#4

揺れる天秤揺蕩う記憶:現代アクション

【ロールシャッハ】 【揺れる天秤】 【貧者の一灯】 【焦がれた日々】


≪何を拾って何を捨てるか、選ぶのは善人よしひと君、君自身だよ≫

 

 もう十年も前の血みどろの記憶の中で姉さんはいつだって微笑んでいた。

 僕は七歳で、姉さんは十一歳。父さんも母さんもその日までは生きていた。

 その日、姉さんに殺されるまでは確かに生きていた。

 今でもありありと覚えている。その日人が大勢死んだ。

 違う、間違っている。その日姉さんが大勢殺したんだ、人は勝手には死なない。

 何があったのかはありありと覚えている。ケド、どうしてそうなったのかは、さっぱりと理解できていなかった。

 十年経った今でさえ、あの時実際に何が起きたのか、その原因は解明できていなかった。

 ただ確実なのはあの日、十一歳になったばかりの姉さんはたった一人で市民プールに遊びに来ていた百数人を皆殺しにしたってことだけ。

 僕はその光景を本当によく覚えている。

 酷いニオイだった。子供用の小さな十メートルプールが人血で真っ赤に満たされていて、そこにはプカプカと力ない肢体を泳がせた死体が浮いていた。

 僕はその真ん中に立ち尽くして楽しそうに笑う十一歳の姉さんを不思議そうに眺めていた。よく覚えている。

 不思議と怖くはなかった。ただ、ドロリと生暖かくて、それでいて鉄錆臭くて、一言でいうと腐った泥人形のようなその惨状に酷く興奮していたのを覚えている。

 当時は何も感じなかったみたいだ。ケド、それはやっぱり酷く強烈な思い出である。明確に鮮明に、それを思い出せば、今の僕は激烈な吐き気を催してしまう。

 だけど僕はそれを思い出し続ける。いや違う。忘れることが出来ないんだ。あの日のショックで僕は記憶を、視界を、声を、ニオイを感触を、忘れることが出来なくなった。

 強烈なトラウマが僕のことを完全記憶能力者へと作り変えてしまったらしい。

 変わったことはそれだけではない。

 ケド、当時の僕にはあまり関係のないことだった。

 ただ、なんで姉さんがそんなことをしたのか、それだけがわからなかった。

 

「ねぇ善人。善人ってば……!」


 僕はぼんやりと当時のことを考えていたかったのだけど、僕のことを呼ぶこの声だけには逆らえなかった。


「どうしたの未火みほ?」

「どうしたのじゃないわよ! 夏よ! 今は夏なのよ! 海とは言わないけど、せめてプールくらい行きたいじゃない!」


 谷串たにくし未火みほ。十年前から三十四センチも身長が伸びた僕の幼馴染だ。おっぱいも大きく育っている。僕の目測によると九十センチ超えてる。


「プール。プールかぁ」


 まるでぐっとタイミングだった。少し補足すると未火に他意や悪気は一切ない。

 だって、未火は知らないから……。僕があの日から完全記憶能力者になったことも、プールに多大なトラウマ感を抱いていることも。

 だから未火は悪くない。

 別に僕も悪くない。


「うん、いいよ。行こうかプール」


 僕の言葉に未火は嬉しそうに飛び跳ねてガッツポーズを作っていた。

 

 やってきた市民プールは記憶にあるものと全く違っていた。それもそのはずだ、流石にあんな事件があったプールを開放し続けたところで利用客など来るはずもない。

 だから僕たちがやってきたのは十年前の事件の後、七年ほど前に新設された市民プールなのだ。

 あの時のプールよりもずっと広い。遊具もたくさんあるし、ウォータースライダーもプールそのものも充実している。

 当然人だってたくさんいる。

 あぁ、あの記憶が蘇ってくる。スゴイなぁ、吐き気がする。


「ねぇ、どこから回りましょうか? やっぱりウォータースライダーかしらね! それともあっちの流れるプールにしようかしら!」


 派手な真っ赤な水着を着てはしゃぎまわっている未火を見ていると僕はどうしようもなくつまらないことが気になった。


「あのさ、どうでもいいんだけど、そんなに胸揺らして痛くないの?」

「なによぉっ、変態!」


 グーで殴られた。痛い。

 さて、どうしたものかな。やっぱり行くべきなのは……。


「とりあえず子供用の浅いプールに行ってみない?」

「えぇ? なんでそんなところに? 満足に泳げなくない?」

「うーんちょっと行ってみたいってだけじゃダメ? どうしても理由づけするとしたら……、そうだね、君のエロいおっぱいを少年たちに見せつけて性の目覚めを促してあげたいとかそんな理由でいいよ」

「~~~~~! 変態っ!」


 まぁ何を言ってみたところで結局未火は僕に付き合ってくれる心優しい幼馴染なんだ。


「で、なんでここを見たかった訳?」

「未火はさ、僕に姉さんがいたこと覚えてる?」

「えっ? あんたは昔から一人っ子で、早くに両親を亡くして今はおじいちゃんたちと一緒に暮らしてるじゃない? お姉さんなんていないでしょ」


 何をおかしなことを言っているのか、という表情で呆れられた。

 そう、百人以上を手に掛けた世紀の人殺しは世間的には存在しなかったことになっている。

 姉さんを記憶しているのは僕だけだ。理由は分からない。ただ僕だけが姉さんが存在していたことを知っている。人を殺していたことを知っている。


「確かめたいことも済んだし、遊びに行こうか。やっぱり流れるプールで君の水着が流されることを期待したいな」

「変態! 何なの!? そんなに私の胸が気になるの!?」


 顔を真っ赤にした未火がおかしくて、僕は真顔で言葉を返したくなった。


「気になる。すごく気になるよ。そんなに大きい胸を気にしない男のほうがおかしいよ。むしろ見せて」


 未火が耳まで真っ赤になった。頭から煙が出てきそうだ。


 そして――

「最低ッ、変ッ態!」


 グーで思いきり殴られた。その際にブルンブルンと揺れていたおっぱいを僕は見逃さなかった。

 直後に、僕の耳を慣れない高周波数が突き抜けていった。

 いわゆる叫び声というものだ。

 つんざくような悲鳴に、怒気を孕んだ罵詈雑言。

 阿鼻叫喚の放つ異様な熱気は夏のプールに似つかわしくない異常さを発揮していた。


「えぇ……? いったい何が起きているの……? ねぇ善人、私たちも逃げたほうがいいんじゃ……」


 困惑した未火をよそに、僕はもう自分の行動を決めていた。

 いや違う。僕はこれが起きるということを待っていたのだ。焦がれていた。

 そして何より、知っていたんだ。こんなことがもう一度僕の前で起こるということを。


「未火、行ってみよう」

 

 僕は、困惑して若干涙を浮かべている未火の手を強引に引っ張って雪崩のような人ゴミを逆走していく。


「ねぇ! 善人っ、善人ってば! 危ないって、絶対に何かあるもん! いかないほうがいいよ!」


 手を振って抵抗しようとする未火だったケド、僕のほうが力が強い。何より結局未火は僕に本気で逆らったりはしないんだ。


「未火。黙ってついてきて」


 僕は目的にへと突き進む。

 

 そして、やってきた。

 ウォータースライダーの真ん前、ビーチのような形になった波打つプールのある一帯だ。


「うそっ……、なに、……コレ……?」


 未火は目を剥いて震えていた。

 普通の人の感覚ならば当然だ。

 目の前に広がるのは真っ赤に染まったプールと、それから血と血と血と血と肉と肉と骨と骨。

 明らかに異常な事態だった。

 そしてその異常さは僕の予感したものと寸分たりとも違わなかった。

 地を濡らす血はまるでロールシャッハテストに用いるインク絵のようにじわりとシンメトリーに広がっている。

 そしてその中央に、僕がこの十年間焦がれ続けていたその人が冷笑を浮かべて佇んでいた。


「久しぶりだね姉さん」

「うん、久しぶり、本当に久しぶりだね善人君」


 まるで年を取っていない。十年前の十一歳の姿のままで、頭から血を被った姉さんはうっとりと微笑みを返してくれた。


「善人君はちゃんと決めた?」


 甘い声で姉さんがささやく。


「善人……?」


 怯えた未火が震えながら僕の腕を掴んで、手を握る。震えていた。それはそうだろう、これはどうあがいても怖いだろうから。

 だから僕は、迷わずに未火の手を引いて――、

 姉さんが人を殺すのと同じ要領で未火の命を刈り取った。

 だくだくと血糊が床を濡らしていく。その赤は美しかった。命の赤で、終わりの赤。そして何より、僕の赤だ。

 血が滴りニオイが香る。甘美な悪臭で、芳醇な死臭だった。てらてらと光を反射し光沢を返す血だまりは美しくて、美しくて、何より興奮させられる。

 確かどこかのヒーローは悪を倒すことにかけては絶対に妥協しないはずだった。どんな手を使っても悪を倒すと誓っていたはずだった。

 ならば僕もそれに倣おうと思う。

 断じて、これは断じて僕の快楽のためなんかじゃない。


「決めたよ姉さん。姉さんが多くの人の命を吸って力を得る長者の万灯なら、僕はたった一人一番大事な未火の命で貧者の一灯を灯す」


 鬼還おにがえり。それが僕と姉さんに起こった現象の名前だった。

 人を殺してその命を以てしてまた人を殺す。

 近い人ほど、強い力になる。


「僕も迷ったんだ。だけどね、姉さんをこのまま野放しにはしておけないでしょ? だから人と鬼との間に揺れる僕という天秤を無理やりに傾けさせてもらったよ」

「よくできました。善人君」

 


 ことの顛末を語るのは野暮かもしれないから、小さなゴシップ誌の記事の切り抜きだけを紹介させてもらおうかな。

 大見出しは『凄惨、プールで起きた惨殺事故』で、

 小見出しは『三百人が命を落とした事故の原因は一体何だったのか』だ。

 結末はそうだね、僕がこうして語り部を継続している点を鑑みて察してもらえると助かるかな。

 それじゃあ、またどこかで会える日を楽しみにしているよ。


 惨

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