第10話 転校
「最後に武藤先生と会えてよかったじゃない」
慶子は、正門を出て直ぐの横断歩道に向かう途中、後からついて来る恭輔を振り返りながら言った。
「武藤先生はね、恭輔が二年生の時に、ここにいたんじゃ能力を伸ばせないって――僕が国立大の附属小に実習で行った時、授業への反応のいい、恭輔君に似たタイプの子達がクラスに何人もいました。そういう環境で揉まれればお子さんはもっと伸びます、って言ってたんだよ。その時はそんな事を言われてもどうすればいいのかって思ったけどね……」
葛西東小は、区内でも学業のレベルが低い学校とされていた。有名私立中学への進学者が滅多に出ないのは勿論のこと、卒業生の大半が入学する区立葛西東中学校の進学実績からそのような認識が一般的となっていたのである。そればかりか、葛西東中は素行の悪い生徒が多いことで知られており、実際に学校内も荒れていた。恭輔も東中のそんな話を何度か聞いたことがあったから、先程の武藤の言葉の意味も今、頭では理解することができた。が、その一方で、慶子の話は、恭輔の、楽しかった武藤と二年一組の思い出を俄かに色褪せたものにしてしまった。
「今日はこれからお姉ちゃんと松江に行くからね」
慶子はせわしなく続けた。
「えっ、学校に行くの?」
それまで無言で歩いていた恭輔は顔を上げた。
「学校には行かないけど、いろいろ転校の面倒を見てくれる先生と会うのよ」
そんなやり取りをしているうちに二人は自宅に着いた。
慶子は腕時計に目をやりながら玄関口から茉莉子を呼んだ。家に上がって直ぐの所には手提げ袋が二つ並んでいた。葛西では名の知れた和菓子屋「細埜」の袋だった。彼女はブーツを履いたまま身を乗り出して袋の中身を確認すると、その一つを手に取って靴を履き終えた茉莉子と一緒に家を出た。いち早く家に荷物を下ろして外で待っていた恭輔は、出て来た二人の後について駅前のバス停に向かった。
松江は、葛西からバスで二十分程かかる。三人はバスに乗り込むと、車内の路線図を見ながら、松江までのバス停の数や松江の一つ手前のバス停が西一之江一丁目であることなどを確認し合った。その間、慶子は何度も腕時計を見ていた。
「次は松江、玉屋酒店前でございます」――アナウンスのテープが流れた。
降りたのは三人だけだった。バス停の近くには酒屋など見当たらず、地味な食品スーパーとそれとは対照的な「グリーンホール」と看板を出したパチンコ店が見えた。
慶子はコートのポケットからメモを取り出し、それを見ながら歩き始めた。茉莉子と恭輔はその後をついて行った。――昔ながらの母屋と建売住宅の入り混じった街並みには、寒空に枝を突き立てた銀杏が素っ気ない顔を見せていた。
それから程なく、白い大きな建物が三人の視界に入って来た。恭輔は気を利かせたつもりで建物に向かって走り寄り、門柱に『区立松江南小学校』と型押しされたパネルを見つけると、それを指して威勢よく二人を振り返った。
「ここが学校だよ」
建物の新しさでは葛西東小の新校舎に引けを取らなかったが、街中に立地しているだけあって校庭は狭く、恭輔を内心がっかりさせた。この日、慶子の目的地はその校舎の裏手の松野酒店という酒屋だった。
「ここだわ……」
慶子は店の看板を見つけると中に入って行った。自動扉が閉まらないうちに茉莉子と恭輔も後に続いた。
特に何かを買う様子でもなく手持ち無沙汰にしている慶子と、それを不思議そうに窺っている茉莉子と恭輔だったが、程なく自動扉の開く気配がしたかと思うと、濃紺のジャージの上下を着た、小柄で薄紅色の縁の眼鏡をかけた年配の女性が中に入って来た。(つづく)
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