町と海


 ミルイ岬から西へ少し下ったところに、コレオンと呼ばれる町がある。サーロン海に臨む小さな港町で、約半数が漁師の家、残りの半数が農家だ。海の恵みと陸の小麦や家畜で、ほぼ自給自足の生活をしている。

 ユアンはそこで、子供たちに魔法以外の学問を教えていた。

 最初はイーアの容姿を怖がる生徒がほとんどだったが、少女の明るい性格のお陰かすぐ打ち解けた。

「ユアンせんせー、イーアってせんせーの彼女~?」

「いつ結婚するの~?」

 などと言ってユアンを困らせたが、その内イーアと先生の結婚反対派も現れた。

 そして、新参者の噂は子供から大人へと広がる。

 片腕の若い先生の話は誰もが聞いていたし、新しく生徒に加わった少女の事も、すぐ小さな町に広まった。金髪に青い目で喋らないとなれば、尚更話の種になる。町の外から来たという点で、二人とも珍しがられていた。

「ほれ、またあの二人が一緒に歩いてるよ」

「仲が良いねえ。あの子が来てから、ユアンも少し明るくなったんじゃないかい?」

「町に来た頃は怖いくらいだったから、いい事さね」

 しかし当の二人は噂など知らず、のんびり市場を回っている。学舎帰りの市場散策が最近の日課だ。

 大通りに並ぶ店には様々な物が置いてある。宙に浮かぶ水球の中では今朝取れた魚が泳ぎ、八百屋の軒先ではくるくる野菜が踊る。通行人の足元では、子供が鶏と追いかけっこをしていた。

 イーアがふと雑貨屋の前で足を止めた。棚の上で太陽に照らされる装飾品が気になったからだ。水の中と陸とでは、飾り一つ取っても全然違う。

「君は髪飾りを持っていないから、一つ買って帰りましょう」

 ユアンが提案すると、少女は碧い目を輝かせた。嬉しそうに青年を見上げ、さっそく商品を手に取る。

「お、お嬢さんお目が高いね」

 すぐに店の主人が商売に来た。

「そいつぁエノア浜でとれた珊瑚を加工したモンだ。細かい彫んとこに、職人の腕が出てるな。ってまあ、俺なんだけどよ」

 イーアは声無くクスクス笑った。客と店主のこうした駆け引きも、人魚の里では珍しい。

「でも、イーアにはこちらの方が似合いますよ」

 ユアンが赤い花のかんざしを見せる。 

「お、お兄さんも分かってるね。それはウチのばあちゃんが、枯れない魔法をかけたやつだ。柄は質素だが、逆に花飾りが豪華に見えるだろ?」

 海の底に無い大きな花は、イーアの目にはとても鮮やかに映る。

 彼女が気に入った事を確認すると、ユアンはすぐにそれを買った。代金を支払い、少女の髪に花を挿す。簪は金の長髪に映え、イーアの髪色や目の碧さを一層引き立てていた。

「やっぱり。よく似合いますよ」

 ユアンが言うと、少女は頬を赤らめてうつむいた。人魚の男にも、そんな言葉を言われた事はなかった。

 イーアはこの簪を気に入り、毎日のように身に着けるようになった。最初は髪を結うのに苦労していたが、町の女子に習ってからはすっかり流行に乗っている。

初夏に突然やって来た不思議な少女は、もう完全に町娘となっていた。近頃は一人で外出し、他の娘たちと遊んだり買い物をしたりする。

しかし、彼女はユアンと居る時が一番楽しかった。元々寡黙な彼は自分から喋ることが少ないので、時々浜で人魚の姿に戻り言葉を交わしていた。

「ねえ、ユアンは海で泳いだりしないの?」

「しないんじゃなく、できないんです。自分は内地の出身なので、泳ぎを習ったことが無いんですよ」

「内地?」

 海から遠い陸の事だとは知っていたが、人魚の少女には一面の陸地など想像できない。

「薄汚れた所です」

 ユアンは自分の故郷に対し、それだけ言った。

 まただ、とイーアは内心で思う。彼は時々、今のように暗い顔で沈黙することがあった。内地と関係があるのだろうが、彼は何も語らないので本当の事は分からない。ただ、彼女はユアンの沈んだ表情を良しと思えなかった。

「私が教えるわ!」

 イーアはわざと明るく言って、青年の手を引いた。

「私が泳ぎを教えてあげる。一緒に海の中を泳ぎ回れれば、きっと楽しいし」

「で、でも……」

 ユアンは岩から腰を上げようとしない。

「人間は、水中では呼吸出来ないんですよ」

 水とは生活で使う道具や飲料であり、入って泳ぐ物ではない。

たじろいでいると、突然柔らかい物で唇を塞がれた。

驚くユアンの前で、イーアが笑う。

「私たちの持ってる魔法の一つよ。人魚にキスされた人間は、海の中でも息が出来るようになるの」

「な……えっ……い、今の……」

「さ、行きましょ!」

 ユアンは赤面する間もなく、混乱した頭のまま海に引き込まれた。水しぶきの音を感じながら目をつぶる。日光で火照った体に、冷たい海の水が沁みた。

「ユアン、大丈夫よ。目を開けて」

 イーアの声がいつもより響いている。青年が恐るおそる目を開くと、イーアが笑っていた。

「どう? 息が出来るでしょう」

 言われてみると、確かに息苦しさは一切感じない。ユアンはとりあえず一安心して辺りを見回した。

 初めての海中は、透明な光で溢れていた。

頭上から差し込む夏の日差しが水面に揺らめき、色とりどりの魚が二人の周りを泳ぎ回る。足元の岩場では、イソギンチャクや海藻が波に揺れていた。

 二人の周りでは透明な水が、遠く離れるにつれ青い色を持ってゆく。透き通った海はどこまでも青く、しかしその透明さを失うことなく、どこまでもどこまでも広がっていた。

「これが海……」

 ユアンは感嘆の声を漏らす。彼は、これ程に美しい景色を見たことが無かった。

 透明な世界に二人きりで遊泳の練習をする。物覚えの良いユアンは、一刻も経たず自由に泳ぎ回れるようになった。

「少し散歩しましょうよ。見せたい物があるの」

 イーアは白い尾びれを揺らして青年の手を引いた。青い海の中、彼女の金髪は艶めき白い鱗は光を反射して輝く。優雅に泳いで行く姿は息をのむほどに美しい。

二人は手を繋いで珊瑚の森の上を進む。食卓で見た魚に交ざって泳ぐのは何やら不思議な気分だが、夏の海は凛として心地良かった。

イーアは苔むした岩場の上で尾を止める。

「ここよ。この間、一人で来た時に見つけたの」

 一見するとただの岩場だったが、ユアンは目を凝らしてみて驚愕した。

「これは、九八式艦上攻撃機……?」

 砂から突き出す岩々の隙間に、いくつもの戦闘機が沈んでいた。翼のもがれた物、プロペラのない物、原形をとどめていない塊もある。

 全て錆付き、かつて空を飛んだことなど忘れたように眠っている。小魚の群が鉄塊の中を泳いでいった。

「知ってるの?」

「資料を読んだことはあります」

 よく見ると、様々な種類の攻撃機や爆撃機、戦闘機が沈んでいる。かつてここで何があったのか、彼には容易に想像できた。

「二百年以上前、太陽の旗を持つ国と、星空の旗を持つ国が戦いました。これはその時に使われていた兵器です」

 それだけ言うとユアンはまた黙ってしまった。難しい顔をして、何か考えこむ。

「ユアン?」

「帰りましょう。あまり長く海にいると、体が冷えます」

 海から上がり、浜に座ってイーアの尾を乾かす。真水で潮を洗い流し灯台の家へ帰るまで、彼は何も喋らなかった。

「この国は、今も戦争をしています」

 夕方、灯台の光源である光石の点検をしながら、ユアンがぽつりと言った。傍で作業を見ていたイーアは青年を眺める。憂えに満ちた彼の横顔を、橙色の夕陽が照らしていた。

「内地では、今日もたくさんの血が流れ、命が失われたでしょう。子供たちは銃弾や地雷に怯えています。この町にいると想像もつかないでしょうが、今この国では、それが当たり前なんですよ」

 イーアは思わず悲し気な背中に抱き付いた。彼が何を見てきたかは知らないが、平和な岬に居るのだから、辛い事など考えて欲しくなかった。

 それはユアンにも通じたのだろう。節くれだった手が金髪を撫でる。

「すみません。こんな暗い話、聞きたくないですよね」

 少女にやや無理のある笑顔を見せつつ、彼も海辺の平穏に身を任せてみようと思った。

 しかし、ほんの数日後、二人は現実に直面する事となる。

 その日の授業が終わって保護者達が井戸端会議をしていた時、最近町で聞く不穏な噂が話題に上がった。

「内地の戦争がこっちまで来るって、本当かねぇ」

「隣の町には、兵隊が来たらしいわよ」

 近くで片付けをしていたユアンがすぐ反応する。

「その話、詳しく話していただけませんか」

 先生が会議に入って来るなんて珍しいので、奥様方は少し目を丸くした。

「あら、やっぱり先生も気になりますか」

 噂によると、内陸の方で拡大していた戦争が、とうとう国の隅々まで及ぶらしい。人々の統制や物資管理のため、軍人が派遣されている地域もあるようだ。

「何でも、国の偉い人が国民全員で敵を倒すべきだって言ったらしくてね。迷惑だよねえ、この町にだって生活があるのにさ」

 ユアンは驚くと同時に呆れていた。軍の上層部は、どこまで民間人を巻き込むつもりだろう。空爆で失われる命や泣き叫ぶ人々が見えていないのだろうか。もしかしたら、もう戦うことしか考えていないのかもしれない。

 まるで血に飢えた獣ではないか。何か不吉な予感がする。ユアンには、暴走する国の行く先が案じられた。

 噂が流れ始めてから約五日、とうとう港町にも若い二人の兵士が来た。来る者拒まず去る者追わずの慣習がある町なので最初は影響が無いように思われたが、数日もしない内に、町の空気が変わり始めた。

軍人たちは町の住民と打ち解けようとせず、自分らが町の支配者であるかのように振舞った。店の商品を奪い、人々を脅し、気に入らない事があると軍刀を振り回す。町から大きな笑い声や走り回る子供が消えるのに、そう時間はかからなかった。

十日振りに町へ来たユアンとイーアは、その変わりように驚嘆する。市場にも活気がなく、商店は出ているのに売り込みの声は聞こえなかった。

「一体、何があったんでしょうか」

 二人が首を傾げつつ石畳を歩いていくと、レイア通りを曲がった所で、怒ったような声が聞こえた。ある店の前に人だかりが出来ている。どうやらまた兵士たちが店に手を出したようだ。

「おいジジイ聞いてんのかよ」

「この店の酒、俺らが全部徴収するって言ってるだろ」

「徴収だぁ? お主等にやる酒なぞ、一滴も無いわい」

 軍服の男二人が酒屋の主人に詰め寄る。小柄な主人は酒樽を抱え、相手を睨んでいる。群衆はそれを遠巻きに眺め、ひそひそと言葉を交わしていた。

「ったく、頑固なジジイだぜ」

 片方の兵士が軍刀を抜いた。息をのむ音がして、人の群れが一歩下がる。

 もう一人も抜刀し、銀色の刃を主人に向けた。

「大人しく店中の酒をよこせ!」

「断る!」

 兵士が刀を振りかぶった。主人は身を竦め、人々は目を閉じる。

しかし、惨事は起きなかった。振り下ろしかけた腕が、何者かに掴まれている。

「そこまでにして頂けませんか」

 野太い腕を止めたのはユアンだった。

「何だお前」

「通りすがりの灯台守です」

 酒屋との会話を遮られたことが気に食わなかったのか、兵士二人は標的を青年に変える。

「俺らの邪魔するなんて、いい度胸じゃねえか」

「ジジイを助けたつもりか?」

「ええまあ。ご主人のリル酒は自分も気に入っているので、徴収されると困ります」

 ユアンは鬼のような形相の兵士たちに対し、笑顔を向けた。

「争い事はよくありません。穏便に解決しましょう」

「うるせえ!」

「生意気な!」

 兵士たちはユアンに斬りかかった。悲鳴が上がる。しかし、またも惨事にはならなかった。

ユアンは軽やかに斬撃を避け、敵の背後を取る。

「軍刀を振り回したら、危ないですよ」

二人の兵士は忠告を聞かず何度も攻撃を繰り出すが、彼は涼しい顔でその全てをかわした。

「……お前、何なんだ?」

 片方の兵士が剣を下ろし、改めて訊いた。その顔からは余裕が消えている。一介の町人が、鍛錬を積んだ軍人に対抗できるはずが無いのだ。

「だから、通りすがりの灯台守ですよ」

 ユアンはあくまで笑顔を崩さない。それが兵士たちには不気味なのだろう。

 その時、先刻より大きくなった群衆の中から声がした。

「頑張れ、ユアン先生!」

まだ高い少年の声だ。彼の生徒の一人らしい。心からの応援だったのだろうが、名を呼ばれたユアンの顔がひきつった。

「ユアン? 聞いた事あるぞ」

 兵士の一人が首を傾げ、もう一人がにたりと笑う。

「ノナ・ユアン上等兵」

 名を呼ばれた青年は笑顔を消した。ふと瞳に暗い光が宿る。知人が見たら、町に来た頃の彼だと言うだろう。

「こんな所に居たのか」

「あんたなら、俺たちの邪魔もするよなあ」

 彼を知っているらしい二人は、侮蔑の混ざった視線を本人に向ける。

「施設出身の優等生様が、なんでこんな田舎に居るんだぁ?」

「まあ、腰抜けにはお似合いじゃないか? 敵に片腕を取られたせいで怖気づいちまって、前線を離れたって噂だぜ」

「けっ、上等兵が聞いて呆れらあ」

 ユアンは何も言わないが、彼女は黙っていなかった。

 ぱん、と乾いた音が市場に響く。立腹したイーアが兵士を睨み付けていた。

「軍人に手を上げるなんて、いい度胸じゃねえか」

「お前、妙な髪をしているな。間者か? 取り調べしてやろう」

 野太い腕がイーアに触れたとたん、ユアンが動いた。

 片方の兵士を地に倒して踏みつけ、軍刀を奪う。もう一人が反応するより早くその喉元に切っ先を突き付けた。

「良かった。片腕さえあれば、まだ人を殺せる」

 低い声でそう告げるユアンに、普段の温厚さは無い。

「帝都に帰って伝えてください。この町には上等兵が駐在しているため、兵はいらないと」

 蛇に睨まれた蛙は、黙って敵に従うしかない。ユアンは二人の兵士がコクコクと頷くのを確認し、イーアの手を引いて市場を離れた。

 町を出てから半刻、二人は初めて出会った場所に並んで座っていた。イーアの脚は水に濡れ、プリズム色の尾に戻っている。

 盛夏の日差しを浴びる浜は白銀に輝く。陽炎の向こうに揺れるマリンブルーは、白昼夢を張り付けたようだ。優しい海風が二人の頬を撫でていった。

「……あの……」

 ユアンは何か話そうとするが、うまく言葉が出てこない。子供の頃に会話の方法を習う機会が無かったので、今でも自分から何かを話すのは苦手だ。

 結局、先に話を始めたのはイーアの方だった。

「今まで、貴方の事を尋ねたことなんて無かったわね」

 人魚は金の髪を揺らし、ユアンの方へ向き直る。寡黙なこの青年の事を、もっと知りたいと思った。

「ねえ、あなたの事を話して」

 少女の碧い眼に見つめられ、ユアンはやっと言葉を紡ぎだす。

 物心ついた頃から軍事施設に居た事、武器と魔法道具を使えるようになってすぐ戦場に送られ、何年も戦い続けた事、そして友と片腕を無くし前線を退いた事。

「駐屯兵たちが言っていたように、怖気づいたのかもしれません」

 どんな鬼畜が親友を殺したのか脳裏に焼き付けておこうと思い、殺した後武装をはいだ。敵は、まだ十にもならない程の子供だった。ユアンと同じ色の眼に死してなお恐怖を湛え、涙を流していた。

「幼い頃から、敵は情など持たない、抹殺すべき鬼だと教えられて来ました。でも、あの子を見た時、戦う意味が分からなくなったんです」

 今まで殺してきた敵も、自分となんら変わらない人間だと思い知らされた。あの子だって、爆撃や血しぶき、いつやって来るか分からない死に怯えていた過去の自分と、どこが違うのだろう。家族は居たのか、友は居たのか、今までどれだけ恐ろしかったか考えてしまった。

「自分はもう人を殺せないでしょう。ここでのんびり暮らす方が、性にあっているのかもしれません」

 そこまで話し終えると、上等兵はイーアに苦笑を見せた。

「すみません。自分が人殺しで、失望しましたか」

 彼が時折見せる影も沈黙も、これで合点がいった。ユアンは戦場を離れた今も戦争に捕らわれ、苦しんでいる。彼にとって戦場は過去ではなく、ずっと続く「今」なのだろう。

「あなたが謝る事じゃないわ。ずっと必死に生きてきただけよ」

 イーアはそっと自分の神に感謝の言葉を唱え、彼の親友と少年兵の冥福を祈った。

 ふとユアンの顔にいつもの影が差す。

「兵が派遣されてきたという事は、ここももう、平和では無くなるかもしれません」

「どういう意味?」

 ユアンは硬い表情で波間を見つめた。どこまで戦火が拡大しているのか分からないが、国民全員が戦争に巻き込まれるのも、時間の問題だろう。

 青年はイーアに黒い眼を向ける。

「あなたは海へ帰った方がいい」

 この美しい人魚に、辛い思いをさせたくなかった。無垢な瞳のまま、明るい場所で生きて欲しかった。

 イーアは驚いた後、激しく首を振った。

「嫌よ。ずっとここに居たい。それに、あなたと離れて海へ帰ったら、死んでしまうわ」

「え?」

今度はユアンが驚く。

 比喩や戯言ではないようで、イーアは真剣な顔で青年の顔を見つめていた。

「人魚の呪いって、知ってる?」

「いえ、知りません」

 罠として仕掛けられた呪いを破った事は何度もあるが、人魚の物は見たことが無い。

「どんな物ですか」

「人間には、そんなに害は無いんたけど……」

 青年が訊くと、人魚の少女は言いにくそうに、純白の尾びれで煌めく海辺の水を散らした。

「あのね、女の人魚は、初めて触れた人間の男と一年以内に結ばれないと、泡になって消えちゃうの」

「そ、それって……」

 さすがのユアンも目を丸くする。

 イーアは彼の珍しい表情にくすりと笑い、昔話を始めた。

「遠い昔、ある人魚が人間の男に恋して、声と引き換えに脚を手に入れたの。陸に上がって、その人と一緒に居たかったのね」

 人魚はゆっくり尾びれを揺らしながら、美しい声で物語る。

「でもそれは人魚を捨てることだから、海神様はお怒りになったわ。そして呪いをかけたのよ。人間との恋に破れた人魚は死んでしまう呪い。私たちにとって、相手に触れるのは愛してるって証拠だから、初めて触れた人間の男が、その相手なの」

 だから帰れないわ、とイーアは無邪気に笑う。

「ずっと一緒にいてね」

「……」

 その言葉がどれだけ嬉しかったか分からない。ユアンは、この少女とこれからも大切にしていけたらと思った。

 しかし、だからこそ危険な目にあわせるわけにはいかない。

「その呪いを解く方法は無いのですか」

「……あるわ」

「なら、」

「私には無理よ」

 イーアはユアンの言葉を遮った。

「呪いを解くには、千年間月の光を浴びた珊瑚の剣で、相手の心臓を刺さなきゃいけないの」

 海の呪いは面倒だ。ユアンは深い溜息をつく。千年生きた珊瑚なんてめったにないだろうし、彼女に人殺しをさせる訳にもいかない。かと言って、イーアを見殺しにする事も出来ない。

「私が傍にいたら嫌?」

 少女が不安げな声を出す。

「そんな事はありません」

 ユアンはイーアに感謝している。戦地を離れても癒えない傷と、毎日のように見る戦地の悪夢に疲弊しきっていたが、彼女と出会ってから、毎日が楽しかった。ただぼんやりと過ごしていた日々が、生きる価値のある時間のように思えた。

「でも……」

 ふっつり黙り込んだユアンに、とうとうイーアが痺れを切らした。白い尾に叩かれた海水が、ばしゃっと派手な音をたてる。

「もうっ! 私は帰らないし帰れないって言ってるでしょ! 戦争が何よ。そんなの、その時になったら考えればいいじゃない!」

 彼女の勢いに押され、ユアンは砂の上で身を竦める。

「先の事をうだうだ心配したって、何にもならないわ。今は今! 今日の夕食でも考えましょ」

「そ、そうですね」

 イーアの笑顔を見て、ユアンも納得する。彼女なら、辛い現実が押し寄せても立ち向かえる気がした。思えばずっといつ死ぬか分からない環境へ身を置き、一瞬ごとに精一杯生きていた。先のことなど考えることもなかったのだ。

「今日買ってきた魚を焼いて、スープでも作りましょうか」

「野菜も入れてね」

「もちろん」

 波と戯れ、夕食の話で笑いあう。とりあえず今は、これでいい。


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