風鈴の音

三角海域

第1話

 光が反射している。

 季節外れの風鈴が、光を吸収しながら、サランサランと不思議な音をたてている。

 僕はそれをぼんやりとみつめながら、瓶コーラを飲んでいた。

 後ろのほうから話し声が聞こえる。でも不思議とその声は小さく感じて、風鈴の音だけが僕の耳朶に響いていた。

「それにしても、早すぎるよな」

「そうよね。まだ若いのに」

「いきなり倒れて、病院に行ったら、もう助かりませんだろ? なんか兆候とかなかったのか?」

 遠くの方でそんな会話が聞こえる。

 サランサラン。風鈴が強い風に吹かれて、また鳴った。冷たい風。四月に入ってからは少し暖かくなったけれど、今日は少し寒い。

 瓶コーラを口に運ぶが、もう空だった。

「お久しぶりです」

 不意に、すぐ横で声がした。

「何年振りでしょうか?」

 ゆっくり首を動かす。自分の体とは思えないほど、重く感じた。

「お姉ちゃん、喜んでると思います。清水さんが来てくれて」

 感情のこもっていない声で言う。いや、悲しみが感情を覆ってしまい、そう感じるだけかもしれない。まだ、感情を悲しみ以外に割く余裕がないのだろう。

「死んだ人間はなにも感じないだろう」

 突き放したような言い方になってしまった。

「変わらないですね」

 そう言って、彼女、川中由美子は笑った。

 君も、変わらないな。そんなこと一瞬口にしようかと思った。だが、やめた。言葉を飲み込む代わりに、煙草に火をつけた。

「清水さんは、気取らずにそういう感じでした。学校じゃ不良扱いでしたけど、そうじゃなくて。束縛されたくないなんて言い方じゃ陳腐ですけど、社会への反発とか、そういうことじゃなくて、心からそういう風に思って、清水さんは生きてました。お姉ちゃんもそうです」

「過去を懐かしむためにここにきたわけじゃない」

 そう言って、紫煙を吸い込んだ。なぜか、由美子を突き放すような言い方をしてしまう。イラついているわけじゃない。悲しみで感情がささくれているわけでもない。何故だか自分でもよくわからなかった。

 由美子は黙ってしまった。怒らせてしまったか。当然だ。

「清水さんが来てくれてよかった」

 由美子はそう言って、立ち上がった。表情も、声も穏やかだった。

 何かを言おうと思った。だが、煙草の灰が落ちそうになり、それを手で受け止めている間に、由美子は去った。煙草はだいぶ短くなっていた。僕は煙草を瓶コーラの空き瓶に突っ込み、二本目の煙草に火をつけた。


  ※


川中沙耶と出会ったのは、高校生のころだった。

 その頃の僕は、ただただ生意気なガキでしかなく、この何もない町から抜け出したいということしか考えていなかった。

 何をしたいとか、こうなりたいなんてことはなにひとつなく、ただ、町を抜け出したいとだけ考えていた。そんな僕が、反発することで存在証明をする不良やら、青春にすべてをささげんとする連中のことを見下していたのだからお笑いだ。

 僕も、彼らも、ただただガキだった。

 青春も、反発も、説明しがたい感情も、その時期特有の病のようなものだった。

 沙耶が僕に話しかけてきたのは、そんなどうしようもない僕が二年生の時。

「ねえ、今さ、暇してる?」

 突然、見知らぬ女がそう言ってきた。

「あのさ、よければなんだけど、ちょっと付き合ってくんない?」

 よければなんて言いつつも、女は僕の手をつかみ、ぐいぐいと引っ張ってくる。

「嫌だ」

「そう言わず」

「嫌だ」

「まあまあ話だけでも」

「ここで話せばいいだろう」

「そこはほら、ムードがさ」

 どんなに拒絶しても、手を放そうとしない。だんだん抵抗するのもバカらしくなり、僕は女についていくことにした。

「ありがとう! ああ、そういえば自己紹介してなかったか。私、川中沙耶。よろしく」

 それが、沙耶との出会い。僕が過ごしてきた陳腐な学生時代の中で、唯一輝いていたといえる出来事だ。



 沙耶に連れられて向かった先は、演劇部の部室だった。

「連れてきたよ!」

 引き戸を開けると、無駄にでかい声で言う。

 部室にいた数人が、「うわ、マジで連れてきた」だの「殴られて終わりかと思ってた」だのと好き勝手言っていた。その中に、当時一年生だった由美子もいた。小柄で、こちらを少しおびえながら見ていたのが懐かしい。

「これで、文句ないね」

 沙耶がニヤニヤしながら言い、部室の中央に置かれた机から台本を取ると、僕にそれを差し出した。

「はい」

 意味も分からずそれを受け取ると、部室にいた人間が拍手をする。

「ようこそ演劇部へ」

「は?」

「清水君は、主人公のチャック・マクエイド役だから、頑張って」

「いやいや、意味がわからない。どういうことなんだ」

「うん? えっと、マクエイドはアメリカの探偵で……」

「そういうことを言ってるんじゃなくて、なんでいきなり入部することになってるんだ」

「そういう話だったじゃん?」

「初耳だ」

「そうだっけ?」

「そうだ」

「またまた」

「帰る」

 去ろうとする僕に、沙耶が抱きついた。

「待って待って! この役は清水君じゃなきゃダメなんだって! 昼休みに隠れてチャンドラー読んでる清水君じゃなきゃ!」

「人を痛い人みたいに言うな。チャンドラーに謝れ」

「え? だって学生時代にチャンドラー読む人なんて、ハードボイルドにかぶれた痛い人くらいじゃないの?」

「よし、謝れ。チャンドラーとそれを愛好するすべての人に謝れ」

 そんな沙耶とのやり取りを、いつものことという風に部員たちが見ている。話だけでもと沙耶がすがりつく。抵抗するのもバカらしくなり、結局僕は沙耶の話を聞くことにした。

 どうやら、今回の芝居を最後に沙耶は演劇部を引退するらしく、最後はいままでにない芝居をということで、オリジナルの探偵ものを脚本にしたらしい。

 内容を聞いてみると、こってこてのハードボイルドで、渋い男のドラマという仕上がりになっていた。

 最初こそ、ありがちな話だと思って読んでいたのだが、読み進めていくうち、どんどん没頭していった。

 確かに、ハードボイルドというジャンルから連想される要素がそこかしこにあり、典型的な通俗物という感じなのだが、そうした要素の使い方や、シナリオの構成が抜群にうまく、どんどん引き込まれていく。

 結末も中盤あたりで予想できてしまうのだが、そんなのが気にならないほど面白い。むしろ、その結末に向かっていく過程がエキサイティングでさえある。

「どう?」

 そう問いかける沙耶の表情は自信に満ちていた。いや、沙耶はいつだって自信に満ちていた。自分が書くものは面白いという自負。過信などではなく、ひたすら書くことに集中し、そのうえで最高と自分が思えるものを書く。それゆえの自信。

 思い返せば、あの表情を見た時から、僕は沙耶に惹かれていたのかもしれない。

「面白かった?」

「ああ」

「その役は、この学校の中で、清水君にしか演じられないと思うんだ。当て書きしたわけじゃないんだけど、書き上げた瞬間、あ、いつもチャンドラー読んでるあの人だって感じたの」

「そういえば、あんた上級生だろ。なんで僕のこと知ってるんだ」

「常日頃から面白そうな人はチェックしてるよ。舞台は役者の力で演出が考えている以上のものを生み出すからね。面白い人材はスカウト!」

「でも、僕は素人だ」

「それがどうしたってのさ。最初は誰だって素人だよ。それに、洗練された芝居ってのは、自然な芝居ありきなんだよ? 即興劇で芝居を磨くのは、アドリブに対応するってのより、自然な芝居ができるようになる特訓になるっていうのが強いと私は思ってる。どんな役者も、最初は原石。それを磨くのが、演出のお仕事なのです!」

 なんだか、その言葉には無駄に説得力があって、僕は役を引き受けることにした。

 それから、僕は毎日演劇部に通い、芝居の練習をした。

 沙耶の指導は独特だったが、面白いくらいに理解しやすく、自分でいうのもあれだが、僕の芝居は少しずつ様になってきた。

 時々、沙耶の家に出向くこともあった。

 演技のこと、キャラクターのこと、とりとめもないこと。そういういろいろなことを話、劇に対する理解を深めていく。

「清水君は、思ってたより面白い子なんだね」

「面白い?」

「うん。生意気な奴って言われてるけど、話してみるとそんな感じじゃない。別に、敬語とかどうでもいいしね。私たち学生だし、文化部に上も下もないんじゃないかなーとか私は思ってるわけ。まあ、そうもいかないけどね、世の中」

 そう言って、沙耶は瓶コーラをひとくち飲む。

沙耶の家にくると、毎回瓶コーラが出された。家の近くに瓶コーラの自販機があるらしく、大量に買い込んでいるという。

「お姉ちゃんは変わってるから」

 由美子が遠慮がちに言う。演劇部で衣装係をつとめる由美子は、引っ込み思案で、いつも沙耶のうしろにいる。こうして話すようになったのも、三度目に家を訪ねた時だった。今では、普通に話せるようになった。

「変わってるかな? みんな、同じように考えてると思うんだけどな」

「考えていたとしても、実行できる人なんていないよ。お姉ちゃんは特別」

 沙耶は渋い顔をしてコーラを飲む。

 そう、沙耶は特別だ。特別な才能がある。だからこそ、破天荒でも許される。

 本人はそれに無自覚だ。才能あるものというのは、そういうものなのかもしれない。

「私は由美子のほうが素敵なものいっぱいもってると思うけどな。わが妹ながら、超可愛いし。舞台に出てくれって何度も言ってるんだけどね。ね、清水君。もったいないと思わない? 絶対舞台映えするのに」

 沙耶がそう言うと、由美子は下を向いてしまう。だが、確かに沙耶の言う通り、由美子は魅力的だった。恥ずかしがり屋で、もじもじとしているが、それが鼻につくことはなく、むしろ魅力的にすら思える。天性の少女性とでもいえばいいのだろうか。

「確かに、見てみたいな、由美子の芝居」

「先輩までそんなこと……絶対無理です」

 顔を赤くする由美子を見て、沙耶が笑う。

 僕は、この時間が好きだった。居心地が良くて、どこか甘ったるい空気。

 このころは、町を抜け出したいという思いは消えていた。

 むしろ、この時間が永遠であればいいのになどという、青臭いことを考えてすらいた。



 そうした時間を積み上げていき、ついに発表会の日がやってきた。

 トレンチコートに身を包み、中折れ帽をかぶると、自然とチャック・マクエイドの気持ちになれた。

「真面目に、だけど楽しむことも忘れずに。気は張りすぎず、手は抜かずに」

 沙耶が舞台袖で言う。沙耶の言葉が緊張をほぐしていく。僕も、ほかの部員も、表情が柔らかくなった。

「じゃあ、行ってみよう!」

 開演を告げるブザーが響く。僕は大きく深呼吸をしてから、舞台に出た。

 レトロなアメリカの街並みをイメージした舞台。そこに立ち、言葉を紡いでいく。

 演じているという感覚は、あまりなかった。その時間だけは、僕はアメリカの探偵だったし、ほかの部員もまた、マフィアであり、娼婦であり、刑事だった。

 自分とは違う存在になれる。

 それは、本当に夢のような時間だった。

 芝居が終わり、一度袖に戻り、再び全キャストと共に舞台へ。

 拍手が僕たちを出迎えた。

 その拍手の中で、僕は僕に戻っていく。

 そうして、発表会は終了した。

 僕らは軽い打ち上げをし、帰路についた。

 その帰り道、僕は沙耶に告白をした。



 付き合うと言っても、沙耶は変わり者だから、想像していたような特別な変化は特になかった。

 今まで通り、時折沙耶の家に行き、瓶コーラを飲みながらいろいろと話をする。由美子は二人の時間だからと、僕らを二人きりにしようと気を使っていたが、結局しばらくすると沙耶が由美子を呼びに行き、三人で話す。

 今まで通りの日々。変わったことと言えば、僕が沙耶の後輩から恋人になったことと、今まで対面に座っていた沙耶が、僕の隣に座るようになったということだけ。

 今こうして思い返してみると、大きな変化であると思うのだが、当時の僕は少し残念に感じていた。気取っていても、所詮は年頃の男だったということだ。

 その後、沙耶は高校を卒業し、書き溜めていた何本かの脚本をいろいろな所に送り始めた。

 半年後、そのうちのいくつかから連絡があり、沙耶は正式にプロの脚本家としてデビューすることになった。

 僕は高校を卒業した後、地元の新聞社に就職した。

 地方紙の小さな会社だが、取材に出かけたり、記事を書くのはとても楽しかった。

 沙耶との関係も続いており、僕は結婚も視野にいれていた。

 この頃には、沙耶はいくつかの新人賞や脚本賞を受賞しており、すでに脚本家として有名人になっていた。

 ドラマや映画の脚本も担当し、沙耶の名前がスタッフの中にあると、名作であることが約束されるとまで言われるようになっていた。

 僕はそれが誇らしくて、それが自分の仕事のモチベーションにつながってもいた。

 浮かれていたのかもしれない。

 内心では焦っていたのかもしれない。

 自分と沙耶の距離が、離れていくことを恐れていたのかもしれない。

 まあ、とにかく、そんな感情が渦巻いて、僕は一緒に食事をしている時に、沙耶にプロポーズをした。

「うーん。そういうの苦手だな」

 沙耶はいつも通りの笑顔で言った。

「私たち、そういう関係にならなくても、楽しくやってきたじゃん。結婚ってそんなに大切かな? 子供を残すみたいなこと? 私は別にいいかな」

 沙耶の声が遠くから聞こえる。

「でも、どうしてもっていうんなら、今抱えてるお仕事が片付いたら、してもいいよ?」

 僕は席を立ち、沙耶に背を向けた。

 背後から沙耶の声が聞こえる。だが、聞き取れなかった。いや、僕が聞こうとしなかっただけなのかもしれない。

 その後、僕は仕事を辞め、東京に出た。

 それ以来、沙耶とは一度もあっていない。

 今、あの時を振り返ると、ああいう女だから惚れたのではないかと自分を諫めたくなる。結局、僕は自分の気持ちを押し付けて、受け入れられないから拒絶するという典型的な小僧でしかなかった。

 そうして、都会での暮らしにも慣れ、沙耶のことも過去のことになり始めたころ、親から連絡が来た。

 沙耶が、亡くなったという連絡だった。


 ※



 風鈴がひときわ強くサランと鳴った。

 強い風が吹いたらしい。

 過去を思い返していた僕の意識も、その風により引き戻された。

 煙草に火をつける。もう四本目だった。

 喉がガラついてくる。一度だけ吸い、煙草を瓶の中に突っ込む。

 まだ宴会は続いている。何か飲み物でももらおうかと立ち上がった時、瓶のコーラが差し出される。

「一緒に飲みませんか?」

 由美子だった。

「お酒ってどうも苦手で」

 そう言って笑う由美子は、あの頃とほとんど変わっていなかった。顔立ちは大人っぽくなったが、仕草やはにかんだような表情は、昔のままだった。

 僕は瓶コーラを受け取り、栓をあけた。

 由美子が隣に腰掛ける。

「お姉ちゃん、気にしてました」

「何を」

 コーラを飲む。やはり、普通のコーラより甘く感じる。

「清水さんのこと。なにか悪いことしたのかなって。なにがあったのか聞きましたけど、怒って当然ですよね」

 由美子はコーラの瓶をなでながら、言う。

「まだ、怒ってますか?」

 風鈴が、静かに鳴る。

「いや、もう冷めたよ」

「冷めた?」

「ああ。あのころは、妙な熱量に浮かれてた。自分が少し特別なような気がしてた。それは、ただ単に、沙耶の近くにいたからってだけなんだ。こうして思い返してみると、あの言葉はすごく沙耶らしい。勝手に僕だけで盛り上がって、勝手に気持ちを押し付けて、拒絶されたら逃げ去る。かっこ悪いな、我ながら」

 そう、沙耶はずっと沙耶のままだった。僕は、そんなぶれない沙耶を好きになったはずなのに、沙耶が有名になっていくにつれて、彼女を独占したいという欲求にかられたのだ。

 それが、ただの押し付けだと理解せずに。

 つまり、子供だったのだ。

 学生でなくなっても、二十歳になっても、心が成長しない限り、人は子供のままだ。沙耶は、大人だった。学生時代も、プロになってからも。

 それだけのことだったのだ。

 それだけのことに気が付くのに、僕はかなりの時間を有した。

「いきなり倒れて、そのまま亡くなったのか」

「はい。お医者さんは、無理がたたったんじゃないかって。お姉ちゃん、いつも仕事仕事でほとんど休まなかったから。私がもっと気を付けてればよかったんです。いつも通りのお姉ちゃんにしか見えなくて。ほんと、ダメですね、私」

「そんなことない。沙耶は本当に無理をしていたわけじゃなかったんだろう。辛くても、苦しくても、沙耶は書くことをやめない。書くことをやめることこそが、沙耶にとっての死なんだ。だから、限界がきて亡くなったというより、灯が消えたというのが近いのかもしれない」

「灯が消えた?」

「ああ。沙耶は命を燃やして物語を書いてた。その火が、ふっと消えた。無理だとか、そういうことじゃなくて、自然と命を終えた。そんな風に感じる」

 少しクサいだろうか。それに、こんな言い方では、沙耶の死を侮辱しているように思われるかもしれない。

「そうですね。確かに、そうなのかもしれません。そのほうがお姉ちゃんらしいですね」

 由美子は瓶の中のコーラを見つめながら言った。

「線香、あげてくるよ」

 僕は立ち上がり、歩き出す。

 また、強い風が吹いた。

 風鈴がサランと鳴る。

 その音に交じって、由美子の泣き声が聞こえた。

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風鈴の音 三角海域 @sankakukaiiki

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