第4話 アキラ
このクラスは他のどのクラスよりも授業の開始が早い。八歳、九歳の子供の集団とは思えないくらい教室内は静まり返っている。恭輔は今日に限ってはこの空気を重苦しく感じていた。
藤木が日直の修一に目で合図を送る。
「起立、礼――」
生徒達は一斉に立ち上がり、一糸の乱れもなく頭を下げ、姿勢を元に戻した。
「着席」――椅子の音が止むのに三秒とかからなかった。
藤木は、大きな瞳にクラス全員を映し、おもむろに口を開いた。
「緋浦君が、今日でこの葛西東小学校を転校することになりました」――意を決した口調だった。
やっぱり、母さんは先生に転校の話をしたのか……
俯いた恭輔は机の下で拳を一つにした。
三年五組の教室はどよめいた。恐らくこんなことは初めてだろう。「えーっ」だの、「ほんとに……」だの、「どこへ?」だの、なかなか騒ぎは収まらなかった。藤木はそれを制止することもせず、黙ってその大きな瞳にクラス全員を映している。
恭輔は、遂に来るべき時が来てしまった、そんな神妙な面持ちで固まっていた。クラスの皆を裏切った気持ちにもなっていた。周りの何人かの子から声を掛けられたが、まともに応えることができず、ただ頷くばかりだった。
しばらくすると、三年五組の教室は自然に前の静けさを取り戻していた。生徒達は先生の次の言葉を待っているのである。
「四時限目の国語は自習にします。このクラスで緋浦君とお話ができるのも今日が最後です……」
藤木はそう言い残して教室を出て行った。
教室の扉が閉まるや否や、クラスの男子が恭輔の席を取り巻いた。
「引っ越しちゃうの?」敏行が先陣を切った。
「当分はそのまま今の家に住んでるよ」
幾分か落着きを取り戻した恭輔は言葉を選んだ。
「じゃあ、何で転校するの?」間髪入れず修一が突っ込んだ。
「うちの姉ちゃんが行く中学の傍の小学校に行くんだよ」
「そうか!緋浦君のお姉さん、今、六年だもんな。私立に行くのか」――恭輔は言葉に詰まったが、自分では納得のいかない答えをしたのに、周りが妙に納得してくれて助かったと思った。
男子のそんなやり取りを女子も聴き入っていた。
話も一段落すると、敏行がノートを開いて恭輔に差し出した。
「記念にサインしてよ。あと、絵も。そうだな、アキラの似顔絵がいいな」――恭輔は字も絵も上手だった。皆もそれをよく知っている。一年生や二年生の時もクラスの男子にせがまれて、よく絵を描いてあげていた。「アキラ」というのは、沖縄出身の兄妹五人から成る、人気アイドルグループの中心的存在の男の子のことである。
恭輔がノートの上でペンをすらすら動かし始めると、皆はこぞってノートを手に敏行の後ろに並び始めた。あっという間にクラスの男子全員の行列ができた。
「おれは車の絵がいいな、スポーツカーみたいなやつ」
恭輔はどんな要望にもお安い御用といった感じで、どんどん注文をさばいていった。が、ハイペースでこなしている割には行列の長さはあまり縮まらなかった。いつの間にか、ためらいながらも女子達が少しずつ行列に加わっていたからである。彼女達は自分の順番が来ると、決まって上目遣いで「アキラ」を注文した。
もう直ぐ四時限目も残すところ一、二分というところで、恭輔は自分を除いたクラス全員三十四人のうち、三十三人にサイン入りの絵をプレゼントすることができそうだった。
残った一人――恭輔はそれが誰なのか分かっていた。唯一サインをもらいに来ていない彼女は、この間少しも席を離れず、普段の授業中と変わらぬピンと背筋を伸ばした姿勢でずっと国語の教科書を黙読していた。これまで恭輔は手を動かしながらも、彼女の席の方をちらちら見ていたのだった。
いつ来てくれるのだろう……そう思いながら、とうとう行列の最後尾、三十三人目の恵美の番になってしまったのだった。
恭輔は恵美のノートを机に置くと、それまでよりも随分丁寧にペンを動かした。しかし、一分とかからず「アキラ」の顔の部分を書き終えてしまうと、仕上げに長い髪型を整え、その右斜め下にもはや慣れた手つきで『緋浦恭輔』と添えた。
もう順番を待つ子はいなかった。
恭輔は、恵美にノートを返し、「ありがとう、上手ね」と笑顔で言われた時、照れた仕草を見せながらも落胆していた。
来てくれなかったか……
幻の三十四人目――池谷結子。恭輔は彼女の自習する後姿が目に焼き付いて離れなかった。(つづく)
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