第22話 つう

 始業のチャイムが鳴るのとほぼ同時に森下が教室に入って来た。

 この学校には日直がいない。朝の挨拶の音頭をとるのはクラス委員だが、恭輔はそのことを知らない。クラス委員は、男子は飯野、女子は岩本――壁にそう貼紙がしてあったのを恭輔は覚えている。しかし、それがどの子なのかは分からない。名札がないのである。恭輔にとって知らないこと、分からないことだらけだった。

 そんな中、一時限目の国語の授業が始まった。

「教科書の七十五頁を開けてください。今日から『夕鶴』という新しいお話です。誰かに読んでもらおうかな……」

 森下はそう言って教室の生徒達を見回した。五、六人からすっと手が挙がった。そのうちの一人は恭輔だった。学校が変わっても、今まで勉強してきたことは通用するはずだ――彼はそう気持ちを強く持った。

「じゃあ、新田君」

「はい」――クラス中の皆が恭輔の方を見た。

 恭輔は、立ち上がって両手に教科書を持ち、表題から読み始めた。

 この話は、葛西東小の三年五組では、もうかなり先まで進んでいる。恭輔は、読めない字やつかえる所もなく、情景や登場人物の心情が聴く者に伝わる抑揚をもって読みこなしていった。

「はい、そこまで」――教室の中は静まり返った。

 恭輔は静かに椅子を引いて着席した。

「この先を読んでくれる人」――先程のように手は挙がらなかった。 

 森下はしばらく待った後、自分の右手を挙げる真似をして生徒達に挙手を促した。

 すると、この沈黙が予期せぬ形で破られた。

「それ、お前の教科書じゃないな」

 恭輔の左斜め前の席に座ってキョロキョロしていた剛史である。再びクラスの皆が恭輔に注目した。

 恭輔は、何を言われているのか、俄かには理解できなかった。が、剛史の視線が教科書の裏表紙に向けられているのに気づいて事態を呑み込んだ。

「3-5緋浦」――黒マジックでそう書かれていた。

 恭輔は、机の上に立てていた教科書をそのまま寝かせ、無言で「つう」の挿絵を見つめた。

「その教科書は、昨日先生が新田君に貸してあげたんです」

 恭輔が立ち上がって朗読している時、森下は裏表紙の名前に気づいていた。彼女は次の読み手に剛史を指名してその場を収めた。

 不意な先制パンチを食らった恭輔は、五分間の休憩では回復し切れないダメージを受けた。二時限目の算数がテストだったことが、彼にとっては幸いだった。(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る