第19話 マスオさん

「新田」――これは慶子の実家の姓である。慶子は二年前に緋浦から復氏した。この時、茉莉子と恭輔も戸籍上は新田となったが、既に葛西東小に通っていた茉莉子に配慮して、学校では緋浦で通していたのだった。正義は慶子との婚姻の際、二人の子供達の先行きを考え、自分が姓を変えて新田を名乗ることにしたのである。彼は長島の出身だったが、両親や兄弟は皆、他界していたから、彼の周りに反対する者は誰もいなかった。


「恭輔はどうだったの?」

 茉莉子は矛先を弟に向けた。

「一応、そのつもりでいたんだけど、先生が書いてくれたよ。振り仮名もね」

「えーっ。なんだ、つまらないの」

 姉の不服そうな顔に恭輔は涼しい笑みを浮かべたが、一方で疑問を抱いていた。

 ――確か、結婚すると男の方の名字になるんだよな?

 恭輔はあとで家に帰ってから慶子に聞こうかとも思ったが、思い切ってその場で切り出してみることにした。

「ねえ、『新田』って、お母さんの名字だよね……」

「ああ、そうだよ。結婚すると、夫婦は名字を一緒にしなきゃいけないんだけど、それは旦那さんの方でも奥さんの方でも、どっちでもいいんだよ」

 勘のいい正義は慶子の視線を感じながらごく自然に対処した。

「えっ?そうなんだ」

「恭輔、知らなかったの?うちのお父さんは『マスオさん』ってことだよ」

 今度ばかりは茉莉子の方が一枚上手だった。

「まあ、そういうことだな」正義は苦笑した。

「でもさ、何でお父さんはマスオさんになろうと思ったの?」――茉莉子は核心に迫って来た。

「うちは母さんの方が強いからな」

「確かに、ね」

 正義と茉莉子のやり取りに慶子の頭から角が生えてきそうだった。

「冗談、冗談。だってさ、『新田正義』って、何か格好いいだろ?――戦国の武将みたいでさ」

「うわっ、オヤジくさっ」

 茉莉子と恭輔は、バス停に他には誰もいないのをいいことに、大笑いした。正義は満足げに慶子の方をちらりと見た。

 そんな四人の一部始終を、ひまわり型のささくれ立った白い標識が見下ろしていた。……(つづく)

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