第7話 二十五年前・3

 和成は一度家を出たあとすぐに戻り、自室のクローゼットに掛けられた薄手の上着を長袖の上から羽織ってまた家を出た。十月の半ばだが、外の空気は意外なほど冷たかった。

 まだ人の疎らな通学路をゆっくりと歩き学校へと向かった。

 一学期も早いといわれていた和成の登校時間は、二学期になりさらに早くなっていた。登校中、同じクラスの者に出会うのをなるべく避ける為だ。

 すでに二人登校している教室に入り、和成の指定席になっている四列目の一番後ろの席に腰を下ろした。席替えの時に、ジャンケンで負けた者がその周りに集まるということを、和成は知っていた。

 席に着きランドセルを片づけたあと、図書館で借りた宇宙人と出会った少年がいろんな星を旅するというストーリーの小説を机の上で開いた。夏休みに父親の本を読んだことで小説にハマり、今では智也に声を掛けられない限りずっと本を読んでいる。

 主人公の少年が、重力が軽い星の、不思議な生物溢れるジャングルを浮かぶように散歩しているという想像を和成が膨らませていると、不意に宙に浮いたような感覚に襲われ、すぐにお尻と腰に強い衝撃が走った。周りの笑い声に顔を上げると、智也が椅子に手を掛けながら笑っている。

「やめてよ。びっくりするだろ」智也を刺激しないように、笑顔を作った。

「ビビりすぎだよ。また泣いちゃうんじゃないか」智也の言葉に周りは笑う。この教室の中では、智也のいるところに人が集まるようになっている。

「椅子返してよ」和成は智也が手を掛けている自身の椅子に手を掛けた。

「ダメだ。今日はずっと立ってろよ」和成の手を払いのけ智也が笑いながら答えた。

「それいいね」良樹が智也の意見に賛同すると、他の者も和成を茶化すように賛同の言葉を言い始めた。

「先生に注意されちゃうよ」和成がもう一度自身の椅子に手を掛けたと同時にチャイムが鳴り、智也は椅子から手を離し、他の者と一緒に席へ戻った。

 教師が来たことで朝の会が始まり、いつも通りの一日が始まった。一時間目の休み時間に、また椅子を引かれ尻餅を付き笑われ、二時間目の休み時間は一人で過ごした。

 三時間目の授業が終わり、和成は四時間めの授業のために教科書とノートと筆箱を持ち教室を移動しようと席を立ち上がった。

「カズ、俺のも持ってって」

 智也に気づかれ声を掛けられた。周りにいた他の者も「じゃ俺も」と一度自分の席に戻り次の授業の用意をし始めた。

 和成は智也の席に近づき、集まった教科書やノートを五人分受け取り、その上に五つ筆箱を乗せられた。

「じゃ先に行ってるね」和成はまた笑顔を作り歩き出した。

 三階の教室から一階の教室に向かうために階段を歩いている途中、崩れ掛かった教科書の山を直そうと手首に力を入れ少し動かした。その動きで、五人分の教科書やノートの上に不安定に積まれた五つの筆箱のうち、一つだけその山から落ち、階段を転がった。

 階段の中腹で止まった、蓋が壊れ鉛筆や消しゴムが散乱したその筆箱は智也のモノだった。

 和成は鉛筆や消しゴムをすぐに拾い集め、そのあと壊れた筆箱を見たが自分の力では直せないことが一目で分かり、嫌な想像が頭の中を駆けめぐった。血の気が引き、指先は冷たくなっていた。

 智也の気に障ると、暴言を吐かれ殴られる。気分次第ではお金も取られるな、と和成は予想した。

 夏休みの間に、智也には一万円以上の金額を無理矢理使わされている。直接取られたこともあった。父親がなにもいわず、なくなった分だけ電話機横の引き出しにお金を入れてくれることが救いだった。なにか聞かれたらどうしようと、和成はいつも不安だった。

 移動先の教室に入り智也がくるのを待った。その間に鼓動はどんどん早くなり、吐き気さえ感じていた。

 不意に廊下から智也の笑い声が聞こえ和成の頭は真っ白になった。そのあとすぐに智也は教室に姿を現し、和成に近づいてきた。

「俺の教科書とノートちょうだい」智也は和成に手を差し出した。

「とっ智也、あの、ごめん。筆箱落として壊しちゃった」できるだけ顔に反省の色を浮かべた。

「はっ、なに?」智也の顔から笑みが消えた。

「階段で……えぇと、智也の筆箱だけ……落としちゃって、それで、直そうと思ったんだけど」

「なんで俺のだけ落とすんだよっ」智也の顔は徐々に怒りで埋め尽されていく。

 智也は机の上に置かれた自身の筆箱に手を伸ばし、両手で持ち上げ蓋が壊れていることを確認した。それを見た周りの者は、それぞれ和成に非難の言葉を浴びせた。

「わざとじゃ――」

「お前ふざけんなよっ」智也は怒鳴り、壊れた筆箱を和成に投げつけた。

「イタッ」筆箱は和成の肩に当たり、机の上や床には、中に入っていた筆記用具が散らばった。和成の近くに座っていた者たちは席を離れる。

「弁償しろよ、お前」

「うん、すっ、するよ」和成は床に落ちた筆箱を見つめながら答えた。

「じゃ明日一万円持ってこいよ」

「一万円……」和成が顔を上げると智也と目があった。

「なんだよ」

 智也の顔にはまだ眉間にシワが寄り、声は大きく怒鳴るように出していたが、目には違う意味が込められているような気がした。

「一万円は……無理だよ」和成はまた下を向いた。智也の目に無性に腹が立ち、顔に出てしまいそうだった。父親をバカにされたような気がした。

「人の筆箱壊しといてなに反抗してんだよ」智也は怒鳴りつけるように叫び、下を向いている和成の短い髪を掴み引っ張ったが、上手く掴めなかったのかすぐに指から抜けた。

「智也、そろそろ先生くるよ」智也のそばで誰かがつぶやいた。

「うるせえよ」先生が来ることを伝えた者に勢いで怒鳴りつけ、大きな舌打ちをしたあと和成の前に置かれた教科書の山から自分のモノを取り出し智也はその場から離れた。それに続くように智也と一緒に来た者達も教科書の山から自分のモノを取り、智也のあとを追った。

 智也が去ったことで和成は立ち上がり、壊れた筆箱と散らばった筆記用具を拾い集めまた席に付いた。そのあとすぐにこの教室で行われる教科の担当教師が教室に入り、チャイムの音を合図に授業が始まった。

 授業が終わり、和成は智也に声を掛けられるかとしばらく席から動かずに待っていたが、智也は自分の席から立ち上がり、何事もなかったかのようにいつものメンバーと教室から出ていった。それを見送ったあと和成も立ち上がり教室を出た。

 和成の予想に反し、四時間目から最後の授業が終わるまで、智也に声を掛けられることはなかった。声を掛けられたタイミングで返そうと思っていた壊れた筆箱を、どうしていいか分からず机の中に閉まっていた。

 最後の授業が終わり掃除の時間になった。和成は慣れた手つきで教室のゴミを集め、良樹がゴミ袋を持ちすでに教室の外で待っている三人の元に、机から筆箱を取り出し駆け寄った。

「カズ、お前一人で捨ててこいよ」智也は和成を見るなり良樹の持つゴミ袋を取り和成に差し出した。

「うん、分かった。あの……筆箱本当にごめん」和成は頭を下げ、筆箱を智也に差し出した。

 智也は和成の言葉を無視して教室の中へと入っていった。

「早く捨ててこいよ」良樹が笑いながらそういって智也のあとに続き、それを追うようにヒロも教室の中に入っていった。

 和成は一人校内を歩きながら安堵していた。なにか言われるのはこの掃除の時間かもしれないと思っていた。これからずっと口を利かないつもりなら、そのほうがいいと思った。

 廃棄場に着きゴミ袋を指定の位置に置いた。

「おい、カズ」

 声のする方に目を向けた。コンクリートに囲まれたゴミ袋置き場の横に立つ焼却炉の前に、勝ち誇った様な笑みを浮かべる智也と、少し心配そうな表情を浮かべ顔を左右に振っている良樹が立っている。智也の勝ち誇ったように上げられた右手に握られている、熊のキーホルダーの付いた黄色い財布が和成を不安にさせた。

「智也と良樹も来たんだ。どうしたの?」智也を出来るだけ刺激しないように、あえて財布のことは口にしなかった。

「ゴミ燃やしに来たんだよ」智也は財布を持っている右手を揺らした。

「財布返してよ」嫌な予感がした。少し口調が強くなった。

「じゃお前も筆箱返せよ」智也の顔には笑みが浮かんでいる。

 和成はポケットに閉まっている筆箱を一度取り出そうとしたが止めた。

「筆箱はちゃんと弁償するから」

「一万円」智也は左手の中指を立て前に出した。

「分かった。すぐは無理だけど持ってくるから」必死だった。早く財布を返して欲しかった。

 良樹は見張り役で呼ばれたのか、先ほどより智也から少し離れて、まだ辺りを見回している。

「いつ持ってくるんだよ?」

「分かんないけど……ちゃんと持ってくるから」

「いつ持ってくるんだって聞いてんだよ」智也の顔に苛立ちが見え始めた。

「だから……分かんないって。僕一万円も持ってないもん」

「親父の財布から取ってこいよ」

 このセリフを聞いて腹が立った。バカにされているのは自分だけじゃなかった。父親もバカにされていると思った。夏休みの時も、夏休みが終わってからも、智也は自分の家族をずっとバカにしてたんだと思った。

「いいから財布返してよ」わずかに怒気が混じった。

「お前が悪いんだろ。ふざけんなよ」そう怒鳴ったあと智也はしゃがみ込み、和成の視界からコンクリートの向こう側に消えた。

 和成はコンクリートに囲まれたゴミ袋置き場から出て焼却炉の前へと急いだ。

 智也は両手に革製の手袋を着け、焼却炉の取っ手に手を掛けた。

「良樹っ」

 智也の声に良樹はちょうど目の前を通ろうとした和成の腕を遠慮がちに掴んだ。

「離してよっ」和成は体を軽く揺すったが、良樹が徐々に手に力を込め始めたため、腕は外れなかった。

「離すなよ」その言葉と同時に智也は取っ手を下に下げた。

 ギギイッという音と共に鉄の扉が開き、熱気と煙で智也は一度顔を押さえた。

「智也っ、やめてよ」和成は大声を出した。ゴミを捨てに来ていた四人ほどの生徒達が一斉に注目した。

 智也は一度ポケットから熊のキーホルダーが付いた黄色い財布を取り出し、和成に見せびらかすように揺らした。

「智也っ」かすれたような声が出た。嫌な想像ばかりが頭を駆けめぐった。何度も大切なモノだと伝えていた。そんなことするはずないと信じたかった。

 智也は和成に背を向けて、焼却炉の中に財布を投げ入れた。

 良樹の腕を掴み暴れるようにふりほどいた。周りの音も、自身の声さえ、和成には聞こえていなかった。智也を避けながら焼却炉の前まで走った。

 財布は和成が腕を伸ばせば取れそうな位置にあったが、炎の真ん中ですでに火を放ち始めていた。

 和成は腕を伸ばした。耐え難い熱さが腕全体を覆い引っ込めた。それでも何度も腕を伸ばした。

 腕は焼却炉の中の金具部分に当たり所々火傷し、顔も指も体中が灰や煤で黒ずんだ。それでも和成は止めなかった。どんどん燃え焦げていく財布と、熱で溶けていく熊のキーホルダーから目が離せなかった。母親の思い出が浮かんでは消え、頭の中から無くなって行くような気がした。

 財布が完全に黒こげになり、そのあとすぐに熊のキーホルダーが形を成さなくなったことで和成は焼却炉の前で崩れ落ちるように座り込んだ。

 母を助けられなかった。和成の体はその後悔で埋め尽くされていた。

「お前が悪いんだからな」智也はヒキツった笑顔を作り和成に言葉を投げかけた。

 和成にはなにも聞こえていなかった。ただ空虚な目を智也に向けた。

 智也は何度か和成に罵声を浴びせ、なんの反応もないことに苛立ったのか、大きな舌打ちをしたあと焼却炉の扉を閉め良樹を連れてその場から去った。 

 智也が立ち去ってすぐに、腕の痛みで我に返った。自分が泣いていることにもそこで初めて気が付いた。右腕が真っ黒になっているのに驚き、洗い流そうと立ち上がり心配そうに見つめる数人の間を通り抜けた。

 トイレで体の汚れを出来るだけ落とし教室に戻った。所々真っ赤になっている右腕の痛みが、悲しみを紛らわしていた。

 なにも考えられなくなっていた。なにも考えないようにしていた。腕の痛みに集中した。なにか考えようとすると、それだけで泣いてしまいそうだった。

 帰りの会が終わり、痛む腕を気にしながらゆっくりと帰り支度をして教室を出たが、智也に声を掛けられることはなかった。

 腕をさすりながらマンションに帰りすぐに風呂に入った。膨れ上がった火傷のあとにお湯が掛かると激痛が走り、大声を上げた。

 長袖のシャツを身につけ、痛みのヒドい箇所を氷で冷やしながらテレビを見て過ごした。

 毎週楽しみにしている番組をみたあと時計に目を向けると、そろそろ父親が帰ってくる時間になっていた。テレビを消し、居間の灯りを消して自室へと入った。

 暗いままの部屋の中で布団を敷き横になった。まだ火傷の痛みは引いていなかったが、父親にバレたくなかった。

 布団の中で目を瞑ると、考えないようにしていたことが溢れ出るように浮かんできた。

 どの思い出の母も笑っている。誕生日プレゼントに恥ずかしいぐらい喜んでいた。横になっている母はただ寝ているようだった。その顔さえ笑っているようだった。もう戻ってこないんだ。黄色い財布も、熊のキーホルダーも全部燃えてしまった。なにも出来なかった。見ていることしか出来なかった。もういないんだ。もう戻ってこないんだ。母さん。

 和成は声を押し殺して泣いた。

「ただいま」玄関のドアが開く音がして、久志の声が聞こえてた。

「カズ君、もう寝たのか?」一度ノックが鳴ったあとで久志の声がした。

「おやすみ」返事のないことを確認して、久志は部屋の前から離れたようだった。

 和成は声を出せなかった。まだ抑えられているモノが全て出てしまいそうだった。すでに父の声を聞いたことでその気持ちは揺らいでいた。

 あのころに戻りたかった。今度はつらい日々ばかり浮かんできた。母が生きていればと何度も思った。もう母は死んでしまったんだと、初めて理解出来た。

 和成はゆっくりと立ち上がり部屋を出た。居間に向かい一人食事をしている父親の背中を眺めた。

「父さん」

 久志の背中に声を掛けた。久志は驚いたように振り向きすぐに笑顔を作った。

 父親の顔を見て、一度止まった涙がまた溢れ出した。

「父さん……」

 和成の言葉に久志は笑顔を止め、黙ったままうなずいた。

「父さん……母さんは、母さんは死んじゃったの?」そう聞いたあと、和成は立ったまま声を上げて泣いた。

 久志は和成に駆け寄り「ごめん、ごめんな」と泣きながら何度も何度も謝った。

 父さんは悪くないと伝えたかったが、声にならなかった。ただ泣くことしか出来なかった。



『二十四年前』



 チャイムの音が鳴り、和成はスーツに身を包んだ四十代ほどの男性教師に連れられ教室に入った。教師は教壇の真ん中に立ち、和成はその横に立った。父親の仕事の影響で、二度目の転校だった。

 教師が一通り話したあと、自己紹介をするようにと声を掛けられた。

 和成は教壇の真ん中に立ち、口を開いた。

「あのっ」

 声は震え、そのあとの言葉が出てこなかった。教室で笑い声が上がった。和成の頭の中に嫌な思い出が蘇った。なんとか話そうと口を開くが緊張で声が出なかった。教室の中にはますます笑い声が広がっていった。

「おいっ、なに笑ってんだ」教師が怒鳴り声を上げた。

 すぐに笑い声は収まったが、一人の生徒が「パクパク」と口を動かし和成のマネをしたことで大きな笑いが起こった。 

 和成は泣き出しそうになるのを堪え必死で笑顔を作った。

 教師がもう一度怒鳴り静かになった教室の中で、促されるように指定の席に着いた。

 朝の連絡事項を教師が話したあと、授業までのわずかな時間で何名かの生徒が和成に話しかけてきた。

 他愛のない会話だったが和成には怖かった。また笑われるんじゃないかと思った。自分の言葉で怒らせてしまう。あのころには戻りたくない。思えば思うほど緊張してしまう自分にも気づいていた。

 それでもなんとか話そうとしたが言葉が浮かんでこず、質問に沈黙してしまうことが続いた。すぐにそれを茶化され笑われた。

 笑われれば笑われるほど黙り込むしかなかった。怒ることも、一緒に笑うことも、嫌だと伝えることも、和成には出来なくなっていた。

 一ヶ月もしないうちに、和成に話しかける者はいなくなっていた。

 授業が終わり、休み時間で周りが騒がしくなる中、和成は机の上で本を開いた。

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