#5
さてそれではこの錠剤がご所望ですか?:現代ドラマ
【プラシーボ】 【愛しき悪夢】 【インスタント】 【最低限文化的な】
その青年は一つ、珠のようなため息を吐き出した。
「本当にこんなものが効くのかねぇ……」
暗く狭い四畳間で小さな窓から降り注ぐ淡い月明かりにオレンジ色のカプセル剤を照らす。
真暗い部屋へと差し込まれるやわらかさはほのかな安心感と、それから少しばかりの恐怖を垂らしていた。
彼が手にしているのは或る友人から送られたものだった。それは彼が今現在の最低限文化的なという枕詞にやや物足りない現状の生活を一変させるのに余りあるものだという。
それ以上のことは教えてくれはしなかった。ただ一応、その薬が人体に害があるようなものでも、中毒性や依存性があるものでもない、ということだけは確約してくれていた。
つまりこの薬を飲むことに対してリスクは殆ど発生することがない、らしい。
それでも彼は懐疑的だった。
まず第一にその友人――古い友人だもう十年来の仲にはなる――の昔からの口癖が『結局薬に頼るような状態ってのはそれが既にダメな証なんだよな』であることがあげられる。そんな当人が渡してくる薬を信じて飲み干すなど、そんなことをしても良いのかどうかそれが甚だ疑問であった。
第二にこれは彼自身の体質に大きく由来する事柄なのだが――彼は所謂、世間でいうところの特異体質という奴であり、酷く、本当に酷く薬が効きづらいのだ。いや、薬だけではない毒さえ彼には効き難い。そうと知らずに食べてしまった毒キノコがもとで友人たちがバッタバッタと倒れて救急車で搬送される中彼ひとりだけは何事もなかったようにその姿を見送る羽目になったこともあるほどだ。その際一応自分も同じものを食べているのだから何事もないはずもないだろうと、救急車の空き隅へと膝を丸めて座り込んで搬送されたものの病院で診断された結果は『良好』の二文字であった。この時の彼の心境たるや、一人ぼっちの暗い暗い水底のような孤独感であった。
ここまでの見解でさえ彼が薬を飲むことを躊躇することがいかに決定的かという、ともすればいかに飲んだところで効果を得られるという確証がないということを立証しているのは明白なのだが、もう一つ第三の理由があるのだ。
第三の理由、それはこの薬はどうやら彼のような薬効や毒に対して強い抵抗力を持ったに人間にこそ強く発揮されるらしいという友人の言だった。
嘘も百回も吐けば真実になるとはよく言ったものだが、それにしたって彼にとっては懐疑的なものであった。
「まぁ、効こうが効くまいが、それはどうでもいいことでもあるか……」
薬を飲んでどうなろうが結局のところ彼にはあまり関心がなかった。
もう失うべきものなど何もない、何一つだって在りはしないのだった。いや違う、彼は初めからそう、初めっから何一つだって持ち合わせてなどいなかった。
なんとなく、色々な人の助けを受けてこれまで生かされ続けて来た。けれどそろそろ潮時なのかもしれないと、そんな風に考えている矢先の出来事であったのだ。
当たるも八卦当たらぬも八卦。
迷うというよりはぐずぐずと躊躇うといった調子だった。
それを飲む理由もあって、機会もあって、現物だって手元にある。もう一つほしいものがあるとすれば、それは恐らく踏ん切りという奴だろう。
だが生憎と彼にそれを運んでくれるような女神などいない。しいて言うのならば薬を彼に手渡した友人こそがそれに該当するはずだ。
小さな窓をすり抜けるように過行く月の動きを一刻ほども眺め、思案した青年はぼぅとした胡乱なる瞳を動かして、それからゆっくりと、しかし確かな手つきでもって握りこむ。
それからその小さなカプセル錠を口へと銜え込み、のっそりと立ち上がって流しへと向かう。
小さなコップを取り出してそこに一口分よりも少し多めに水を溜める。
それからまた小さな窓へと寄って行って、今度は窓を開けてサッシへと腰を下ろす。
その角度からは月がよく視えた。
乾いた空気と輝く白い月は深い夜闇にくっきりとした陰影を作り出して強調する。
その月は半月でもなく、かといって三日月でもない。あまりにも中途半端な形をしていた。なのに彼はその月を美しいなとそう感じることができた。
そう、彼は知っていた。
月とは例えそれがどんな形であったとしても美しいということを。
ぼんやりとした面持ちで咥えていた薬を唇の内側へと放り込んで、コップへとやわらかいその器官を押し当て水を流し込む。
ごくりっ、と喉仏が音を立てた。
彼の喉の内側を粒のようなカプセルが水とともにすぅと流れていく。
「さて、効果が出るまでには七、八分って言ってたな……」
彼はそれからまた月を眺める。
相も変わらず美しい月を、まばらな星を、香るような漆黒を、その視界に映す。
仄かにぼんやりとした味わいが全身を駆け巡っていた。
それは彼にとって初めての感覚だった。いや、多くの人たちでさえ感じたことのないものだろう。
とろんと瞬発的に瞼が重くなる。
ぐらりと肩口が揺れて、それから彼は少しばかり考えた。
もしこれが薬の効果なのだしたら、それはとてもすごい効果なのだろう、と。
水紋か波紋か、はたまた電信か。ただそれは確かに何かを伝っていった。
それは彼にとって懐かしい記憶だった。或いは輝かしい記憶でもあったかもしれない。
栄光などもとより持ち合わせてなどいはしないがそれでも恐らく今よりは少し、ほんの少しだけでもマシな頃の記憶には違いなかった。
父がいて、母がいて、弟がいて、姉がいる。皆が皆、楽しそうに笑っていた。そこには彼もまた、いた。
ただそれだけだった。まるで夢のようだった。
もうありもしない泡沫の悪夢。愛しい過去の残滓のような、否定しがたい宵闇の悪夢。
この後で彼は一度死んだ。
それは心中だった。事業に失敗した父が抱えた借金は膨大で、だからもうそうするしかなかったんだそうだ。
彼はそれを頭ではよくわかっていたし、今でも恨みなどありはしない。
だからといってすべてを許すことができるかといえばそれはそれで難しい問題だった。
答えなどとっくの昔に出したもので、だけれど結局明確なそれを彼は抱えることなどできはしなかったのだから。
許すこともできず、かといって憎むことさえできない。
宙ぶらりんな感情は行き場をなくしてぐるぐると彼の心の中で煮え立ち煮詰まって、其れは恰も熱湯でほぐれるインスタント食品のようだった。
結局、彼は彼の原点はそこにこそ回帰する。
どうしようもない過去の出来事に彼はずぅとずぅと縛られ続けてきたのだ。
「痛ツツ……」
日が昇って、太陽のまぶしさに直撃された彼はその温かさで目が覚めた。
頭痛が酷かった。だが、意識は割合にはっきりとしていた。
なんだか清々しい心持になっているかのようだった。
頭痛が有るにせよ彼にとって今日という日は何かクリアで大切な一日なのかもしれない。
ただ一つ疑問があるとすれば、それは――
「あの薬、本当に何だったんだ……?」
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