第3話 九ヶ月前

「ビーッビーッ」ランプの赤い点滅と共に警報音が鳴り響いて機械が止まった。

「何回止めてんだよ岡本。いい加減早く覚えろよ」

 六つ年下の早瀬という上司に、岡本和成は怒鳴られた。同じレールで仕事をしている二十人程の内、何人かが和成を睨んだ。

「すみません、班長」坊主に近い頭を掻いてから、小さな声で返事をした。

 怒鳴ったあと、早瀬は大きな舌打ちをしてからレールに載っている和成が金具を付け間違えた金属板をどかして、再取り付けと書かれた箱に入れた。早瀬がその作業を終えると金属板の乗ったレールが大きな音を立てて動き始めた。

 和成は自動車の部品取り付け工場に中途採用の社員として働いていた。

 今の仕事は、金属板が乗って流れてくるレールの横に二十人程並んで、各自三つから五つの大小様々な金具を流れ作業で取り付けるというもので、年に二回ほど親会社の新商品発表のタイミングで新しい部品が届く。やることは一緒だが、新規の金属板に新規の金具を取り付ける作業を覚えなくてはいけない。一週間前からその新規の仕事が始まっていた。

 ほかの従業員は遅い者でも三日ほどで淡々と作業をこなすようになっていたが、和成はまだ気を抜くと、以前の金属板は取り付ける金具が四つだった影響で、今の五つの取り付けの内、一つを忘れてしまう。今日も二回金具を付け忘れて機械を止めていた。

 あと少しで終わりだったのにな、と和成は壁に掛けられている時計を見た。時刻は十七時半を指している。十七時から一時間残業があることを、十五時の小休憩の時に伝えられている。

 最後の金属板が流れ終わり機械が止まったのをきっかけに、作業をしていた二十人程が一斉に立ち上がり、身の回りの片づけと、五人程が当番制になっている作業エリアの床掃除を始めた。

 終業時間の十八時になり、エリア部長の「お疲れさま」の声と共に、働いていた者達は各々「お疲れさまでした」と挨拶して、ロッカー室に向かい帰り支度を始めたり、仲間と雑談したり、煙草を吸いに喫煙所に向かった。

 和成は誰とも目を合わすことなく「お疲れさまでした」とつぶやいてからすぐにロッカー室に向かい、ロッカーを開けて使い古された黒いリュックサックを取り出して、使っていた手袋や作業用具を入れて担ぎ、工場二階の喫煙所に向かった。この二階の喫煙所は、一階の自動販売機が集まる喫煙所とは違い、あまり人が来ないという理由でお気に入りの場所だった。

 喫煙所には和成の予想通り誰もいなかった。勤務時間内の昼頃でさえ、たまに人がいる程度のこの喫煙所に、一階での仕事が終わったあとわざわざやって来る者などいなかった。

 ポケットから煙草を取り出し、火を付けてから深く吸い込み、一日の疲れを出すかのようにゆっくりと煙を吐き出した。 

 一本目を吸い終わり時計を確認して、次の煙草に火を付けた。

 工場は駅から少し離れており、その日の終業時間に合わせて駅までの送迎バスが十五分置き二本出る。和成はいつも二本目のバスに乗るようにしていた。一本目めのバスは人が多いからというのが理由だった。

 和成は人とコミュニケーションを取るのが昔から苦手だった。なんと話しかければいいか分からず、話しかけられても気を使いすぎてしまい上手い返しもできず、結局いつも一人になっていた。他人にあまり好かれないという自覚がある和成は、それでもいいかと、大学時代に人付き合いを諦めている。

 ゆっくりと二本目を吸い終わり、バスの停留所へ向かった。

 バスは和成が停留所の列に並んで十分程で到着した。それに乗り込み駅で降りた。そのあと市営バスに乗り、自宅のアパートへと向かった。

 バスを降り、停留所の前にあるコンビニで二人分の弁当とワンカップの焼酎を二本買い、アパートへと帰った。

 和成は四階建てのアパートの一階に父親と二人で住んでいる。玄関のドアには普通の鍵と、部屋の内側からは開けられないようになっている外鍵と二つある。

 半年ほど前に和成が出かけていて、夜中の一時頃アパートに帰ると、ドアの鍵が開いていて同居する父親が居なかった事があった。汗だくになりながら探し回ってもなかなか見つからず、警察に連絡しようとしたときにコンビニに居るのを見つけ連れて帰った。外に出た理由を聞くと、最初は答えを濁していたが「コンビニに買い物に行ったけど、アパートへの帰り方をど忘れした」と笑いながら答えた。そのあと和成が大家の許可を取り、業者に頼んで外鍵を付けた。その時ついでに居間にある大窓にも、外に出れないように外鍵を付けている。

 その玄関に付いている二つの鍵を開けて家の中に入った。

「ただいま」

「カズ、お帰り」居間でいつものヨレヨレの半ズボンとチェックの着古したパジャマを着て、テレビを見ながら寝癖の付いた白髪頭を撫でつけて、父親の久志は返事をした。

 その返事を聞いて、今日は調子いいな、と和成は思った。 

一年ほど前から父親の久志は、たまに和成の事を「カズ君」と、小学生時代の呼び方をするようになっていた。

「弁当二つ買ったけどどっち食べる?」和成はコンビニで買った唐揚げ弁当と幕の内弁当をテーブルの上に並べた。

「どっちでもいい」弁当を見ずに久志が答えた。

「じゃ風呂入ってくるから」そういってから和成は浴室へ向かった。

 和成は二年前まで、新卒で入った地方銀行の営業をしていた。父親が大手の銀行で働いていたという理由で就職したが、楽しいと感じたことはなくやりがいも無かったが、なんとなく毎日働いていた。それは今もあまり変わらない。

 そんな生活を送っていた時、和成の携帯に父親が入院していると電話が入った。脳梗塞で倒れ、今は病状も安定しているとのことだった。和成はすぐに父の元に駆けつけた。

 父親を尊敬し、とても感謝していた。九歳の頃に母親を交通事故で亡くし、男手一つで何不自由なく大学まで行かしてくれた。なんの才能もない息子を暖かく見守ってくれた。口数は少なかったが和成はそう感じていた。定年退職して一人寂しく暮らす父親に親孝行することが、和成の唯一の楽しみでもあった。

 久志を担当した医者の話では、足に少し後遺症が残り歩きづらくなっているとのことだった。

 その話を聞き和成はすぐに銀行を辞めた。久志は最後まで反対していたが、和成の思いは変わらなかった。

 父親の暮らす土地で、何でもいいからと職を探し、今の工場に就職した。

 退院した久志と一緒に暮らし始めて、すぐに父親の変化に気づいた。

 何度も歯を磨いたり、同じ話を繰り返したり、夜中起き出し三十分ほどウロウロして何もせずに眠りにつくなどの行為が何度もあった。

 和成は何もいわなかった。ただ一人の味方であり、ただ一人の大切な人だった。いままで苦労を掛けた父親の残りの人生を、幸せな物にしてやりたいと思った。父親から何か言い出すまで、何もいわないでおこうと決めた。

 久志の様子は少しずつおかしくなっていった。和成が買ってあげた靴を「ありがとう」と喜んだが、一度も履かなかった。

 何度も料理を焦がすようになった。「ご飯は俺が作るから」と和成は常に冷蔵庫に軽い食事を保存するようにした。

 物覚えが悪くなり名前が出てこなくなった。

 和成の事を小学生だと思うことが増えていった。その時は和成のことを「カズ君」と呼び「将来の夢はなんだ?」と聞いたりした。

 そんな父親に和成はできるだけ明るく対応した。将来に不安はあったが、散歩に出かけたり旅行に行ったとき、楽しそうに笑う父が好きだった。前より明るくなった気さえしていた。

「弁当温める?」浴室から出た和成が久志に聞いた。

 和成の質問に、久志はテレビのニュース番組を見ながらうなずいた。

 テーブルの上に置いていた二つの弁当は、何かしら触れられた形跡があったが、放置されている。

 弁当二つを電子レンジに入れて温まるのを待つ間に、焼酎のロックを二つ作りテーブルに置いた。

「ありがとう」久志はそういってから焼酎を口に運び、少し飲んでから笑みを浮かべた。

「そんなに美味しい?」父親の顔に和成は少し笑った。

「美味しい」久志も笑みを浮かべる。

 温まった弁当の蓋を開けて割り箸を添え、幕の内弁当の方を久志の前に置いた。

「これはなんていう弁当だ?」久志が訊いた。

「幕の内弁当だよ。おかずいっぱいで美味そうだろ」

「カズのは?」

「唐揚げ弁当」

「そっちの方が美味しそうだな」

「さっきどっちでもいいっていってたのに」

 和成は父親の言葉に笑ったが、久志は真剣な顔をしている。

「俺も別にどっちでもいいよ。じゃこっち食べる?」久志の前に唐揚げ弁当を置いた。

 久志は幕の内弁当と唐揚げ弁当を見比べてから「こっちでいい」と幕の内弁当を取った。

「どっちだよ」そういって笑ったあと、テレビに目を向けて弁当を食べ始めた。

 久志は弁当を半分ほど食べてから蓋を閉めた。最近あまりご飯を食べなくなっている事に和成は気づいている。

 自分の唐揚げ弁当を食べ終わり、久志の残した幕の内弁当を食べて空箱をゴミ箱に入れ、久志の食べこぼしをティッシュで拭いて、一通り片づいたあと二人で煙草を吸った。

「たくさん食べないと身体に良くないよ」

「今更身体に良いも悪いもない」

「またそんなこといって。もう年なんだからまた病気になったらすぐ寝たきりだよ」

 久志は返事を返さずに焼酎のロックを飲んだ。

「一緒に煙草もやめてみる?」

「楽しみは煙草と酒ぐらいだ。やめる訳ないだろう」久志が煙を吐いた。  

「散歩でも行こうか?」和成が聞いた。

「いや、行かない」

「少しぐらい歩かないと足もっと悪くなっちゃうよ」

「なぁカズ……」久志はコップに入った焼酎を空にしてからもう一度口を開いた。

「父さんは一人でも大丈夫だから、そんなに気を使わなくていい」

「別に気なんか使ってないよ」和成の本心だった。

「好きなことをすればいい」久志の口癖だった。

「また……だから銀行辞める時もいっただろ。別に父さんの面倒見なくちゃいけないからって一緒にいるわけじゃないって。俺は俺のやりたいようにやってるよ。父さんのほうが俺に気使い過ぎなんだよ」同じような会話を何度もしていた。

 久志は返事を返さずに、空のコップを口元に持って行き飲む仕草をして、中身が無いことに気づいてテーブルの上に置いた。

「もう少し飲む?」

 和成の言葉に久志はうなづいた。和成は久志のコップと自分のコップに焼酎を入れた。

「明日休みだしどっか行こうか?」

「久しぶりに母さんの墓参りでも行きたいな」

「先月も行ったよ」

「そうか」

「いいよ別に。母さんも喜ぶと思うし」

「うん」

 久志は少し前から、月に一度は母親の墓参りに行きたがるようになっていた。和成にはそれが、本当に月に一度墓参りに行きたいのか、一ヶ月前の墓参りを忘れているのかは分からなかった。

「じゃあ早めに起きて行こうか。向こうでゆっくりして昼ご飯でも食べよう」

「うん」うなずいてから久志は立ち上がり歯を磨きにキッチンへ向かった。

 和成はテーブルの上を片づけてからそれを壁に立てかけ、テレビの横に畳んでいた久志の布団を敷き、隣の部屋に自分の布団を敷いた。

 歯を磨き布団に入った久志の横で、二時間ほど焼酎を飲みながらテレビを見た後、和成も歯を磨いてテレビが置いてある部屋の電気を消して、隣の部屋に敷いた自分の布団に入った。

 二つの部屋の間に襖は付いているが、和成はいつも少しだけ開けて完全には閉めないようにしている。

 和成は布団に入り、いつものように一時間ほど棚に並ぶマンガを読みながらいつの間にか眠りについた。



 和成は不意に目を覚ました。まだ寝ぼけた頭で携帯の液晶を見ると、二時十五分と表示されていた。

 枕に顔を埋めてもう一度眠ろうとしたが、隣の部屋で眠る久志の息づかいがいつもと違うことに気づいて、三十センチ程開けた襖の間から隣を覗いた。

 そこからは、久志の顔に隣の部屋の明かりが当たらないようにしているため、久志の下半身が見えるようになっている。

 久志の下半身は、布団がはだけて小刻みに震えていた。

「父さん」小さな声で呼び掛けたが返事はない。

「父さん」今度は少し大きな声を出した。それでも返事はなかった。

 眠りから覚めきってない重い身体を起こして四つん這いになり、襖を開け「父さん、大丈夫?」と声を掛けた。

 久志は胸の辺りを押さえ震えていた。

 部屋が暗く久志の顔はよく見えなかったが、その身体に何かが起こっていることはすぐに理解できた。

「父さん」大声を出した。和成は立ち上がりすぐに電気をつけた。

 明かりに照らされた久志の顔は血の気が引いて青白くなっていた。苦しそうに目を見開いたり閉じたりした。歯を食いしばったり、息を吸いたそうに口を大きく開けたりした。

 和成はすぐに久志を抱き抱えた。

「父さん。父さん」何度も声を掛けた。久志は苦しそうに何度も息を吸った。

「すぐ救急車呼ぶから」和成は隣の部屋に置いてある携帯を取りに行こうと、抱き抱えた久志を降ろそうとしたが肩を掴まれた。

 久志は和成の目を見つめ、口を動かしているが声が出ていなかった。久志の目は、まだ夢と現実の狭間にいるようだった。

「何? 早く救急車呼ばないと――」

「カっ……カズ……君」  

「何父さん? どうしたの?」

「カズ君……ご……ごめんな」

「何で謝るの? 俺は大丈夫だから」

「ごめん……ご……ごめん」何度も謝る久志の顔には、苦しみのほか様々な感情が交じっているようだった。

「だからなんで謝るんだよ」

 もう一度降ろそうとした和成の肩を、久志は力強く握りしめた。

「父さん、カズ……カズ君を、助けられなかった。全部……分かって、分かってたけど……何にも、できなかった。しなかった、だからごめ……ごめ――」

「いいよ。謝らないでいいから」

 和成は泣いていた。今この時代にいない父の話を全て理解した。苦しみに歪む父の顔に、優しさと悲しみが浮かんでいるのに気づいていた。

 和成はもう一度父親を強く抱きしめた。

 久志は息子の耳元で必死に声を出した。

「もう、いいから……カズ君の好きな……好きなことを、すればいいから」

「なにいってんだよ父さん」和成の頭の中で、父親にカズ君と呼ばれていた時代の記憶が駆けめぐる。

「カズ君……」

「うん」

「強く……」久志の全身の力が抜けた。

「父さん、父さん」それから何度呼びかけても、久志は二度と目を覚まさなかった。

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