第5話 二十五年前
チャイムが鳴り、岡本和成はスポーツウェアに身を包んだ細身の若い男性教師に連れられて教室に入った。教師は教壇の真ん中に立ち、和成はその横に立った。
母の急死と父の仕事の都合で転校する事になり、始業式が始まって一週間遅れでの初登校だ。
「起立、気をつけ、礼、おはようございます」一人の声に合わせほかの生徒全員が動き儀式のような挨拶をした。生徒の目はほぼ全員和成に向けられている。
「はい、おはようございます」教師が返した。
「着席」の声と共にイスを鳴らしながら生徒全員が座るのを待ち、教師が話し始めた。
「じゃあ休み前に言ったように、今日から皆の新しい仲間になる岡本和成君です。まだここに来たばっかりだから家の近い人は一緒に帰ってあげて、いろいろと教えてあげてください」教師は一間開けて「分かりましたか?」と生徒に返事を要求した。
「はあい」生徒は合わせることなく返事をした。
「じゃちょっと自己紹介でもしてもらおうかな」これまでより少し優しそうな声で、教師の目は和成に向けられた。
「はっ、はい」和成は上擦った声を出した。教師に促され教壇の真ん中に立ったが、どこに視線を向ければいいか分からなかった。
「じゃあみんな聞いて下さい」教師の言葉に生徒全員が和成に目を向け口を閉じた。
和成は気づかれないように軽く深呼吸をして、教室に入る前に自己紹介することを教師に聞いて、自分なりに考えたセリフをいおうと口を開いた。
「あっあの、岡本和成です」深呼吸の甲斐なく、和成の声は震え目は泳いだ。
「特技は竹馬です。趣味は熱帯魚の飼育です」
「俺も熱帯魚飼ってる」イスに座っていても他の生徒より頭一つ抜けている男子生徒が手を挙げた。
「智也、最後まで聞け」教師がむっとした顔を作り注意した。
生徒の何名かがそれを笑い、智也は笑顔のまま手を下げてイスにもたれ掛かった。
「よろしくお願いします」和成は頭を下げた。
教師の拍手に合わせて全員が手を叩く。
「じゃあなんか質問ある人?」教師が手を挙げて生徒を促した。
「はいっ」何名かの生徒が手を挙げた。その中には先ほど教師に注意された智也もいる。
「じゃあ……良樹」教師に指名され、口をにやけさせながら、眼鏡を掛けた小柄な男子が席を立った。
「得意なスポーツは何ですか?」たどたどしい敬語を使い良樹は質問した。
和成は唾を飲み込んで口を開いた。
「えぇと、あんまり得意なモノはないけど、鉄棒が好きです」
「ありがとうございます」良樹はお礼を述べて席に着いた。
「最後にもう一人ぐらい聞こうかな。質問ある人?」
教師の言葉に良樹を除く先ほどの生徒が手を挙げた。
「じゃあ最後に智也」
教師に指名され智也が席を立った。座っていても背が大きなことが分かるが、立つとその大きさが際立った。
「熱帯魚は何飼ってんの?」友達と話すような口調で質問する。
「前はいろいろ飼ってたんだけど、今はプレコとネオンテトラとグッピーぐらい」和成は教室に入り初めて笑顔を見せた。
前の学校では、熱帯魚を飼っている友達がおらず、智也が自分の好きなことに興味を持ってくれることに喜んだ。
「プレコいるんだ。おっきいやつ?」智也は両手を使い自身の目の前に三十センチほどの空間を作った。
「ううん、小さいやつ。あんまり大きくならない種類のプレコ」和成も智也と同じように十センチ程の空間を作った。
和成は自身でも気づかぬ内に緊張が解けていた。智也とはまるで前から友達だったかのように話が出来た。
「小さいやつかあ。前は何飼ってたの?」
「智也、何回質問すんだ」智也の勢いに教師が割って入った。何名かの生徒がまた笑った。和成も思わず笑っていた。
教師は智也が恥ずかしそうに席に着くのを待って「じゃ和成はあそこの空いてる席に座って。綾、移動の時とかいろいろ分からないと思うから教えてあげて」と窓際の一番奥の席を指した。
教室の席は男女隣同士が五組づつ三列と、四列目だけ六組になっていた。和成はその六組ある四列目の一番奥の席に向かって歩いた。
和成の指定された席の隣には、少しふっくらとしたショートヘアーの少女が座っている。
和成は綾に挨拶でもと悩んだが、言葉が浮かんでこず無言で席に着いた。綾は和成に興味ないかのようにずっと前を向いている。
「じゃあ今日は――」と教師はその日の連絡事項を事務的に話し始めそのあと出席を取り、和成の紹介で時間を取られたのか、そのまま授業に入った。
初登校のことなど気にせずに勧められる授業に和成は戸惑ったが、隣の綾は和成の質問に嫌な顔一つせず、その都度親切に説明した。
一時間目の授業が終わり、和成が次の授業の教科書を出そうとしているところに、智也が良樹ともう一人、少し太った男子を連れて席に近づいてきて、机の横に立ち口を開いた。
「よっ、熱帯魚仲間」智也は和成の肩に手を置いた。
「智也君だっけ?」分かっていたが確認で聞いた。
「君なんか付けなくていいよ。こっちが良樹でこっちがヒロ」智也は二人を紹介した。
「よっ、よろしく」二人に軽く頭を下げる。
「熱帯魚って何が面白いの?」良樹が不思議そうな顔を眼鏡から覗かせて質問した。
「だから水槽買って育てて見ろって。お前も熱帯魚仲間になろうぜ」智也が横からその質問に答えた。
「金魚じゃダメなんだろ?」ヒロは開いてるか開いてないか分からないような目を和成に向けて話す。
「別に金魚でもいいんじゃないかな」和成はヒロの質問に答えた。
「バカっ、金魚でいいわけないだろ」智也は握り拳を作り和成の肩を小突いた。
「金魚なんてただの魚だよ。あんなもん」
「熱帯魚だってただの魚じゃん」良樹が反論した。
「バカっ、一緒にすんじゃねえよ」智也は良樹の肩を軽く小突いた。
「何が違うんだよ?」肩をさすりながら良樹が怒ったように訊いた。
「だから――」と具体的ではない智也の熱い熱帯魚論を聞きながら和成は笑っていた。たまに和成と良樹が口を挟むと、決められたように肩を小突いてきた。
和成の教室に入る前にあったたくさんの不安は、自身でも気づかぬ内に消えていた。意識せずに言葉を口にしていた。
「やっぱり金魚も熱帯魚だよ」話を一人黙って聞いていたヒロの言葉に「ヒロ、熱帯魚はグッピーからだって」と智也の返しと同時に授業開始のチャイムがなり、三人は自分の席に戻っていった。
生徒全員が席に着くと同時に先ほどの教師が教室に入ってきた。朝にやった儀式のような一礼をしたあと、教師は出席を取り始める。
「智也君って面白いね」和成は教師が出席を取っている間に隣に座る綾に小声で話しかけた。
「智也? 私はあまり好きじゃないけど」綾は素っ気なくいった。
「えっ、なんで?」智也はクラスの皆に好かれてると、和成は勝手に思っていた。
「四年生の時から一緒だけどすぐ怒るからあんまり好きじゃない」
「そうなんだ」和成は納得するようなそぶりを見せたが、内心は友達をバカにされた気分になっていた。言葉が乱暴ですぐ人を殴る癖が、端から見るとそう見えるかもしれないなと思った。
それから和成は、休み時間を智也達と共に行動するようになった。四人でトイレに行き、学校のグランドへも智也に誘われ四人で向かい、智也の友人達と大勢で遊んだ。
その日の授業が全て終わり、帰る前に教室の掃除をする時間になった。
掃除の時間はグループを組み、床の吐き掃除やゴミ捨てなどを一週間ごとに当番制でするというモノで、智也に誘われそのグループに入った。良樹とヒロも同じグループだ。
そのグループの担当になっていた掃除は、四人で教室のゴミを集め、外の廃棄場に持って行くというものだった。
智也にゴミの集め方を教えてもらいながらついて回り、最後に床の吐き掃除で集まったゴミを袋に入れて、廃棄場に行くために教室を出た。
校内の隅に設置されたコンクリートで囲まれた廃棄場には、たくさんのゴミ袋の他に和成の見慣れないモノがあった。煙突の付いた三メートル程の高さがある茶色い建物で、真ん中より少し下に鉄の扉が備え付けられている。
その煙突からは煙が出ており、所々ある黒ずみがその建物の存在感を際立たせていた。
「智也、あれ何?」和成はその茶色い建物を指して聞いた。
「焼却炉。落ち葉とか木の枝とか、六年生が外の掃除したあとにあそこで燃やすんだよ」
「六年生しか触っちゃダメなんだよ」良樹が眼鏡を上げながら口を開いた。
「四年生の時に智也がドア開けたの先生に見られたせいで一緒に怒られたんだ」
「お前も中見ようって言っただろ」智也が持っていたゴミ袋を良樹にぶつけた。
「汚いな、やめてよ」怒ったように睨む良樹に、智也は笑いながらもう一度ゴミ袋をぶつけた。
ヒロは教室のある三階から小走りで廃棄場まできたせいか、ハアハアと荒い息づかいをしている。
和成は笑いながら二人のやりとりを見たあと、智也と共に二つのゴミ袋を廃棄場に置いた。
ゴミ袋を置いたあと、智也は辺りをキョロキョロと見渡して「焼却炉の中見ようぜ」と和成に話しかけた。
「ダメだよ。怒られるんだろ」
「大丈夫だよ。今先生いないし。見つかってもすぐ逃げればいいんだよ」
智也は焼却炉の鉄の扉に水平に付いている、取っ手部分に掛けられた革製の大きな手袋を取り手に着けた。
「俺は見ないからな」
「僕も」良樹とヒロは智也と和成に背を向けて歩き始めた。
「何ビビってんだよ。和成は見たいよな?」
「うん、見たい」和成は笑顔で答えたが、先生に怒られる危険を冒してまで見たいわけじゃなかった。ただ智也の誘いを断ると、出来たばかりのこの関係が壊れてしまうんじゃないかと思い、話を合わせた。
智也が鉄の扉に付いている取っ手を両手で掴み下げると、ギギイッという音と共に扉が開いた。焼却炉の中から出てきた煙と熱気が和成を襲う。
煙と熱気に目と喉を痛め咳込んだが、その隣で智也は分かっていたかのように目を細めて口を右手で塞ぎ、咳込む和成を見て笑った。
ゴミを捨てに来ている内の何人かが、野次馬のように智也と和成の行動を見ている。
「和成、見ろよ」智也は壁に掛けられたトングを取り焼却炉の中に突っ込んだ。咳の治まった和成が目を掻きながら智也に近づくと、火のついた小枝をトングに挟んで取り出し、和成の前に出した。
「あっ危ないよ」和成は一歩後ずさった。
「大丈夫だよ、これぐらい」顔をヒキツらせた和成を見て智也は笑い、燃える小枝を中に戻し扉を閉め手袋を外した。
「あいつら本当に帰っちゃったよ」不機嫌そうな顔で智也は辺りを見渡した。
「ホントだ、いない」和成もまだ痛みの引かない目を擦りながら辺りを見渡した。
「まあいいや、じゃ俺たちも帰ろうぜ」
「うん」
少し急ぎ足の智也を和成が追うように二人は教室に向かった。
和成の心は自分でも理解できない不思議な気持ちであふれていた。学校で禁止されてることを進んですることも、そのことで誰かに注目されることも、和成には初めてだった。智也と一緒にいることで、少し強くなれた気さえしていた。
教室に入り先に帰っていった良樹とヒロに、和成はまるで自身がしたかのように智也の行動を興奮気味に自慢し、智也はその横で二人が先に帰ったことを責めた。
「じゃあ席に着いて」教師の声と共に全員が席に戻り、明日の連絡事項を教師が話したあと、生徒全員の「先生、さようなら」の挨拶と共に帰り支度を始めた。
和成が帰り支度をしていると、ランドセルを背負った三人が和成の席に近づいてきた。
「和成、家どこ?」智也が聞いた。
「家? どこって言えばいいかな? 父さんが書いてくれた地図があるんだけど」和成はランドセルの中から父の書いた地図を取り出した。
「見せて」和成が見る前に良樹がその地図を奪うように取り広げた。
「おお、やったね。途中まで一緒じゃん。一緒に帰ろうよ」
「本当? ありがとう。学校来るときお父さんと一緒だったから帰り道分かるか心配だったんだ」
「じゃあ早く帰ろうぜ」智也の声に急かされながら和成は帰り支度をした。
四人で校門を出て、智也を先頭に下校する。
「そういえばさぁ、和成はなんで転校してきたの?」担任教師の愚痴を三人で話してる時に、ずっと黙っていたヒロが唐突もなく質問した。
「別にいいんじゃん。どうでも。それよりさ――」良樹がその話を流そうとしたが「そうだ、なんで転校してきたのか教えろよ」智也がヒロの質問に乗ってきた。
「転校? 別になんもないよ。お父さんの仕事に付いてきただけ」和成は意識して母の話はしなかった。
「離婚したとか?」智也が意地悪そうな笑顔を作り和成に訊いた。
「離婚してんのは智也んトコだろ」良樹が智也に茶化すようにいった。
「うるせえよ」智也は良樹の肩を小突いた。
「智也んトコ離婚してんだ」和成は素直に驚いていた。自身の周りでそういう話は聞いたことがなかったからだ。
「ずっと前だけどな。父さんのことなんてあんまり覚えてないし」智也は他人事のように淡々と話した。
「じゃ今はお母さんと二人暮らし?」
「いや、じいちゃんばあちゃんと四つしたの妹もいるし母さん入れて五人暮らし」
「こいつん家のじいちゃん金持ちでさ、最近大きい家建てて皆で住んでんだよ」良樹が茶化すようにいった。
「別に金持ちじゃねえよ。今大変だって母さんいってるし小遣いも全然貰えないし」智也はふてくされたようにつぶやいた。
「僕ん家は離婚じゃないけどお母さんいないんだ」和成は智也の話を聞いている間、母のことを隠そうとした自分が卑怯者のように感じていた。
「ここに引っ越してくる前に交通事故で死んじゃって……だから今父さんと二人暮らし」
「俺たち大変だなぁ。がんばろうぜ」智也がいたずらっぽく肩を組んできた。
「うん」自分で勝手に話したことだったが、和成は涙を堪えるので必死だった。和成が意識的に考えたことは無かったが、母の死で出来た心の傷はまだ塞がっていなかった。
「サトウ寄ってこうよ」和成の急な告白で出来た会話の間を埋めるかのように、良樹が口を開いた。
「僕今日お金持ってないよ」ヒロが心配そうにいった。
「家近いんだから取ってこいよ。坂道公園で和成の歓迎パーティーしようぜ」智也が和成の肩を揺らして離れた。
「サトウって何?」少し落ち着いた和成は、気持ちを切り替えるように誰とも無く聞いた。
「佐藤商店っていう店が坂道公園の近くにあるんだ」良樹が和成に教えた。
「坂道公園って名前?」
「坂道の途中にあるから坂道公園。いつもヒロん家か坂道公園で遊んでるんだよ。俺と智也の帰り道だし和成も坂道公園ぐらいまで一緒だし、サトウでお菓子買ってそこでパーティーしようよ」
「いいね。じゃ早くサトウ行こうよ」
二人が話している間に智也は一人先を歩き、ヒロは二人の後ろにぴったりと張り付いていた。
先を歩く智也に追いつこうと二人は歩くスピードを上げ、ヒロはそれに必死に合わせる。
四人で好きなお菓子の話をしながら住宅街を歩いていると「あそこ、あそこサトウ」良樹が二十メートル程先の赤い看板を指した。
佐藤商店は年季の入った一戸建てに挟まれて、その一戸建て以上に年期を感じさせながらそこにあった。
佐藤商店の前には錆び付いた自動販売機と、なんのキャラクターか分からないガチャガチャと、一昔前のアーケードゲームが二台並んでいる。
和成は歩きながらランドセルを前に担ぎ直し、中から熊のキーホルダーが付いた、お煎餅ほどの大きさでチャック式の黄色い財布を取りだした。
「財布なんか持ってんの? しかも女みてえなの付けて」それを見た智也がすぐに茶化してきた。
「別にいいじゃんか」和成は顔をしかめた。
「なに怒ってんだよ」和成の反抗的な態度が気にくわなかったのか、智也は和成を無視するように佐藤商店の中に入っていった。
黄色い財布と熊のキーホルダーは、和成にとって急にいなくなってしまった母の形見だった。
和成の父は仕事柄、単身赴任で月に数回ほどしか家に帰って来ず、一ヶ月ほど前まで母と二人きりの生活を送っていた。明るく穏やかな性格の母が、和成は大好きだった。和成が何をしても声を荒らげることはなく、いつも笑っていた。
黄色い財布は、母が小銭入れに使っていたモノだった。和成が小遣いをお願いすると、鞄からその小銭入れを取りだし、中の小銭を和成に渡していた。
熊のキーホルダーは和成から母への、最初で最後の誕生日プレゼントだった。
去年の母の誕生日に、珍しく帰って来ていた父と一緒に出掛け、父に促されるようにプレゼントを選んだ。
母は熊のキャラクターが好きだった。着古したシャツやお皿やグラスには、たくさんの熊が描かれていた。
大きなデパートの雑貨屋のようなところで悩んだ末、五百円の熊のキーホルダーを選び、父の買ったケーキを食べる前に母に渡した。
母の喜ぶ顔に、和成も嬉しくなった。母はすぐに黄色い財布を取りだし、チャックの端にそのキーホルダーを付けた。五百円のキーホルダーにいつまでも喜ぶ母が、和成の記憶に強く残っている。
和成は来年の誕生日には何をプレゼントしようかまで考えていたが、母は信号無視の車に引かれ亡くなった。あまりの急な死に、和成は理解できずに泣くばかりだった。その悲しみが癒されぬうちに引っ越しが決まり、母の遺品を泣きながら片づける父に、キーホルダーの付いた財布を使いたいとお願いした。父は泣きながら和成を抱きしめた。
母の死を頭では理解出来ているつもりだったが、家に帰り玄関を開けた時、家で一人父の帰宅を待つ間、トイレから出た瞬間、寝て起きたあと、もしかしたら母がいるかもしれない、とまだ期待している。
和成は智也を追いかけるように佐藤商店に入った。怒らせてしまったと少し不安だったが、店に入ると「和成は何買うの?」と智也が話しかけてきたことで、すぐに不安は消えた。
薄暗い店内には、入り口のレジに座るテレビを見ながら身動き一つしない年輩の女と、四人しかいなかった。
和成は財布を開き中を確認してから口を開いた。
「僕千円持ってるし皆に百円ずつなんか奢るよ」佐藤商店でお菓子を買うと決まった時から、考えていたことだった。
「やったあ」お金を持ってないヒロが一番に喜んだ。家に帰りお金を取ってくるはずだったが、店の中で良樹や智也の後ろをウロウロしていた。
「なんで千円も持ってんだよ」智也が駄菓子を選びながら聞いてきた。
「父さんが帰るの遅いからご飯もこれで買わなきゃいけないんだよ」和成は財布から千円を取りだした。
「じゃ俺アイスも買おうっと」良樹がアイス売場に向かうのを見て「僕も」とすでに駄菓子を二個手に取っていたヒロが良樹の後を追った。
「お前の歓迎パーティーなのになんでお前が奢るんだよ」
「別にいいよ。いっぱい持ってるし」
「じゃ俺もお前になんか奢るよ。好きなお菓子なんだっけ?」
「いいって、自分で買うから。あんまりお金持ってないんでしょ?」
「大丈夫、何好きか教えろよ」智也はニヤニヤしながら和成を問いただした。
「まあ好きなのはこれだけど」和成はクッキーの中にチョコクリームが入っている駄菓子を指した。
「これおいしいよな」智也はそういうと入り口の方に一度目をやり、その駄菓子を三袋手に取りそのままズボンのポケットに入れた。
「なにしてんだよ」和成は小声で智也に話しかけた。心臓の鼓動が徐々に速まっていくのを感じた。
「静かにしろよ。大丈夫だって」智也は人差し指を立て口元に持って行き、和成に顔を向けた。
「お前もなんかとれよ。バレないから」智也はまた入り口に一度目をやって視線を和成に戻した。
「いいよ。買うから」
「なんだよ」そういって智也はまた別の駄菓子に手を伸ばし、入り口の女を確認しながらポケットに入れた。
和成は智也の行為に驚いていた。今にも入り口に座る女に声を掛けられるじゃないかと心配していた。そこを見るのも怖いぐらいだった。その想いとは逆に、智也が格好良くも見えていた。
和成は黙ってしまった智也の横で二百円分の駄菓子を選び、智也に「じゃ俺これ」と百円分の駄菓子を渡されたのをきっかけに、良樹とヒロに声を掛けた。
「もう買うよ」少し声が震えたのが自分でも分かった。何も買わず店から飛び出したかった。先ほどから速まり始めた鼓動が治まる気配はなかった。
「じゃ俺アイスとこれ。こっちの分は自分で買うよ」良樹は両手に駄菓子を持ち、アイスがある方の右手を和成の前に出した。
「お願いします」ヒロが和成に頭を下げたのをきっかけに四人でレジに向かった。
和成は約五百円分の駄菓子とアイスを女の前に置いた。女が「はい」とつぶやいてレジを打ち始めたのを見て、智也はそのまま店の外に出て行った。
和成の千円札を持つ手は震えていた。心臓の鼓動は倒れそうなほどに早くなっていた。和成が置いた約十品程の商品を女がレジに打ち込む時間が、果てしなく長く感じていた。
震える手でお金を払いお釣りを受け取って、和成もヒロと共に店を出た。智也はアーケードゲームに備え付けられたボロボロのイスに座り待っていた。
「めちゃくちゃドキドキしたよ」店を出たことで和成の心配は智也への賞賛に変わっていた。
「だから大丈夫だっていっただろ。はいこれ」智也はポケットから和成の希望した駄菓子を取りだした。
「また万引きしたの」ヒロが顔をしかめ、小声で話す。
「お前だって和成に奢って貰えなかったするつもりだっただろ」智也はヒロの太股を小突いた。
「今日はしなかったもん」ヒロが自慢げにいった。
佐藤商店の扉が開き良樹が出てきて「じゃ行こうか」の声と共に智也が立ち上がり、四人で歩き始めた。
「いつも万引きしてるの?」興奮気味に和成が訊く。
「お金無いときだけだよ。いつもやってたら怪しまれるだろ」
「サトウで捕まった奴なんて聞いたことないよ」良樹が悪びれる様子もなくいった。
「万引きしたことないの?」ヒロが和成に聞いた。
智也に万引きが成功した喜びや、良樹やヒロに和成が感じている智也への賞賛はないようだった。
「いや、まぁ……うん」和成は驚いている自分が恥ずかしくなった。万引きという行為への捉え方に、自分と他の三人との間に大きな開きを感じた。
「じゃ明日は和成の万引き初体験だ」智也が手を挙げて和成に笑顔を向けた。
「いいよ、僕やらないよ」
「ダメ、決定」
「勝手に決めないでよ」
「なんだよお前。万引きぐらいできるだろ」智也が和成を睨んだ。
「だって……」
「まぁいいじゃん。ほらあそこ」良樹が話に割って入り四人の進行方向にある坂道を指した。
「あそこの坂道の途中に入り口みたいなのあるでしょ。あそこ坂道公園」
「よしっ、早く歓迎パーティーしようぜ」智也が走り出した。
「走るの?」とヒロがいう前に良樹と和成は走り出し、ヒロは面倒くさそうに足を速める。
坂道公園にはすでに何名かの児童が遊んでいた。四人は二つ並んだベンチのある屋根の付いた小屋に入り、買ってきた駄菓子を広げた。
「じゃ和成、これやるよ」智也が自分用に万引きした駄菓子を一つ和成に手渡した。
「今日は和成の歓迎パーティーだからな」
「ありがとう」和成は喜んでそれを受け取った。
「じゃ俺はこれ」良樹が自分で買った駄菓子を和成に手渡し、和成はお礼をいって受け取った。
「ヒロ、お前はなんかないのかよ?」何も渡そうとしないヒロに智也が話しかけた。
「僕お金無いっていっただろ。これ全部和成に買って貰ったやつだもん」
「だからお金取ってこいっていっただろ」
「智也も万引きしたやつだけだろ」ヒロが細い目をさらに細めて智也に反論した。
「じゃあお前も万引きすればよかっただろ」智也が眉間にシワを寄せ怒鳴った。
「……なんだよ」ヒロはふてくされたようにつぶやいた。
「いいよ別に、大丈夫だって。僕たくさん持ってるから」和成はヒキツった笑顔で智也をなだめた。
「早く食べようよ。アイス溶けるんだけど」良樹が何でもないかのようにいった。
「もういいよ」智也がそう口にしたことで気まずい空気の中、和成の歓迎パーティーは始まった。
駄菓子を食べ始めてすぐに機嫌が元に戻った智也と和成が熱帯魚の話で盛り上がり、良樹がそれに疑問を投げかけ、ヒロはなんにも考えてないような顔で話を聞いている。
駄菓子を食べ終わりヒロの家に四人で行き、はやりのテレビゲームをして六時頃に解散となり、一番家の近い良樹に家まで送ってもらい、和成は引っ越して間もないマンションへと帰宅した。
「ただいま」ドアを開け、誰もいない部屋の中へ声を掛けた。
前の家でも習慣になっていた熱帯魚への餌やりを終え、まだ片づいていない自室にランドセルを置き、段ボールで埋まっている居間でテレビを付けた。
飲み物を出そうと自身の身長より少し低い冷蔵庫を開けると同時に、晩ご飯を買い忘れた事を思い出した。自室に戻りランドセルから財布を取りだし家を出る。
マンションの入り口から見えるスーパーで総菜を買い、家に戻った。
テレビを見ながら宿題を終わらせ、晩ご飯を食べ終わり見る番組がなくなったのをきっかけにお風呂に入った。
お風呂から上がりまたテレビをつけ見ていると、玄関のドアが開く音と共に「ただいま」と父親の久志が帰ってきた。
「お帰り」和成が玄関まで迎えに行くと「ただいま」ともう一度いって、久志は靴を脱ぎながら和成に買い物袋を手渡した。
「お菓子買ってきたから一緒に食べようか。ご飯はもう食べた?」
「うん、もう少しで十時だもん。母さんが八時までには食べなさいっていつもいってたから」
「そうか」久志は靴を脱ぎ居間へ向かった。
久志は居間に入り積まれた段ボールを見て「今週の休みには片づけないとな」そういってスーツを脱ぎハンガーに掛け洋服タンスに入れ、着替えを始めた。
「僕も手伝うよ」和成は買い物袋から弁当とビスケットとサンドイッチを取りだし、弁当とビスケットをテーブルの上に置き、久志に聞いて明日の朝ご飯になるサンドイッチを冷蔵庫に入れた。
「カズ君の部屋はもう片づいたのか?」着替え終わった久志は畳の上に腰を下ろし、机の上に置かれた弁当を開けながら話した。
「なんにもしてない」和成も座りビスケットの袋を開けテレビに目を向けながら話した。
「早く片づけないとな」
「うん」
弁当を食べ始めた久志の横で和成が待ちきれないかのように口を開いた。
「聞いて父さん。今日ね、クラスに熱帯魚飼ってる人がいてすぐ仲良くなったんだ」
「そうか。よかった」
「智也君っていうんだけどクラスで一番背が大きいんだって」
「百六十センチぐらい?」
「……分かんない。今度聞いてみるよ」和成は少し考えて答えた。
「それでね、学校に焼却炉があるんだけど……父さん焼却炉分かる?」
「分かるよ。ゴミ燃やす所だろ」
「そう、学校に焼却炉があるんだけど六年生しか使ったらダメなのに開けたりするんだよ」
「怒られたりしないのか?」
「見つかったら怒られるって。四年生の時に見つかって怒られたことあるみたい」
「やんちゃな子だな」
「うん、今日も先生にしょっちゅう怒られてた」久志の言葉に万引きのことを思い出したが口にするわけにはいかなかった。
「あと良樹とヒロって子とも仲良くなった」
「三人も友達できたのか。よかった。心配してたんだ」久志は疲れた顔に笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ」和成も笑顔で返した。
「皆家も近くて今日は良樹に送ってもらったんだ。もう道完璧」和成は得意げな顔をした。
「すごいな。父さんはまだ迷いそうだ」
「帰りに皆でお菓子買って公園で僕の歓迎パーティーしたんだよ。まあお金出したのは僕なんだけどね」
「楽しそうだな。じゃ明日も小遣い渡さないとな」
「うん、今日千円全部使っちゃった」和成はおどけた顔を久志に向けた。
「いいよ、せっかく友達ができたんだ」
久志は和成の頭を軽く撫でた。和成が恥ずかしそうに笑った。
和成は父のことも母同様に好きだった。いままでは月に数回ほどしか会えなかったが、帰ってくると必ず和成を連れて出掛けていた。母には内緒で禁止されている食べ物を買ってくれたこともあった。
和成が父のことを好きなままでいられたのには、母の言葉の影響もあった。母は一度も父を悪く言わなかった。
久志と一緒に住むようになって一ヶ月ほどたったが、和成の父への思いは変わらなかった。母に聞いていた、そして自身でも思い描いていた通りの父親だった。
久志に学校であったことを思いつく限り話したが、会話があまり盛り上がらず、母と二人暮らしだった時を思い出しそうになり和成は時計に目を向けた。
「もう十一時だね。眠ろうかな」先ほどから眠気を感じていた。
「もうそんな時間か。もう学校も始まったし父さんが遅いときは寝ててもいいからな」
「うん、じゃあ僕もう眠るね」
「お休み」
「お休みなさい」和成は机の横に置かれた宿題を持ち、自室へと入り眠りについた。
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