第8話 学級文庫
恭輔が教室に戻ろうとした時、ちょうど廊下には藤木がやって来ていた。彼は恭輔の姿を見つけると、教室に入るよう目で促したが、その後直ぐさま恭輔の後方に目を向けると、視線を落とすように頭を下げた。
恭輔は藤木の仕草に振り返った。そこに慶子の存在を認めた。が、そのまま教室に入った。
クラスの皆は、体操着に着替え始めていた。恭輔も皆に倣って着替えを始めた。前屈みになってセーターを首から引き抜き、シャツのボタンを二つ外したところで、背後から聞き慣れた声がした。
「恭輔、――何、着替えてるの、もう帰るんだよ」
低い声ながらも威嚇する母親の口調に恭輔は観念した。セーターを被り、シャツのボタンは留めずに荷物をまとめ始めた。
藤木は、その様子を見て取り、皆を着席させた。
「これで緋浦君は帰ります。寂しくなりますが、学校が変わっても緋浦君はいつまでもこの三年五組のクラスメートです。今日緋浦君と話したこと、これまで緋浦君と一緒に過ごしたことは皆の心の中から消えることはありません」
――「さようなら」はなかった。
「どれでも好きな本を持って行きなさい」
藤木は教室の前の扉の横にある学級文庫を指して恭輔に言った。学級文庫の本は、クラスの生徒達が各自持ち寄ったものだった。
恭輔は、やや困惑しながら棚に並んだ本を選び始めた。
自分が持って来た本を持ち帰る訳にもいかないし……クラス全員の視線を背中に感じながら、遠慮がちに一冊、理科の学習マンガを手に取った。
「村野君のだ」――修一の呟く声が聞こえた。
恭輔はそれを聞いて、特別に仲が良い訳でもなかった村野に――彼は唯一、恭輔に一票を投じなかった男子だが――申し訳ないと思った。修一の言葉は、村野を羨ましく思う気持ちから出たものだったが、恭輔にそれを汲み取ることはできなかった。
恭輔は俯きながら、両手で隠すように本を抱え、席に戻ろうとした。
「もう一冊持って行きなさい」――藤木がそう言うので、恭輔はさらに恐縮して、今度は童話集を一冊もらった。
「皆、ありがとう」――恭輔はそう言えなかった。より正確には、この時その言葉を思いつかなかったのである。
慶子はその一部始終を教室の後ろに立って見ていた。教壇の藤木に向かって軽く頭を下げると、教室の外に出て行った。
恭輔もそれを追うように教室の後ろの扉の所まで足早に進むと、振り返って深々と一礼した。
「緋浦君、元気でな」
「がんばれよ」
「また遊ぼうな」
「いつでも来いよ」……
そんなクラスの皆の声に送られながら恭輔は教室を後にした。先を行く慶子の踵を睨みつけていた。
主のいなくなった机の中には、持ち主の分からない一本のペンだけが残っていた。(つづく)
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