封印とやらは、どれくらいの期間持つんですか」

「ま、持って三ヶ月といったところね」

「三ヶ月……」


 想像していたよりも短い、具体的な期間を告げられ、俺たちは言葉をなくす。

 その三ヶ月になにができるというのか。

 だがそんな反応さえも、千谷にとっては最初から想定の範囲内であったらしい。


「もちろん、我々もこのまま黙って人類の破滅を待つなんて考えていないわよ」


 人類の破滅。

 それは大げさな言葉だが、あの怪物を思い出し、こうして廃墟を目の当たりにすると、決してありえない未来ではないと実感させられる。


「それで、さっきの話に戻るんだけど、君たちも、この街の仇を討ちたいと思わないかしら?」

「仇、討ち……?」

「できるんですか、そんなことが!?」


 興奮気味なフジコーと違い、俺はその言葉を信じられなかったが、それでも、今はそんな言葉にすがるくらいしかできやしない。


「まあ、できるかどうかは、君たち次第ってところね」


 そして千谷は笑った。

 それは英雄を戦場に駆り立てる、あまりに邪悪な笑みだった。

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