第21話

 校内に入ると、茫々たる人の海に、思わず顔をしかめた。何人かの生徒はすでに夏休み気分で嬌声を上げ、廊下を駆け回っている。その元気を少しでも分けてくれたらと思うが、余計なものまで寄越してきそうなので、思うだけで十分だ。後ろ向きの思考を続ける限り元気になりうるはずもないと、自覚できるだけまだ救いようがあると、思っておこう。

 下駄箱から上履きを取り出し、松田とともに教室を目指す。顔見知りとすれ違えば挨拶をする、というのが、酷く煩わしいが、社会に出てこそ、そうした一般的とされる範疇のことが重要視される。今のうちに慣れてしまったほうが楽なんだろう。余り知人の多いほうではないが、無理をして、笑顔を振りまく。何かが磨り減るような漠然とした思いが胸中を満たす。しかし何が磨耗しているのか、判別もつかない。わからないなら、気のせいだ。よくも悪くも、見ない振りをする。

 教室に着くなり、中西博美がこちらに気付き、

「おはよー」近付き、「聞いた? 噂になってるんだけどさ」

「何?」

 松田が返答を寄越すと、

「松田くんじゃなくてー」間延びした声を出して上目遣いにこちらを見る。「優に話してんの」

「ああ、俺、邪魔?」

「邪魔!」

 言葉とは裏腹に、楽しそうに笑う。こういうことをストレートに言えることが却って親密さを表現する場面が往々にして存在するが、どうも回りくどい。言外に込められた思考を読み取ることが不可欠で、それは、やはり出来て当たり前なのだとされている。

 松田がほかの級友たちのほうへ去るのを待ってから、彼女は席まで先導するように奥へと進み、鞄を放るのを見届け、

「雪乃、転校するんだって」

 自分は前の席の背凭れの部分に寄りかかった。

「へー」

「へーって何よ。寂しくないの?」

 言われ、どうしてたったそれだけの相槌で済ませたのか、遅れて、違和感を覚えた。

 木村雪乃は、クラスの中で特別に目立つわけではない。しかし、昨年から同じクラスで、音楽や映画の趣味が合致していることを知ってからは、時折話し掛けに行く程度には仲の良い相手のはずだった。

 それなのに、どうして自分は今、何の感情もなく、ひとつきりの返事で会話を終わらせたのだろうか。

 考えてみるが、答えが出てこなかった。自分の中での違和感だからと言って、自分の中で全てを解決できるわけではない。

「寂しいよ」

「変なの」

 教室の中に、当の木村雪乃の姿はない。

「今日は変なんだ、朝から」

「どうしたの? なんかあった?」

「うーん」口にするのは気恥ずかしかったが、「嫌な夢を見た」

「夢?」

「詳しくは覚えていないんだけど、なんかこう、おえーって感じの」

「なにそれ」丸めた手を口元に運び、中に息を吹き込むようにして笑った。「本当に変」

「ね、変なんだよ」

 自分が自分でないような、妙な浮遊感のようなものがあった。

 もしかすると目覚めたときから今この瞬間まで継続して、意識が乖離したままなのかもしれない。不規則に羽ばたく蝶は、人間の身体ひとつで捕まえるのは難しい。自分の飼っている蝶だとしても、だ。そうやって、ふわふわどこかへ旅立ってしまったのかもしれない。

 下らない、幻想だ。

「私はちょっと寂しいなあ」

 思考を遮るようにして中西の声が聞こえてきた。

「寂しいんだ?」

「そりゃ、クラスメイトが転校しちゃうんだよ? 寂しくない?」そう感じるのが当たり前であると、押し付けられているような気がしたのは、ひねくれすぎか。「ま、さすがの優も私が転校したら寂しがってくれるでしょ。それなら別に、今はいいや」

 愛されている、という演劇の中で、彼女はクルクルと踊っている。ただそれは、嘲笑するには美しく、感嘆するには無様に思える、不思議な舞なのだ。彼女のそういう舞台の中の登場人物にされるのが、個人的にはそこまで嫌いではなかった。自分という不確定なものを、誰かに決められるのであれば、そのほうがずっと楽で良い。こうした流されるままの人格は、父親譲りなのだろう。

「博美がどっか行ったら、俺、寂しいよ。毎日毎日電話しちゃうぜ……」

「でも、私、彼氏いるよ……?」身体をくねらせて、「でもでも、優なら……」

 求められた役割を演じるのは、こうした遊戯の中だけではない。

 何事も、早めに支度を済ませるのが、良いのだ。

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