第3話 招かれざる訪問者

 三時限目も半ばに差し掛かった頃、教室の前の扉が動いた。

 恭輔は固唾を飲んだ。

 藤木は教壇を降りると、白い指で扉を引いた。軽く頭を下げながら廊下へ出て行った。

 それからかなりの時間が過ぎた。

 扉の向こうが、廊下に立っているもう一人の人物が誰なのか、恭輔は気になった。

 するとその時、教室の後ろの扉に一番近い席に座っている昌巳が、扉をそっと開けて廊下の様子を窺った。直ぐに扉を閉めた。息を弾ませながら、声を落として言った。

「緋浦君のお母さんだ!」

 恭輔の不安は的中した。――まだ来るな、いや、来ないのかもしれない、来ないでほしい。見づらい板書を眺めながらそう祈って止まなかった人物が今、扉の向こうに立っている。

「緋浦君のお母さん?」

「何だろう、授業中に……」

 そんな声が教室の中のあちらこちらから聞こえて来た。

 しかし、それ以上声高に無駄話をしたり、席を離れて遊び始めたりする子は見当たらなかった。藤木は普段から躾に厳しい教師である。このクラスの子達がクラスメートを「さん」付け、「君」付けで呼び合うのも彼の指導によるものだった。

 さすがにこの時ばかりは、恭輔も「先生が戻るまで自習にしよう」などと皆の前で提案することにまで気が回らなかった。ただひたすら教室の前の扉を横目で見つめていた。

 周りの子達も恭輔にいつもと違う雰囲気を感じたのだろうか、何故母親が訪ねて来たのかを訊けないでいた。

 すると、恭輔と同じ班で彼を最も慕っている敏行が、後ろの席から身を乗り出して、そっと耳打ちするように言った。

「これから病院に行くの?」

「う、うん……」

 恭輔はとりあえず、風邪で病院へ行くことになってしまった。


 今朝家を出る前、恭輔は慶子から、一時限目か遅くとも二時限目の途中には教室に行くと言われていた。それが、二時限目が終わって三時限目の半ばを過ぎても一向に現れる気配がないので、ひょっとしたら予定が変更になったのかもしれない、と半ば願望に近い判断を下そうとしていたところだった。

「緋浦君、大丈夫?――帰る支度しなくていいの?」

 敏行は、心配そうに恭輔の顔を覗き込みながら言った。

「あ、うん、大丈夫……」

 恭輔は、敏行の言葉に、帰る支度はしておいた方がよいかもしれないと思い、机上の算数のノートを閉じようかとその左端に指先を向かわせた。

 するとその時、「ガラッ」と前の扉が開いた。

 藤木が姿を現した。教室に身体を入れると、後ろ手に扉を閉めた。恭輔はその動作から慶子が既に帰ったことを悟った。

 藤木はしばし黒板に目をやり、何も言わずに板書を始めた。いつも以上に見づらい数字や符号を書き連ねていったばかりか、書いては消し、消しては書く、この繰り返しだった。その度に子供達の手がせわしなく動いた。

「キィンコン、カァンコン……」

 そんなことをしているうちに、三時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。

「それでは、今日の算数はここまでにします」

 藤木は教科書を閉じ、黒板の数字や符号を名残惜しそうに全て消すと、前の扉を開け放って教室から出て行った。

 クラスの皆は各々席を離れた。が、恭輔は席を立たなかった。誰かが教室の後ろの扉を開け、何人かが教室から廊下へ出て行った。廊下ではいつもと違った言葉や動きはなかった。

 恭輔は背中にその様子を実感すると、ようやく――まるで命拾いでもしたかのように肩の力を抜いたのだった。(つづく)

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