第5話

 終業式の段階になって、木村雪乃が姿を見せた。日ごろ行動をともにしていた何人かの生徒が彼女に駆け寄り、思い思いの言葉を吐いている。誰にも愛されないほど、虚ろでもなかった。

 登壇する面々の、当たり障りないことを婉曲に言いまわす無駄な時間を終え、クラスごとに教室へ戻っていく最中も、木村雪乃は話題の中心で、とうとう、泣き出す女子も出てきた。そうされることは、彼女にとって、酷く優越に浸れることだろう、と思うのは、ひねくれているだろうか。誰かに惜しまれこの場を去っても、彼女を迎える新たな場が温もりを持っているかは、保障されない。今、この瞬間を、素直に喜べる心を、彼女が持っているといい。

 成績表が渡され、しばらく、意識はそちらに逸れたものの、

「それじゃあ最後に」

 担任のその一言と、目配せで木村雪乃は席を立ち、教壇に立った。そこから、全ての視線を集めるのは、教師でもなかなか難しい。彼女には今それが出来ている。目立とうと、目立たなかろうと、愛されようと、愛されなかろうと、こういうとき、人は注目を集めることが出来る。よっぽどの馬鹿や愚者に囲まれて居ない限りは。

「えっと……」

 改まって顔見知りにひとつ上の場所から話をすると言うのは、気恥ずかしさがある。しきりに頬に手を触れる彼女が今何を考え、これから何を言おうとしているのか、それは絶対的に期待され、ゆえに、切り口が難しい。気恥ずかしさと同時に去来するのは、その期待に対する苦手意識と言ったところか。

「親の仕事の都合で、急だけど、転校することになってしまいました」そして急に赤の他人になってしまったかのような言葉遣いへ、変わってしまう。「私はこの学校が好きだったし、みんなのことも好きだったから、ここで、みんなと、卒業したかったけど、えっと、その……」

 遅れて、思い出と、悲しみが彼女を包んだ。それが、さなぎへの変態であるならば、この上なく素晴らしい。

 言葉が続かなくなった。啜り泣きが点々と生まれる。

「がんばれよ」

 前の席から、言葉が飛んだ。

「がんばれ」

「大丈夫」

「ゆっくりでいいよ」

 啜り泣きに混じり、やさしさが、点々と、生まれる。

 幸福。幸福と言っていいだろう。いつか忘れるのだとしても、今、これは、美しいと表現すべき事象だ。

 結局、箱だなんだと思い込んでしまう哀れな人間は、それに同調できないのだが。

「みんなのこと、忘れません。今まで本当に、ありがとう」

 つかえながら、ついには嗚咽を漏らし、木村雪乃は崩れるように座り込んでしまった。数人がそこへ駆け寄る。演劇チックな遊戯に興じることは出来るのに、この三文芝居のような演出には、どこか俯瞰してしまう自分が、どうも、かわいそうに思えてきた。

 木村雪乃が席に戻る前に、彼女と親しかった女生徒により色紙の贈呈が行われ、わけもわからないまま手を鳴らし、簡素なお別れ会はお開きとなった。

「それじゃあ夏休み、無事故でよろしく。木村も、次のところでも健康のまま、がんばってな」

 さらに簡素な言葉で、担任が場を締めると、教室はざわめき、木村雪乃と最後の会話を交わすもの、早々に帰宅するもの、散り散りになった。

 思い出のなかったらしい浅羽も、思い出がなかったからこそか、木村雪乃のもとへ近寄っていった。

 なんとなく、帰りにくい雰囲気があった。いっそ流れで辞去していれば良かったと思えるほど、タイミングがなかった。次第に部活へ向かうものたちも現れ、半数ほどは教室を出て行ったが、依然取り残されてしまい、結局、木村雪乃を囲む有象無象のひとりとなる。

 あらかた「寂しい」「がんばって」などは言い終えたらしく、世間話と言って相違ない程度の話題を弄んでいるようだった。今の世の中、メールも電話も手軽に出来る。都内と言えば、ここから一時間半くらいのもので、休日であれば、簡単に会えると言っても良かった。逆に、今執着して言葉を交わしている人間こそ、そうして休みを潰して会うつもりなどないと言っているような気もして、途端に、居心地の悪さを覚える。どうも朝から、思考が停滞気味だった。

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