半額寿司攻防戦
案の定魚正の周辺は、おじいちゃん、おばあちゃんで一杯だった。周囲の『おじおば』を押し除けたりしないように、そっと身体をくぐらせ目標の半額パック寿司を目指す。
魚正のパック寿司は、一人前十貫で通常千円の品物だ。いくら、うに、トロなどの高級ネタが存分に盛り込まれている。
普通の庶民的なスーパーでは一人前千円を超えるパック寿司はあまり見ない。魚正のパック寿司は最近流行りのプチプレミアム。自分へのご褒美にぴったりの逸品なのだ。
現に俺は先日入ったバイト代を握りしめ、その逸品を自分へのご褒美とすべくここにいる。
しかも、夕方のスーパー半額タイムによってそれがなんと五百円で買えるとなれば、お腹を空かせた近隣住民達が集結してしまうのも無理からぬことだろう。
ついにその逸品が視界に入ったが、やはりというか案の定というか、『おじおば』に狩られ尽くす間際で、ラスト一パックを残すのみになっていた。
俺はラス一が残っていたことを、その辺にたくさんいると思われる名前も知らない神に感謝しながら、パック寿司に手をかける。
「「あっ……!」」
パック寿司には二つの手がかかっていた。
俺の手と……もう一つは白くて華奢な手、……指が綺麗。老人のものとは違い、皺ひとつなく瑞々しい。
「「あっ……!!」」
横を向き白い手の持ち主と目が合った。思わず、再び、感嘆符的な言葉を漏らしてしまう。
『アイスパンツの子!』
直前のセリフは発声されたものではない。俺の脳内でのみ再生されたものだ。ギリギリで留まった自分にご褒美をあげたい。まあ、その『自分へのご褒美』が手に入らないのが目下の課題ではあるのだが……。
夏物のセーラー服を着た、髪の長い小柄な女の子が、不服そうな目をしてこっちを見ている。
まさかアイスパンツちゃんも魚正の半額寿司目当てでブロードウェイに来ていたとは。
「きみ、さっき見たでしょ」
透き通っているけれど、意思の強い声で問いかけられる。……問い詰められた。
彼女も俺が先ほどの『ビルの屋上から風で私のスカートがめくれるところを見ていた人』だと気付いているらしい。いきなりクリティカルな質問をぶつけられてしまった。
……ここからは心理戦だ。魚正は論理武装と精神力のみが力を持つ戦いの場に変わったのだった。
「何を?」
ここは大人の高等戦術ですっとぼけてみる。見よ、これが人生経験の差だ! 約十八年の人生キャリアをかけてこんなちっちゃい女の子に負けるわけにはいかない。
「ふうん」
とさらなる高等戦術にて返答があった。
彼女は短い吐息のような返答をした後に、こっちの目をまっすぐに見つめてくる。
……これは確実に脅迫されているのだった。
「このラス一半額パック寿司を私に譲らなかったら、いつも下校中の私のことをビルの屋上から覗いていたことや、さっきも私のパンツを見てキモい独り言を言って喜んでいたことを、周囲に言いふらしてやるから。可憐な女子学生の私の手にかかれば、お前みたいな冴えない男子大学生なんていくらでも社会から抹殺できるんだから」という脅しである。
これだけの強いメッセージを吐息と視線だけで伝えてしまうなんて、頭の切れ方がハンパない。世の女子学生は、みんなこんなに大人びた駆け引きができるものなのだろうか。どんだけ人生経験豊富なんだよ!
意識を現実に戻し再び彼女の顔を見つめる。まだ残る幼さの中にも凛とした美しさがある。見つめるうちに黒目の大きな瞳に思わず引き込まれそうになってしまう。うん、多分これは美少女ってやつだ。
やることなすこと三日坊主で、継続して物事を成すことが苦手なこの俺が、ここ十日間毎日決まった時間に部屋の屋上に上がっていたのは、この子から変な美少女電波が出ていたからなのだ。きっとそうに違いない。
そんな大手飛車角取りの一手に対して長考を続けていると、彼女の瞳が少し揺れ始めた。どうやら制限時間が迫っているらしい。
俺はパック寿司からスッと手を引いた。半額寿司のために、これからの人生を犠牲にするわけにはいかないという、極めて合理的な判断だった。未来につながる正しい判断をした自分を褒めてあげたい。ご褒美はないけれど。
「ありがと」
そう小さく言い残して戦利品を手にした彼女は俺の元を去る。思わず後ろ姿を追ってしまいそうになる視線を慌てて自分の足元に落とした。腰の所まである、ふんわりとした綺麗な髪が視界に入り込んだが、見なかったことにする。
タイムセールが終了し、戦利品を手にした『おじおば』たちの波が引いていく。
楽しみにしていた寿司を失ったショックで呆然としていると、一人のおばあちゃんに声をかけられた。
「さっきのお嬢ちゃん可愛い子だったねぇ。お兄ちゃんとずっと見つめ合っていたけど振られちゃったのかい?」
振られたなんてそんなに良いものではない。
「ええ……、まあ、そんなとこです」
少し見栄を張ってみた。
「若い時は気が変わりやすいから。でも心のどこかで通じ合っていれば、仲直りできるものよ。これ、お嬢ちゃんがレジでのところで落としていったみたいなの。また会ったら渡してあげて」
人生における前向きなメッセージと、『心理戦にめっぽう強い彼女』の落し物を俺に託したおばあちゃんは、半額パック寿司を手に高齢者とは思えない軽やかな足取りで去って行った。
手渡されたものをまじまじと見ると、それは名刺サイズの薄いポイントカードのようなものであった。
表面には、ピンクで丸い謎生物のかわいいイラストが描かれている。これは昔遊んだレトロゲームのキャラクターだ。レトロゲームと言っても今プレイしても充分面白い。というか今家にソフトあるし。
裏面は一面銀色だが、下の方に小さい字で説明が書いてある。
「テレホンカード……」
伝説によるとその昔このカードを使って、街中に点在する『公衆電話』という機械から世界中のどこへでも電話をかけることができたらしい。十八年の長きにわたって生きている俺でも、現物にお目にかかったのは初めてのことだった。
……ケイタイやスマホでいつでもどこでも電話がかけられる現代においては、完全なる無用の長物である。
「何でこんなものを……」
うら若き女の子が、時代に忘れ去られたテレホンカードに何の用事があるというのだろう。すごく犯罪の匂いを感じる。
「まあ、本当にまたどこかで会うこともあるだろう」とおばあちゃんの箴言を前向きに受け止め、半分の親切心と、半分の下心でテレホンカードを預かることにする。
テレホンカードをそっとポケットに仕舞い、夕時の買い物客で賑わう中野ブロードウェイ地下一階食料品店街から脱出する。
半額クエストに失敗し、寿司ではなく時代物のテレホンカードを手に入れてしまった俺は、今にも沈みそうな夕日を見上げながら少し途方に暮れていた。
半額寿司を手に入れられなかった悔しさを「きっと彼女のお家は超絶貧乏で年に一回だけ食べる半額寿司が家族にとっての唯一の楽しみなんだ」とか「アイス柄のパンツを履いている女子中学生に対してムキになることなんてないじゃないか。もっと大人になれよ」みたいなことを考えて誤魔化そうとする。
いつまでも路上で心理的防衛機制の実践をしているわけにはいかないので、うにといくらを食べたかった想いを夕日にサヨナラし、まあここはいつものパターンだと腹をくくる。できる男はいつでもプランBを準備しておくものなのだ。
ブロードウェイの東側の、ゲームセンターのある出口を左手に曲がり、数十歩進む。
やってきたのは古い店構えの商店。看板には「お総菜 漬物 唐木屋」と書いてある。
「いらっしゃい。今日もお弁当?」
二階建ての古風なお総菜屋さんだ。いつも穏やかなおばあちゃんが切り盛りしている。
「ええ、――その、お稲荷さんと五目寿司のパックを一つ、あときゅうりのぬか漬け」
暑い夏にはきゅうりのぬか漬けがぴったりだ。唐木屋は、本物の『ぬか床』で漬けたぬか漬けを売っている。実は普通のスーパーには『ぬか漬け風味』のものしか置いていないのだ。
「若いんだから、もっと栄養があるものを食べた方がいいんじゃないのかい? 今日はもう店仕舞いだから、これもおまけしておくね」
ほうれん草の白和えと、鳥レバーの煮込みをサービスしてもらった。思わぬ心遣いにお礼を言う。
昔ながらの店構えのせいか、ここに来るとなんだか懐かしい気持ちになる。
「中野の街も変わっていくわね。お向かいも五年くらい前までは、この店と同じような、古めかしいお家が建っていたのよ」
振り返ると、そびえ立つのは二十四階建ての住宅用高層タワーマンション。ちょうどブロードウェイの東側に隣接するように立地している、この辺りで一番高い建物だ。数年の工事を経て、ちょうど昨年完成したらしい。
街の移り変わりに思いを馳せながら、お礼を言って、家に帰ることにする。
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