第漆話 【2】 憂いの黒狐

 夕食時にも、黒狐さんの様子はおかしかった。


 いつもは僕の隣に、白狐さんと挟むようにして座るのに、今日は白狐さんの隣に座っています。

 その代わりに、黒狐さんが居たその場所には里子ちゃんが座っていて、僕の様子を眺めたり、ご飯のおかわりを入れてくれたりしています。


 なんだかいつもとは違うから、少し落ち着かないような気がするけれど、そもそも2人に会ってからそんなに経っていないんだよ? なんでこんなに落ち着かないんだろう。

 いや、過去にも僕達は会っていたようなので、その時の記憶が体に染みついているだけかも知れない。


 とにかく、いつもの位置に黒狐さんが居ないだけで、何でこんなに僕が乱されなきゃいけないんですか?


「椿ちゃんどうしたの? ブスッとして。可愛い顔が更に可愛くなってるよ?」


 里子ちゃんが、お味噌汁のおかわりを僕に用意してくれながら、そんな事を言ってくる。

 普通は可愛い顔が台無しになるじゃないですか? 危うくお味噌汁を落とすところだったじゃん。しかも今日は、落とすと破裂するかもしれない味噌汁なんだよ……。


「ん……何でも無いよ」


 そう言って、僕は里子ちゃんから渡されたお味噌汁を受け取り、冷ましながら口を付ける。

 やっぱり妖術を使い過ぎると、極端にお腹が空いちゃうよ。ご飯もお味噌汁も、おかわりをしないと全く足りません。


 今日のお味噌汁は、白菜とワカメとナスです。

 お野菜のお味噌汁はあんまり好きじゃないけれど、里子ちゃんの作る料理はどれも美味しいし、このお味噌汁も美味しいので、2杯でも3杯でもいけちゃいますよ。


 それにしても、黒狐さんはずっと考え込んでいる様子で、あんまり食が進んでいないようにも見える。

 あの元に戻るいなり寿司だから、減ってなくても実際は食べているのかな?


「あっつい!!」


 ぼーっとしながら黒狐さんの事を考えていたら、ナスから熱いお味噌汁をかけられちゃいました。

 このナスは、早く食べないとドンドン水分を取り込んでいき、最後は取り込んだ水分を思い切り吐き出すのです。ちなみに、その状態で落とそうものなら破裂します。


「椿ちゃんったら、お味噌汁全部那須なすさんに吸われちゃったね」


「里子ちゃん、妖怪食に適当な名前を付けるのは止めてね」


 顔がびしょ濡れになっちゃったけれど、Tシャツまでは濡れていないので助かりました。

 里子ちゃんが用意していたワンピースから、Tシャツと短パンに着替えておいて良かったよ。里子ちゃんからのプレゼントみたいなものだからね、やっぱり汚したくはないの。


 それと、里子ちゃんが妖怪食の名前を言っていたけれど、あれは愛称として、里子ちゃんが勝手に付けていただけで、実際は名前なんて無かったんだよ。


 ここに来てからの僕は、色んな人に弄ばれ過ぎですね。本当、しっかりしなきゃ。


 そして今は、黒狐さんにも心を乱されているという事態。やられっぱなしじゃ癪ですね。


 ―― ―― ――


 晩御飯も終わり、お風呂から上がった僕は、自分の部屋に向かいます。でも、その部屋に黒狐さんは居なかった。


 正直これはショックです。

 嫌われた? 何で? いや、別に良いじゃん……1つ問題が片付いたんだ。


 でも――納得がいかない。


『おぉ、椿よ。今夜は我と2人きりだ。ようやく黒狐が諦めて――って、何処へ行く?! 椿よ!』


「黒狐さんを探しに!」


 僕はそのまま部屋には入らず、パジャマのままで、黒狐さんの妖気を探し始めます。でも、簡単に見つけたよ。これは屋根の上だね。

 屋根の上でいったい何をしているのかは、容易に想像出来るけれど、それは黒狐さんには似合わない。屋根の上で物思いにふけるなんて、絶対似合わない。


 そして、僕は一旦庭に出ると、白狐さんの力を使って屋根へと跳び上がる。


 すると、簡単に黒狐さんを発見しました。


 そこから見える黒狐さんは、僕に背を向けている状態だったので、僕には気づいていない様子です。とにかくゆっくりと近づかないと、バレると黒狐さんに逃げられるかも。


 とにかく物音を立てず、静かに黒狐さんに近づいて行くけれど、その時雲の切れ目から月明かりが漏れた。

 どうやら今日は満月らしくて、雲から顔を出したお月さんは、凄く綺麗に輝いていた。


 そして、その月明かりに黒狐さんが照らされ、黒狐さんの黒い耳と尻尾がその瞬間だけ幻想的に輝いていました。まるで絵画でも見ているかのように美しいです。


 見上げた黒狐さんの顔は、どこか憂いを帯びていて、妖しさも増していたので、僕は一瞬足を止め、その姿に見とれてしまった。だけど直ぐに、その姿が酔いからきているものだと分かったよ。

 だって、黒狐さんの手にはお猪口があって、その中に透明な物が入ってたからね。お猪口で飲むとしたらお酒しかないし、それをチビチビと飲んでいたんだ。


『椿か?』


「うっ……」


 あれ、バレていましたか。


 黒狐さんは全く顔を動かしていないのに、何で分かったんだろう?

 バレては仕方が無いので、僕は堂々と黒狐さんの隣に行き、そこに腰を下ろして顔を覗き込みました。


『む? どうした? 何か用か?』


「別に……今日帰ってからずっと、黒狐さんが僕を避けていたので、もう諦めたのかなって確認をね」


 あれ? こんな嫌味たらしく言うつもりは無かったのに、何でこんな態度を取っちゃってるの、僕。


『むっ……い、いや。そういうつもりはないんだが』


 ほら、黒狐さんが困り果てた顔をしている。

 でも、諦めた訳じゃないのなら、尚更避けている事が気になってくる。


「それじゃぁ、何で僕を避けるの? ねぇ?」


 それでも気になる僕は、黒狐さんに近づき、真剣な目で見つめます。

 黒狐さんは、白狐さんにも引けを取らないくらいの美形ですから、あんまりずっと見つめていたらこっちが恥ずかしくなってくるけれど、今は黒狐さんの顔の方が赤いよね。それが酔いのせいか、それとも僕のせいかは分からないけどね。


 だけど、黒狐さんは僕から顔を逸らしてくるし、雰囲気的に「別に何でも無い」といった感じを出しているよ。


 何でも無いのなら、僕を避ける必要は無いでしょう? 何かあるから避けてるんじゃん。

 正攻法じゃ黒狐さんは喋ってくれないけれど、それでも原因は、僕にだって薄々とは分かっている。


「僕の中にいる妲己さんが原因?」


 ちょっとだけ肩をすくめて反応する黒狐さんを見て、間違いなくそれが原因だって分かったけれど、やっぱり黒狐さんは無言のままで、ずっと僕から顔を背けている。


 いったいどうしたら良いんだろう?


「ねぇ、黒狐さん。妲己さんは僕の体を乗っ取れないようだし、僕の体を乗っ取る気も無いみたいだよ」


 それでも、僕はとにかく必死に訴えかける。


 今まで僕の相手をしてくれた人が、何の相談も無しに距離を置かれる事が、こんなにも苦しいとは思わなくてさ、ちょっとだけ泣きそうになっちゃうよ。


『そうか……だがな、それでもお前の中に奴が居ると思うと、少し怖くてな』


 ようやく言葉を発してくれたけれど、その声には、少し恐怖が混じっていた。


 妲己さんは黒狐さんに何をしたのですか?

 あっ、黒狐さんの体がちょっと震えている。やっぱり何か思い出しているんだろうね。


『妲己と何があったかは思い出していないのに、か、体が思い出すなと言わんばかりに、思い切り震え上がるんだ。情けないもんだ。酒でも飲まんと押さえられん』


 そう言うと、黒狐さんは一口お酒を飲み、その恐怖を打ち消そうとした。

 黒狐さんにそんなトラウマがあるとは思わなかったけれど、それは妲己さんの事であって、僕とは関係ないよね?


「ねぇ、黒狐さん。そんな理由で僕を避けていたなら、ちょっと怒るよ?」


 僕の中の黒狐さんのイメージは、強気で横暴で、少し性格の悪い妖狐。だけど、誰よりも周りを見ていて冷静。

 だから、強気な黒狐さんなら、色々と弱気な僕を引っ張ってくれる存在になるんじゃないかって、そう思い始めていたんだよ?


「――なのに、それなのに」


『ん? どうした椿?』


「そんな弱気な黒狐さんは黒狐さんじゃな~い!!」


『――っ?!』


 感情的になっちゃって、思い切り黒狐さんの頬を平手打ちしちゃいました。

 やった僕の方の手が痛いけれど、夜空に清々しい程の張り手の音が鳴り響いて、ちょっとスッキリしたかな。


『な、何をする! 椿!』


「だって、黒狐さんはそんな性格じゃないでしょ!? 僕は必死に変わろうとしているけれど、まだまだ不安が多いんだ。それなのに、黒狐さんは勝手な思い込みで離れようとするんだもん! 僕は僕だよ! 妲己さんじゃないよ!」


 そしてそのまま、僕はその場で泣き崩れるてしまった。

 もう色んな感情が溢れてきて、抑えきれなかったの。やっぱり何だかんだ言っても、僕を安心させてくれる1人なんだよ。


 家族の居ない僕を、支えてくれているんだよ? 失いたくないのは当然でしょ。


『つ、椿。す、すまん。泣き止んでくれ』


「うぐっ、ぐす……じゃあ、僕を避けたりしない?」


『あ、当たり前だ。お前に惚れているのは変わっていない!』


 ほんとかなぁ……僕を泣き止ますための嘘だったりして。それなら、目に見える証拠が欲しいものだよ。


「それだったら、証拠にキスしてよ」


『なっ?!』


 あ、あれ? 僕今、何を言いました?

 

 いや、待って……キスって、キスしてって言っちゃったかも……いや、言っちゃいました!? 他にも確認する方法はあるのに、何言っているの僕は!?


『つ、椿……』


 すると黒狐さんが、生唾を飲み込む音を立て、僕に近づいてくる。


「あっ、ち、ちちちが、今のは違う! 間違いました!」


 慌てて訂正しようとしても、もう遅かったよ。だって黒狐さん、お酒臭いし。これ、確実に酔ってるじゃん。


『椿!! なんて可愛い奴だ! やはり、俺にはお前しか居ない!』


 僕が逃げようと後退ると、それに反応するようにして、黒狐さんが僕を抱きしめてきた。

 完全に貞操の危機なんだけれど、それよりも、僕を逃がさないようにと、しっかりと力強く抱きしめてくるから、僕の顔が真っ赤っかになっているはずなんだ。


「わぅっ?! ちょ……待って、待ってよ黒狐さん!」


 しかも抱きしめられた瞬間、変な声が出てしまっている。

 それでも、それを気にしている場合じゃないんだ。黒狐さんの顔が、徐々に僕に近づいて来ているんだよ。逃げないといけないんだ。


 それと、何か固い物が僕のお尻に当たっているんだ――けれど……こ、これって……ま、まさか。男性のイチ――


「わぁぁ!! 酔っぱらいの変態妖怪~!! 離してぇ!」


 僕のお尻に当たっている何かは、絶対に“ナニ”ですよね?! 発情しちゃってるよ、この狐さんは!


『ほほう、黒狐よ。中々手早いが、我の目が黒い内は手は出させんぞ』


 すると黒狐さんの後ろから、白狐さんの怒りの混じった声が聞こえて来た。どうやら様子を見に来てくれたみたい。とにかく助かったよ。


 黒狐さんに抱きしめられているから、その白狐さんの姿を、真正面からいち早く確認する事が出来た。

 僕は必死に助けを求め、白狐さんに向かって手を伸ばすけれど、黒狐さんは僕の耳元に顔を近づけ、更により強く抱きしめてきた。


『お前は誰にも渡さないからな』


 黒狐さんが耳元で囁いてくるけれど、寒気じゃない別の感覚によって、僕は身震いしてしまった。


「ふぎゅぅぅ、白狐さん助けて。こ、黒狐さんがぁ……」


 とにかくここから脱したい一心で、僕は必死に白狐さんに助けを求め続けます。


『こりゃ黒狐! いつまで抱き締めとるか!』


 流石にもう離してくれないと、白狐さんが殴りそうな勢いですよ。


 それでも、黒狐さんは僕を離さないどころか、白狐さんの言葉にも返事を返さない。


 というか、心なしか寝息が聞こえてくるような……。


『んっ? お主まさか、酒を飲んだのか?! お主は酒に弱いのに、いったい何をしとるか』


 どうも黒狐さんの様子がおかしいので、白狐さんが鼻をヒクヒクさせて確認していた。

 そしてお酒の匂いを嗅ぎ取ったらしく、黒狐さんに厳しく注意をしてくるけれど、やっぱり黒狐さんは反応が無い。


 いや、良く見ると寝ていますね……寝息が聞こえていたのは気のせいじゃなかったよ。


『やれやれ、酔い潰れたのか……しょうがない奴じゃ』


 白狐さんは呆れた様子で近づくと、僕と黒狐さんを引き離してくれた。


 助かってホッとはしたけれど、どこか残念な気持ちになっている自分もいて、正直戸惑っちゃってます。

 まさか、力強く抱き締められながらも、僕を気にして労りながらだったから、それで――いや、そんなので篭絡するわけない!


 そうだ、お酒の匂いに充てられた事にしておきます。

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