第4話 八ヶ月前

「今度いつ来れるか分からないけど、今までありがとう」 

 両親の眠るお墓に手を合わせたあと、和成は立ち上がり駅に向かった。久志が亡くなってから一ヶ月程立っている。

 和成は会社に長期の休みを届け出、久志の葬儀をすべて一人で済ました。その流れで退社している。

 久志の両親はすでに他界しており、親戚や友人には、和成があまり交流関係を知らないという理由もあるが連絡するつもりはなかった。久志と暮らした約二年間の生活で、友人が訪ねて来たことは一度もない。

 母方は、母親が亡くなってからあまり連絡を取っていないと久志から聞いていた。和成の記憶にもあまり残っていなかった。

 電車を乗り継ぎ、自身が小学生時代に一年間だけ過ごした土地に到着した。

 父の仕事の影響で、母が亡くなった小学四年生の終わりから中学まで、何度も引っ越しをするような生活を送っていた。高校時代は全寮制の学校へ行き、大学から一人暮らしを始めた。月に一度の仕送りと共にたまに送られてくる久志の手紙が、今となっては和成の宝物だった。

 駅のトイレでネクタイを締め直し改札を出た。駅前に子供の頃に過ごした面影など残っていなかったが、それでも和成にはたくさんの思い出が蘇える。

 和成は父親の納骨を終えるまで、会社への連絡や役所への様々な申請などで忙しかった。しかし全てが一段落つくと、自分に何も残っていないことに気づいた。久志のために費やした二年間だった。会社を辞め、何をすればいいか分からず家の中で自分を責めていた。

 何度も謝る父の姿が、和成を苦しめた。自分の弱さに気づかされた。不意に父の優しさが波のように押し寄せ涙が止まらなかった。死ぬ間際の、父の言葉に掘り起こされた思い出が、決して良いとはいえない思い出が、和成をさらに追いつめていた。

「好きなことすればいい」

 和成は父の口癖だったその言葉を、頭の中で何度も繰り返していた。目に涙を溜め、苦しそうな顔で逝ってしまった父に、最後まで心配を掛け続けた父に、天国では笑って欲しかった。

 久志が何度も謝った過去を、和成は何度も思い出していた。父に相談した事は一度もなく、気づかれていないと思っていた。自身も大人になり、記憶の底に押し込めていた過去を振り返ったとき、気づかないはずないな、と理解した。そのことがツラく、悔しく、悲しかった。

 和成は何度も過去に戻り、何度も苦しみ、トラウマのような日々を思い出すうちに、全てはあの日からだと思うようになっていた。

 母が亡くなってすぐに、父の久志に付いていく形で引っ越しをした。仲良くなった友と別れ、その新しい土地で、母の死で塞ぎがちだった和成をさらに苦しめる日々が始まった。そしてその苦しみは、人が変わるだけで高校まで続いた。

 和成は何度も過去に戻るうちに、その土地で過ごした一年で、今までの人生を全て決められたよう気がした。

「好きなことをすればいい」

 父の言葉が、和成の中で呪文のように繰り返された。

 和成は父の言葉に従おうと思った。今一番したいことをしようと決意した。それがどんな物になるか、その時は和成の中でも決まって無かったが、決意した日から過去に苦しむ事は無くなった。

 和成はまず、二十五年振りにその土地に行くことにした。確かめたい事があった。

 その土地に向かう前日、和成は家の中を隅々まで綺麗にした。部屋を眺め「自殺するみたいだな」とつぶやき、「まあそんなもんか」と一人笑った。

 駅前からタクシーに乗り、二十五年前に過ごした小学校へと向かう。

 駅から小学校へと向かう町並みは、和成の記憶とはすっかり変わっていた。久志と二人でよく行っていた中華料理屋が無くなっていた。和成の中に「美味いか?」と聞く久志が不意に蘇り、込み上がるモノを押さえ込んだ。

 目的の場所に着きタクシーを降りた。住宅街の中にあるその小学校は建て替えられており、駅前や町並み同様に和成の記憶とは大きく変わっていた。

 和成は自身が在籍していた時期、すでに老朽化が問題視されていたのを思い出した。

 記憶より小さくなった校庭の中には、休日のせいか昼食の時間帯だからか誰もいなかった。

 和成はネクタイを締め直して門をくぐり、少し迷いながら校内を歩き職員室を見つけドアを開けた。中にいた教員らしき五人ほどが、ドアの音をきっかけに和成に目を向けた。ドアのすぐそばの机に座っていた、二十代後半ほどのジャージのズボンにポロシャツを着た女に「すみません」と声を掛けた。

「はい、どちら様でしょうか?」立ち上がり愛想良く返事をした女の目には、少し警戒心が混じっている。ほかの者達は、あまりじろじろ見るのも悪いと思ったのか、すでに机に目を向けている。

「突然すみません。あの、僕は岡本和成といいまして、二十五年前にこの小学校に在籍していたものです。昨日から仕事の用事で久しぶりにこちらに来ていまして、今日観光がてらこの辺を散歩してるんですが、もしよければ校内を見学してもよろしいでしょうか?」

 和成は笑顔を作り丁寧に話した。できるだけ怪しまれないようとに考えた理由だった。偽名を使おうと思ったが調べられればすぐ見抜けられると思い本名を名乗った。

「見学ですか?」女の顔に混じっていた警戒心が一層強まった。

「見学じゃなくてもあの、二十五年前に焼却炉があったと思うんですが、それだけでも見せていただけると嬉しいんですが」

「はい……あの少々お待ち下さい」女はそういって職員室の奥に座る、ワイシャツを着た初老の男の駆け寄っていった。

 初老の男は女と話をして、和成の方に一度目を向けて女に声を掛けたあと、女の軽めの一礼と共に立ち上がり和成の元に近寄ってきた。

「どうされました?」

 男の質問に、和成は同じ話をした。

「こりゃわざわざどうも」

「いえ、こちらこそ突然すみません」

「あの、わざわざ来ていただいて申し訳ないんですが、防犯上の理由で部外者の方には見学していただく事ができないんですよ。どうしても見学されたいのであればですね、役所に届け出を出して頂いて、許可を貰ってもう一度来て頂かなくてはなりません。せっかくお寄り頂いたのに申し訳ございません」男は頭を下げた。

「いえ、あの……見学じゃなくても焼却炉だけでも見せて頂けないでしょうか?」

「焼却炉ですか?」男は少し考え込んだ。

「確か二十五年前にはあったと思うんですが、今はないんでしょうか?」

「はあ……二十五年前ですか」

「はい」

「残念ですが今は無いですね。お気づきだと思いますが、確か十五年前ぐらいに校舎の全面的建て直しをしてましてですね、たぶんその時に撤去されたと思うんですよ」

 和成は先ほど建て直された校舎を見たときに、もしかしたらと予想していた。

「そうですか……今はありませんか」

「申し訳ない」男は頭を下げた。

「あの、しつこいようですみませんが、焼却炉があった場所だけでも見せて頂けませんか?」和成の最後の願いだった。これで断られたら諦めようと思っていた。夜中に忍び込む事も考えたが、すっかり変わってしまった校舎と和成の二十五年前の記憶では、焼却炉が校内のどこにあったのかさえ分からなかった。

「場所だけですか?」男が不思議そうに聞いた。

「はい、思い出深い場所で、今日本当はそこを見に来たんです。お願いします」和成は深く頭を下げた。

 男は少し喉を鳴らして考えたあと「分かりました。ちょっと待ってて下さい」と自身が座っていた場所の後ろに並ぶ、たくさんの棚からファイルを取り出してはしまい、何かを調べだした。

「お待たせしてすみません。ありましたありました」

 五分ほど和成を待たせ何かを調べていた男が、二つのファイルを持って和成に近づいてきた。

「いやあ今ね、建て替え前の校舎の見取り図っていうんですかね、それ探してたんですけどありましたよ」

「ありがとうございます」

「私は十年以上ここで教頭をやってるんですがね、旧校舎のことなんか調べるのは初めてでちょっと時間が掛かってしまって申し訳ない」男は目当ての資料が見つかったのが嬉しかったのか、少し興奮しているようだった。

「すみませんでした」

「いやいや、せっかく卒業生がきてくれたんですから、我々教員も本当はできるだけ要望に応えたいだけですよ。じゃ一応これを見てもらえますか?」

 和成は卒業生ではないことを伝えようとしたが、必要ないかと止めた。

 男は二つのファイルを目の前の机に広げた。どちらも校内全体を描いた見取り図のようだった。

「こっちが昔のでこっちが今の何ですが、昔のやつの右上の方に廃棄場って書いてあるでしょう。焼却炉があるとすれば多分ここだと思うんですよ」男は指を差しながら説明した。

 和成は相づちを打ちながら昔の見取り図を見て、自身の記憶と照らし合わせた。少ない記憶からかつての運動場や正門を思い出しながら「僕も多分ここだと思います」と男にいった。

「で、ですね、今の見取り図だとここだと思うんですよ」 男は新しい方の見取り図に指を置いた。新しい見取り図の方は、和成には自分がどこにいるのかさえ分からなかった。

「ここだと今は花壇になってると思いますが行きますか?」

「いいんですか。ありがとうございます」和成は頭を下げた。

「見学はやっぱり駄目なんですけどね、僕が付きそうってことで一カ所ぐらいなら教頭権限ってことで」男が笑った。

「ありがとうございます」何度目になるか分からないお礼をいった。

「いえいえ、じゃ付いてきてください」職員室を出て歩き始めた男に、和成は付いていった。

「校舎の中からいった方が早いんですけどね、所々鍵が閉まってる所もあるんで、少し遠回りになりますが校舎を回っていきますね」

「見せて貰えるだけでありがたいです」

「そうですか」男は少し笑った。

 和成はその場所が近づくにつれ気分が悪くなり、心臓の鼓動が早くなっていた。どこまで歩くのか分からないが、校舎の角を曲がる度に身体が硬直して倒れてしまいそうだった。さっきまであんなに行きたがっていた自分が嘘のように、今すぐ帰りたい気分だった。

「ここ曲がったらその場所です」

「はっはい」

 男のあとを付いて角を曲がると、広々としたスペースに、一畳ほどの花壇が六つ並んでいた。花壇のすぐそばには二メートル程の金網状のフェンスがあり、その向こう側はマンションの駐車場で車が四台止まっている。

 男は花壇のそばを少し歩き「ここです」と両手で大きな円を描いた。

 和成はそこを見つめた。息苦しかった。綺麗な花を咲かせている花壇の向こう側に、茶色い焼却炉が浮かび上がっていた。息を止め、睨むように見つめた。鼓動がどんどん早くなる。

「どうしました? 具合でも悪くなりましたか?」

 和成の形相に男が慌てて声を掛けたが、男の声など和成には聞こえていなかった。あるはずのない焼却炉はみるみる鮮明になっていく。所々黒々とした焼け跡が、その焼却炉の威圧感を強める。

 熊のキーホルダーを、焼却炉の中に放り込まれた。

 和成は泣いていた。今すぐその焼却炉から目をそらしたかった。

 炎に包まれ燃える熊のキーホルダーを助けようと、焼却炉の中に手を伸ばした。耐えきれぬほどの熱気に手を引っ込めた。それでも幾度も手を伸ばした。

 和成の目の前には、過去の記憶が映画のように映し出されていた。

 泣き叫ぶ幼い自分。燃えさかる炎の中、熊のキーホルダーがだんだんと焼け焦げ溶けていき、形を成さなくなったところで目を閉じた。

 ゆっくり目を開けると、そこに焼却炉は無かった。

 和成は花壇に座り込み、嗚咽しながら泣き出した。自身が思っていたより、あのころの小さな自分は傷ついていたんだと気づかされた。

「どうしたんですか?」男は落ち着いた声で和成に聞いた。

「す……すみません」泣きながら答えた。

「いいたくなければいいんですが、ここの焼却炉でなにかあったんですか? 話せば楽になることだってある。もしよければ聞かせて貰えませんか」

 和成は誰にもいうつもりはなかった。ただこの土地に来たことで、過去と現実が頭の中混ぜ合わさり混乱していた。ツラい過去と向き合うことで弱っていた。誰かに吐き出したかった。

「母が……母が殺されたんです」和成は声を上げて泣いた。 




「何から何まで本当にすみませんでした」

「いいですよそんなこといわなくて。じゃお気をつけて」

 初老の男に見送られながら、和成は小学校をあとにした。

 帰り際に一番近くの公園の場所を聞き、和成はそこに向かっていた。公園まで行けばここにきたもう一つの目的の場所までいけると思っていた。二十五年前なので、もしかしたら無いかもしれないと思っていたが、男の話では、公園などは国の持ち物なのでそう簡単には無くならないと聞いて安心していた。

 教えて貰った道のりを十分ほど歩くと、坂道の中腹にその公園はあった。その坂道と和成の記憶とが一致した。

 和成は公園の中に入りベンチに座った。園内には子連れの母親や友達同士で遊んでいる子供達が何組かいる。見覚えのない遊具が並んでいたが、確かにこの場所だと和成は確信していた。

 途中に買ったお茶を飲みながら子供達を眺めていた和成に、不意に自身も今まで忘れていた過去の思い出が蘇ってきた。

 雨の降る夕方だった。土砂降りの雨の中、今のように舗装されてない赤土の上を、泥だらけで泣き出しそうに笑う小さな自分の姿に目頭を押さえた。

 大きく深呼吸をして和成は公園を出た。何度も過去に戻る内に、ここから目的の場所までの道のりを、なんとなくではあるが思い出していた。二十五年前に新築だと自慢されていた一軒家はまだあるはずだと、根拠のない自信があった。

 道を少し戻り、記憶を頼りに少し迷いながら住宅街の中を歩いた。目印にしようと思っていたレンガ塀の家や、よく学校帰りに行った商店、あのころ幽霊屋敷と呼ばれていたモノは無くなってたが、近づいている予感があった。

 迷いながらたくさんの人とすれ違った。やはりスーツを着ていて正解だったなと思った。ここでなにかするつもりはなかったが、あまり人の記憶に残るのは避けたかった。

 一方通行の長い道を進み、河川敷の壁に沿うように作られた二車線の道路の手前まで来ていた。和成の記憶では、ここを右に曲がれば目的の一軒家がある。

 和成は落ち着いていたが、曲がり角の手前で大きく深呼吸をしてから右に曲がった。

 その一軒家は、表札に書かれている小西という名と共に和成の記憶と変わらずそこにあった。古くなった感じはあったが、この土地にきて初めて自身の記憶と同じモノを見て感動すら覚えていた。

 和成のここへきた理由は住所と電話番号だった。ここに住んでいた者の、今の居場所をどうしても知りたかった。

 和成は一度、その一軒家の前を通り過ぎ、どうしようか考えていた。夜中まで待ち、この家の住所が書かれた郵便物を盗もうと思っていたが、郵便物が無い可能性もあり、なにより誰かに見つからないという保証もなかった。

 和成は歩いた道を引き返し、表札に小西と書かれた家の隣に建つ、古い一軒家のインターホンを押した。少し鼓動が早くなった。

「はあい」返事をしながら年輩の女がドアを開けた。

「すみません、私小林といいまして――」

「大丈夫です。いりません」年輩の女は急に不機嫌そうな顔になり、和成の言葉を遮りドアを閉めようとした。

「いえセールスじゃないんです」和成は笑顔を作る。

「あら、ごめんなさい。なんでしょうか?」年輩の女は不機嫌そうだった顔を笑顔に変えて、声のトーンを一つ上げた。

「あの、中学の同窓会のことで隣の小西さん宅をお伺いしたんですけど今いらっしゃらないみたいで、申し訳ないんですが小西さん宅の電話番号をお教え頂けないでしょうか? あとで連絡をとりたいので」

「同窓会? そこの中学校の?」

「はい」

「はいはい、多分書いてあったと思うんだけど……」女はそういいながら、玄関の靴箱の上に設置された電話機の横に置いてある電話帳らしきものを手に取りめくり始めた。

「あったあった。はい」女は和成の前に電話帳を広げ、指を置いた。そこには小西博美と書かれた横に数字が並んでいる。

「ありがとうございます」和成はメモを取ろうと思ったが、体を触り自分がペンやメモ帳を持っていないことに気づいた。

「すみません。紙となにか書くもの貸して貰えませんか?」怪しまれないかと心配したが、年輩の女は「はいはい、いいですよ」と電話機の横に並んで置いたあった、ペンと一体化したメモ帳を和成に差し出した。

「すみません」和成はそれを受け取り番号を書いたあと、メモを千切りポケットに入れ、メモ帳を返した。

「急にお邪魔してすみませんでした。助かりました。ありがとうございました」和成は軽く頭を下げた。

「はあい」

 年輩の女がドアを閉めた。和成はもう一度頭を下げてその場をあとにした。

 二車線の道路を公園とは逆に向かった。この道がどこに向かっているのか和成には分からなかったが、交通量が多いこの道路で目当てのタクシーはすぐにきた。それに乗り駅まで戻った。

 駅前の全国チェーンの牛丼屋で遅めの昼食を済まし、電車に乗り自宅に帰った。

 早朝に家を出た和成が自宅に着いた頃には、辺りはすでに夕焼けになっていた。それでも予定より大分早く帰れたと思っていた。なにかあれば何日間か向こうに泊まる覚悟もしていた。

 自宅に着いて着替える間もなくポケットから番号の書いたメモを取り出し、家に設置された電話機から、その番号に掛けた。

 何度かコール音が鳴ったあと、女が出た。

「はい、小西です」

「小西さんのお宅でしょうか?」

「はい」

「私は小林というんですが、小西智也さんはいらっしゃいますか?」

「智也? 智也は今東京に住んでいてここにはいませんよ」智也がその家にいないのは予想通りだった。

「そうですか。すみませんが中学の同窓会の件で智也さんにご連絡とお手紙をお送りしたいんですが、智也さんの住所と電話番号を教えて頂けないでしょうか?」

「同窓会なさるんですか?」

「はい」

「そう、いいですね。ちょっと待っててください」保留音が鳴り始めたがすぐに女は電話に出た。

「お待たせしてごめんなさいね。じゃまず住所から――」と女は智也の住む住所と電話番号を和成に伝えた。

「お手数かけました。ありがとうございます」

「いえいえ、じゃ智也をお願いします」と女は電話を切った。

 和成の心臓の鼓動は、自分でもよく分からない感情でもの凄く早くなっていた。やっと目的のモノを手に入れた喜びもあったが不安も大きかった。これからどうなるのか怖い気持ちもあった。しかし止まるつもりはなかった。一番したいことをやる。父親に誓った約束だった。

 とりあえずそこに向かってみようと思った。自分の人生を、父の優しさを傷つけた小西智也の今を見たかった。

 一週間後、和成は小西智也の住む土地に来ていた。駅前から少し離れたビジネスホテルに一週間分の料金を払い、そこの部屋で旅行バックを開いた。シャツを着替え帽子を被り直し、財布と携帯と煙草をポケットに入れ、住所の書いてある手帳を持ちホテルを出た。

 全く知らない土地だったが、ここに来るまでに調べていたので、目的の場所のだいたいの位置は分かっていた。あとは手帳に書いてある名のマンションを探すだけだった。

 少し迷ったが、手帳に書き込んだ地図と、町中の至る所に書いてある住所を照らし合わせながら進むことで、目的のマンションはすぐに見つかった。

 和成は一度そのマンションを見上げ、周りを見渡して少し肩を落とした。

 小西智也の今を見に来たが、怪しまれるわけにはいかなかった。小西智也の住むマンションの周りには、長時間マンションの出入り口を見張れるような飲食店も、隠れるような場所もなかった。何度も足を運ぶ以外に、小西智也に出会う確率を上げる方法が和成には思い付かなかった。せめてもの救いはあまり人通りが多くなさそうなことだった。

 五分ほど歩き大通りに出て、本屋に入ったりパチンコをしたりと時間を潰しながら何度かマンションの前を通ったが、小西智也には会えなかった。

 和成はホテルに戻り、コンビニで買った弁当を食べ眠りについた。

 次の日も、朝から昨日と同じように時間を潰してはマンションの前を通るという行動を繰り返していた。

 和成が早めの昼食を済ませたあと、今日三度目のマンション偵察に向かった。何度か行く内に大通りからマンションまでの行き方をいろいろ探っていた。今回は細い路地を通り、一番早くマンションへ行ける道を選択していた。

 二本目の細い路地を通り、一車線の道路に出て、右に曲がりここを真っ直ぐ行けばマンションというところまできて足が止まった。前方から小学生ぐらいの女の子を連れた三人組の家族が歩いてきた。

 和成は父親のほうを見た。背の高い短髪の男は、顔にシワを作り幸せそうに笑っていた。すぐに分かった。小西智也だと。二十五年振りだった。気づかないかもしれないと思っていた。

 和成はすぐに歩き出した。立ち止まったままだと怪しまれると思ったからだった。足は震え、鼓動は速まり目眩がしていた。座り込みたかった。今すぐ殴りかかりたかった。

 三人組の家族とすれ違った。小西智也は自身に気づかなかった。父親の方が「真希はお子さまランチか?」と女の子に聞いた。女の子は「真希はお子さまじゃないもん」と答えた。それを聞いて二人の夫婦は笑った。

「ふざけるな」和成はつぶやいた。同じ目に合わせてやりたかった。壊してやろうと思った。小西智也の全てを。家族を。人生を。

 少し歩いて和成は振り返った。三人組の家族は路地に入ったのか居なくなっていた。

 和成はガードレールに腰掛け、帽子を深く被り子供のように鼻を啜った。自分の人生を振り返っていた。

 あの時から、一緒に笑う友達なんてできなかった。人に合わせて、顔色を窺いながら生きていた。家族を持つ事なんて考えたこともなかった。考える程の出会いもなかった。母は二度殺された。全てだった父は死んだ。苦しそうに顔を歪め、謝りながら死んだ。あいつのせいだ。あいつのせいだ。あいつのせいだ。

「父さん」和成は涙を止めることができず、路地に入って泣いた。

 泣きやんだあと、ホテルに戻り酒を飲み続けた。一度何もかも忘れたかった。忘れることなんてできなかったが、なんとか眠りについた。

 次の日からは今までの二日間より、積極的にマンションの偵察に行くようになっていた。できるだけ怪しまれないように道筋を変えたり、スーツを着たり、帽子を被ったり被らなかったりと、いろいろと手を尽くしながら偵察していた。思ったより怪しまれないなと和成は思っていた。



『七ヶ月前』



 ビジネスホテルの契約を一ヶ月に延ばし手に入れた情報は、小西智也の職場と、娘の通学する小学校、そして小西智也の妻である女が、よく買い物に行くスーパーとその行き帰りの道筋だった。

 その一ヶ月で何度か小西智也本人やその家族とすれ違ったが、誰かが和成のことを気にとめた様子はなかった。

 ビジネスホテルの宿泊期限が切れる前日、和成はいくつかの目星を付けたマンションを管理している賃貸会社を回り、その一つと契約を結んだ。

 和成が契約したそのマンションは、部屋の内装の割に家賃が高く、部屋数が少ない上に住んでる人数も少なかった。和成がやりたいことに適していた。

 一番の決め手は、小西智也の妻がスーパーからの買い物帰りにいつも通る路地に面したマンションということだった。そのマンションは道路側にメインの玄関があり、路地側にも裏口があった。

 契約を済ませたあとすぐに自宅に帰り、一週間ほどで引っ越しの手続きを済ませ、必要最低限の物を段ボール二つに詰め込み引っ越し先へ送った。

 小西智也と出会いその周辺を探る内に、和成の頭の中にはある計画が出来つつあった。それを実行に移せるかは自身にも分からなかったが、そのための引っ越しだった。

 和成はもう戻ることのない何も無くなった部屋を眺め「じゃあ行ってきます、父さん」そうつぶやいてから玄関を出た。 

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