第5話 お盆
そろそろチャイムが鳴るかというところで、藤木は教室に戻って来た。何人かの生徒達の机上に「アキラ」の似顔絵を見つけた彼は、教卓に一番近い席に座る恵美に事のいきさつを聞かされた。恵美のノートを手に取り、少し首を傾けながらしばらくそれを眺めると、今度は教室内に視線を一周させた。
「皆、よかったね」
そう言った藤木の大きな目に笑みはなかった。……
教室には空腹に応えるカレーの匂いが漂って来ていた。
いつもと変わらず、給食当番の生徒達は白衣を身に着け、調理室に向かった。食パンの入った大きなタンスの引出を思わせるアルミ容器や、カレーが入っていると思われるバケツ型の容器などを重そうに運んで来た。給食当番以外の生徒達は、手際よく班ごとに机の島を作っていた。
恭輔は、自分の机を動かして島の中に滑り込ませたものの、その後はどうしたらよいか迷っていた。午前中で帰らなくていいのか、そう思っていた。恭輔のそんな胸の内を見透かしたのか、敏行は食事を取りに行こうと彼を誘った。
二人がアルミのお盆を持って配膳の列に並んでいると、開け放した教室の扉の外でちょっとした騒ぎが起こった。
「緋浦!転校するんだって?」
一組の松下である。――五組以外では皆、名前は呼び捨てである。松下は一、二年生の時、恭輔と双璧のクラスのリーダー格だった。この小学校では、他のクラスの教室には立ち入ってはならないという暗黙のルールがある。松下は扉の敷居こそ跨いでいなかったが、扉に手を掛け、その上半身は完全に五組の教室に侵入していた。
体格のいい松下の声は大きい。彼の声を聞きつけた他のクラスの生徒達が給食の準備をほったらかして五組の教室の前に集まって来た。恭輔は銀色のお盆を手にしたまま、大勢の訪問客の応対に追われた。――その中の一人、元二年一組の康夫がノートの頁を一枚破って持って来ていた。勿論、五組の生徒達と同じように、恭輔からサイン入りの「アキラ」をもらうためである。
あっという間に廊下には人の輪が広がり、それは次第に行列となっていった。
すると、そのあまりの騒々しさに、何事かといった様子で四年一組担任の丸山が顔を出した。彼女は行列の先に恭輔を見つけると、三年五組の教室に向かって廊下を歩き始めた。藤木より教員歴は短いが、彼女も躾に厳しい教師として知られている。行列を作る生徒達の表情が一様にこわばった。
丸山はお盆の上の紙片にペンを走らせる恭輔の所に辿り着くと、恭輔の手許に視線を向けた。
「絵が上手とは聞いていたけれど……」
左手の人差し指の関節を軽く唇に当てながら、身を屈めてお盆を覗き込んだ。
「うん――」
彼女は頷いて顔を半分隠した髪を耳に掛けると、今度は恭輔の不安げな顔を覗き込んだ。それから少し間があった。
廊下の他のクラスの生徒達は喋るのを止め、五組の給食当番の生徒達は手を止めた。教室の扉の周りにいる生徒達は皆、息を止めていた。
「転校してもがんばってね」――やさしい笑顔だった。
「はい」恭輔は丸山につくり笑顔を返した。
「ほら、ほら、皆、自分の教室に戻って。続きは昼休みにやりなさい」――藤木がやって来た。
「すみません」藤木は丸山に軽く頭を下げた。
行列はあっという間に解消された。
恭輔は自分の右手にあるペンの持ち主を思い出せないまま、席に戻って来た。
「緋浦君、もうお盆はいらないよ」敏行は可笑しそうに言った。
白いクロスがかけられた机を見ると、恭輔の分の食事はもう用意されていた。
「あ、サンキュ……」
恭輔はお盆で自分の頭をポンポン叩きながら、使用済み食器の置き場にそれを返しに行った。
班の皆が笑いながらそんな恭輔の後姿を見守っていた。(つづく)
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