soda
𝚊𝚒𝚗𝚊
スープ
soup、波が崩れた後に立ち上がる白い波。
後ろから男の人の声がした。
「元気ないね。彼氏と喧嘩でもした?」
「秋谷から歩いて来たから」
「アキヤって? 遠いの?」
「この辺の人じゃないんだ」
「初めて来たんだよ」
二十歳くらいの男の人が立つ後ろの方にサーフボードが横たわっていた。
「ここは波が無いんじゃない?
「今年始めたばかりなんだ。愛知から来たんだよ。人が多くても一つの波には一人ずつしか乗れねぇし。ゆっくり練習したくて、静かな海を探しに来たんだ。遠出したかったってのもあるし」
「愛知の方が遠いじゃん……。何歳?」
「十九」
「今年で?」
同じ歳だった。陽に灼けた肌と、筋肉質の体が、大人っぽく見えた。
「この辺の子? 羨ましいよ。俺はサクト」
八月。サーフィンを楽しんでいるサクトの方が羨ましかった。私はビーチで水着さえ身に着けずにただ歩いていた。
細い雨粒が落ちてくる。雨のビーチほど私を溶け込ませるものはない。雨は波に溶け、また雨として生まれるのだろう。私の六十パーセントは水で出来ている。綺麗な水を感じるたびに、この身体にも綺麗なものが詰まっていると感じた。
午前中に雨が降り始めた。持っていた傘を拡げて、愛知から来たというサクトを見ていた。私はサーフィンをした事がない。沖に浮かぶサクトは見飽きなかった。海に溶け込んで、波の一種のように見えた。サクトは黒いミニバンで来ていた。後部のドアを屋根にして、ポリタンクの水を被った。私も水を分けてもらってビーチサンダルごと足を洗った。そこで服を着替えるらしい。開いたドアに腰かけて雨の後ろの海を見ていた。
海から県道沿いを歩いて帰る。町の西側は相模湾に面していて、漁港、マリーナ、ビーチが連なっていた。歩くと汗ばむ。雨が降っていても気温は三十度を超えていた。ビーチサンダルで何回か滑りながら雨の中を歩く。建設中のイタリアンレストランが、スタッフ募集の広告を掲げていた。休工なのか、ひっそりとした工事現場の脇に佇んで、募集の広告を読んだ。十八歳以上。学生不可。九月上旬オープン。スマートフォンで広告の写真を撮った。
ビーチまで歩いて十五分。家からは海が見えないけれど、台風の前後などは外に出ると波の音が響き、五分歩けば靄がかかる町を見ることが出来た。激しくぶつかり合う波が砕けて町の中に舞っているのだろう。今日も風が強い。沖にはウィンドサーファーが、何艘もセイルを上げていた。
今朝は八時にビーチに着いた。サクトはまだ波を見ていて髪は乾いていた。挨拶の代わりに歯を見せずに笑った。見た事がある犬や人たちが散歩をしていた。サクトは昼食を挟んで朝と午後の二ラウンド海に入る予定らしい。そして車中泊を挟み愛知に帰ると言った。
炭酸水と氷が入ったプラスチックのカップ。イートインスペースのカウンターに座ってカップに注いだ。音を立てて炭酸水と氷が混ざる。昼食を摂りにビーチから直ぐのコンビニに来た。サクトは車中泊をして昨日の早朝神奈川県に入り、高速を降りて平塚から相模湾沿いを走って三浦半島に辿り着いた。昨日、あれから近くの旅館にチェックインしたらしい。サクトは隣に腰かけてアイスコーヒーを啜りながら自分のライディングのチェックをしていた。頼まれてサクトのスマートフォンで撮影した動画。味気ない炭酸水を啜りながら、コンビニの外の国道を眺めていた。黙っていられるのが心地良かった。
午後からもサクトのサーフィンを撮って過ごした。西陽が赤らむ頃、走り出す黒いバンを見送った。
「メールする」
「じゃあね」
サクトは湾に沿う国道を走って行った。サクトは、陽が沈む海を見ただろうか。
八月六日。人工妊娠中絶をしてから一ヶ月が経った。前を向こうと思った。たとえ許されないとしても。海は美しかった。その美しさは拒絶を湛えているような気がした。私が入れば海は汚れるのだろうか。細胞から生まれ変わりたい。夜中に目が醒める。冷蔵庫から冷えた白湯のポットを取り出してグラスに注ぐ。冷たい物が喉を通り過ぎていく時、水分が細胞に行き渡るのを感じる。全ての細胞が生まれ変わった時。私は新しい私になったと言えるのだろうか。祈る気持ちで白湯を飲み干した。
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