夏岬異恋物語
橘 泉弥
岬
海から吹き付ける湿った風が、机上の本をめくっていく。温かい日差しは小さな窓から入り込み、狭い部屋を柔らかに照らす。穏やかな潮の香りは、内地の戦火など知らぬようだ。
この部屋に住む青年――ユアンは、ゆっくりと寝台から体を起こした。どうやら布団に寝転んで考え事をしている内に、眠ってしまったらしい。
頭を振って悪夢の切れ端を追い払い、額の汗を拭う。服まで湿らせている冷たい汗は、季節のせいだけではないだろう。
上の階に上がり、この灯台に光を灯す機械と光石の点検をしてから、監視窓の外に広がる海を眺める。灯台から見るサーロン海は、初夏の空よりも青い。相変わらず、海にはいくつか小さな漁船が浮いているだけだった。
異常は無しと判断し、窓辺から離れようとする。その時ふと浜辺に目をやると、岩場に白く煌めくものが見えた。
魚にしては大きく、船にしては小さすぎる。確認の為に浜へ降りてみると、見知らぬ少女が倒れていた。年齢は十六、七歳くらいだろうか。異様なほど白い体躯には何も纏っておらず、金の髪にはヒトデや海藻がくっついている。
ユアンは驚いて数秒立ち尽くした後、慌てて少女に駆け寄った。きちんと呼吸はしているし脈も安定しているものの、その白い肌は海水のようにつめたい。呼びかけても反応がないので、急いで灯台の自室に運び入れた。
少女を寝台に寝かせ、大量に湯を沸かす。熱いお湯で白い手足を温めていると、やがて少女はゆっくりと目を開けた。
その瞳が不思議な色だったので、青年は思わず見入ってしまう。どこまでも澄んだ海の色は、薄いガラスか雫のように、少女の双眸に宿っていた。
見知らぬ場所と怪しい青年に驚いたのか、少女は勢いよく体を起こした。きょろきょろと部屋の中を見回し、自分を見つめる青年に怪訝な顔を向ける。
「貴方は浜辺に倒れていたんです。ご無事で良かった」
ユアンが話しかけるが、少女は何も言わない。ただ、にっこりと笑っただけだ。
少し違和感を覚えたが、青年は続けて訊ねる。
「差支えなければ、なぜあそこで倒れていたのか、教えていただけませんか」
もし岬の管理不十分による事故なら、灯台守が直ちに解決しなければならない。
少女はまた何も言わない。しかし、少女の腹の虫が元気よく返答した。
「成程、きっとそれが一因なんですね」
頬を赤らめて腹を抑える少女に目を細め、ユアンは軽食の用意をする。盆に盛られた蜂蜜のパンと湯気の立つミルクを見て、少女は首を傾げた。
「どうぞ。すぐに用意出来た物はこれだけですが、無いよりはましでしょう」
よほど腹が減っていたのだろう。少女はしばらく出された食事を見ていたが、やがて勢いよく食べ始めた。パンを口いっぱいに頬張り、熱いミルクにむせて慌てる。
「ゆっくり食べてください。パンも山羊乳も、まだありますから」
ユアンが言っても、少女は手と口の動きを止めない。
パン五つとミルク三杯を腹に詰め込んだ後、やっと大きく息をついた。
「お口に合ったみたいで、良かったです」
空腹が一番の原因だったようで、少女はそれから四半刻程休むと、すっかり元気になった。寝台から降り、笑って青年の左腕を引っ張る。
「どうかしましたか」
ユアンが心配しながらついていくと、少女は灯台を出て浜辺へ下りた。そのまま白い砂浜に足跡をつけながら、真っ直ぐ海へ入ろうとする。
「駄目ですよ。まだ回復しきっていないでしょう」
しかし、少女は足を止めない。波の音をじゃぶじゃぶとかき乱しながら、奥へ奥へと歩いていく。
ユアンは少女を止めに行こうと、急いで靴を脱いだ。この辺の岸辺は浅いが、少し先へ入ると急に深くなっているのだ。
彼が海へ入ったところで、前を行く少女が倒れこんだ。慌てて駆け寄り、助け起こそうとして驚嘆する。
少女の下半身が、大きな尾びれに変わっていた。それは滑らかな曲線を描いて波に揺れ、白い鱗は太陽の光を受けてプリズム色に煌めく。
ユアンが灯台から見た物はこれだったのだ。彼は初めて見る人魚の艶やかな美しさに見惚れた。
「あ、あの、助けてくれて、ありがとうございました」
鈴を転がすような声にはっとする。少女は両手を水底について、上半身を起こしていた。
「いきなり部屋を出てごめんなさい。でも、お礼が言いたかったの」
少女は夏の雲のようにふわっと笑う。
「君は……」
ユアンは少女の変化と声が聞けたことに驚いて何も言えない。
「私はイーア。海神セレム様の五番目の息子の妻と同じ名前です」
そう名乗る人魚の女の子は、どこか自慢げだ。
「そ、そうですか……」
この国では聞かない名だが、少女の雰囲気にはよく似合う気がする。異文化の響きは彼女の髪や目の色と混ざり、その魅力を引き立てていた。
「私、群とはぐれたんです。行く当てもなく泳いでたら、いつの間にか倒れちゃったみたい。本当に、ありがとうございました」
イーアにぴょこんと頭を下げられ、ユアンは少し戸惑う。女性からお礼を言われたのは、初めてだった。
「いえ、自分はただ、灯台守としての務めを果たしただけです。お体はもう大丈夫ですか」
「はい。美味しい御飯のお陰です。でも……」
少女は金の髪を揺らし、悲しげに俯く。
「群にはもう帰れません。人魚が海流に飲まれて群から離れるのは、海神様の御心だから。そういう掟なんです」
どうやら人魚という生き物は、人間と異なる信仰を持っているらしい。ユアンは素直に面白いと思った。
顔を上げたイーアは、真剣そうに青年を見上げる
「と、いう訳でですね、しばらくお世話になります」
「……え?」
「家事は得意です!」
敬礼されても困る。灯台には部屋が一つしかないし、人魚と暮らすなど聞いたことがない。
「大丈夫です。人間の食事も作れるようになりますから」
そういう問題でもない。ユアンがどう断ろうか考えていると、少女はまた微笑んだ。
「尻尾は乾けば足になるし、貴方の片腕の代わりには、なれると思います」
「……」
青年の右腕は、肩より先が存在しなかった。一人で暮らせない訳では無いが、正直日々の生活は苦労ばかりだ。
「ね、きっと役に立ちますから」
イーアの笑顔は、多少の問題など吹き飛ばすような明るさを持っている。二人分の食費をどうしようかと考えながら、ユアンも少女に微笑み返した。
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