第9話 二年一組

 恭輔は右手に鞄、左手に絵具箱と体操着袋を携え、振り返った慶子の後を小走りに追った。

 正門玄関口に着くと、慶子はPTA用の赤いスリッパからスウェードのブーツに、恭輔は緑色のゴムに縁取られた白い上履きから運動靴に履き替え、校舎の外に出た。

 するとその時、外から見ると薄暗い廊下の奥から大きな声がした。

「待ってください!」

 背の高い人影が音を立てて二人に近づいて来た。

 慶子は思わず後ずさりした。恭輔は瞬時にそれが誰なのか分かった。長身で器械体操の選手のようなシルエット、自然に動く少し長い髪、大きなストライド、そして力強く通る声。――今は五年二組担任の武藤である。

 彼はいつものエンジに白のラインが入ったジャージ上下に身を包んでいたが、足許は紺色の靴下だけだった。五時限目の授業が音楽で空き時間だった彼は、二人を見つけるが早いか、廊下に上履きを脱ぎ捨てて来たのである。

「どうしたんですか、緋浦さん――」

 呼吸を整える間もつくらず、そのままの勢いで武藤は慶子に尋ねた。その黒縁眼鏡の奥には、一杯に開いた小さな瞳が光っていた。授業の途中で母親に付き添われて下校する元気のない生徒――彼の目には恭輔がそう映ったのである。

「今日で転校することになったんです」慶子の表情は曇った。

「……そうですか。――どちらへ?」

 武藤は一拍置いてごく自然に切り返した。

「松江南小です。姉が松江中に行くものですから一緒に」

 武藤はそれ以上の事は訊かなかった。転校の理由におおよその見当がついたからである。

「松南ですか、――恭輔君にとってもその方がいいかもしれませんね」

 恭輔には武藤の言葉の意味が分からなかった。寧ろ、この元担任に今回の転校の話をもっと聞いてほしかった。そしてこの転校に反対してほしかったのである。

 しょぼくれた様子の恭輔を見た武藤は右手を差し出して言った。

「向こうに行ってもがんばれよ」

「はい……」恭輔は急いで鞄を足許に置いた。

 勝手な期待をしていた恭輔は、武藤の大きな掌にその右手を包まれながら、肩透かしを食らった思いに沈められた。それと同時に、もう武藤のクラスになる可能性もなくなってしまったことを現実として受け容れざるを得ない無力感に襲われていた。

 楽しかった武藤との二年一組。――休み時間のドッヂボールで恭輔が渾身の力を込めて投じたボールがいとも簡単に武藤の掌中に収まってしまい、彼の逆襲にあったこと。それが悔しくて外野に回ってからチャンスを窺って武藤のお尻に思い切りボールをぶつけてやり、「いてぇっ!」と飛び跳ねるのを見て有頂天になった恭輔。交通事故に遭って入院している松下を見舞いに行った時、付き添っていた彼の母親から苦手な大福を出されて困っていると、恭輔の分もペロリと平らげて口のまわりを白くしながら片目をつぶっていた武藤の笑顔。他のクラスの子にいじめられ、膝を擦りむいて泣いている康夫の話を放課後の教室で聴いていた恭輔が、「味なマネしやがって」と粋がった時、それまで黙って隣に座っていた武藤に右太股をピシャリとやられたこと。――恭輔の頭の中では総集編のVTRが早送りで再生されていた。大好きだった武藤が急に遠い存在となってしまった。

「これから転校の手続などでいろいろ大変でしょうから……」

 武藤はそう言ってその場を切り上げようとした。

「先生には本当にお世話になりました」

「こちらこそ、何もできなくて……」

 そんな大人のやり取りの横で恭輔は徐に玄関口のガラス扉へ視線を移した。

 あの事件以来、黄色とピンクの花柄のシールが貼り付けられていた。(つづく)

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