夫が目覚める時

千里温男

第1話

時夫は今夜も酔ってだらしなくソファーで眠っていた。

ふと目が覚めると、部屋の天井近くに無数の黒い勾玉のようなものが群がって浮かんでいる。

親指くらいの大きさでピクンピクンと小刻みに体を痙攣するように震わせている。

何の虫かわからないが、目も鼻も羽も無いのに、時夫を見下ろしながら次第に降りてくる。

降りるにしたがって数がどんどん増えているように見える。

自分の体に群がって蝕もうとして降りて来るような気がする。

早くも、その連中の一部が肩や腕にもぞもぞと蠢いているような感触がある。

船虫に這い回られているような気味悪さに鳥肌が立つ。

思わず枕にしていたクッションを振り回した。

すると、虫の大群は一瞬で雲散霧消してしまった。

なんだ夢だったのかと気がついた。

それにしても、折角の酔いをすっかり悪酔いにしてしまう不気味で後味の悪い夢だったと憂鬱になった。

立ち上がろうとすると、背中に重苦しい鈍痛を感じた。

背中全体が板になってしまったような不快なこわばり感もある。

仰向けに前後不覚に眠っていたために、背中が圧迫されたからだろうと思った。

膝立ちになってソファーの背もたれの角に指圧の要領で背中を何回か押し付けると、

鈍痛もこわばり感もほとんど消えた。

やれやれと思いながら立ち上がると、今度はみぞおちのあたりに違和感がある。

手で押さえてみると、なんとなく腹が張っているような気がする。

ガスがたまっているせいだろうと思って、少し腹に力を入れて出そうとしたが出なかった。

そうしていると、強い喉の渇きを覚えて、水を飲みたくなった。

ふらふらする頭でキッチンに行き、食器を洗っている妻の喜子に、

「おい、水をくれ」とだみ声で言う。

喜子は、またかというような顔をしてから、冷蔵庫からペットボトルを取り出す。

それにコップを添えて持って来て黙ってテーブルに置く。

そして、黙って離れて行ってしまう。

相変わらず、酔っ払いなど相手にしたくないという、いつもの態度だ。

時夫は、水の一杯くらいついで行けないのか、と言う代わりにわざと舌打ちした。

ペットボトルの水をコップに注いで一気に飲みほした。

乾いた砂に水がしみ込んで行くように喉が潤されていくのが心地よい。

甘露甘露と心の中でつぶやきながら、もう一杯つぐ。

だらしなく口からこぼした水を手の甲でぬぐう。

ちょっと喜子を盗み見る。

食器を洗っている喜子の横顔がなんだか薄笑いを浮かべているように見えてしかたない。

町内の主婦たちとグループを作ってボランティア活動をしていると言うが、

いったい何のボランティアをしているのかわかったものではない。

どうせ女たちは喫茶店かどこかで飲み食いしながら無駄話をして店を繁盛させてやっているに違いない。

最近、近所の喫茶店が改装したが、その費用を助けるボランティアもしたのだろう。

その財源は、つまるところ、夫たちの給料なのだ。

けれど、それを口にだすと、いつかのように面倒なことになるだろう。

今は、それがわからないほど酔っていない。

もう寝ようと、冷蔵庫から酎ハイを取り出して睡眠薬代わりに一気に飲みほした。

そして、また今夜も独りでベッドに横たわった。

ぼんやりと、さっきのあの変な虫の大群も背中の鈍痛もみぞおちの違和感も

寝惚けていたせいに違いないと思っているうちに眠りに落ちて行った。

しかし、同じ幻覚を度々見るようになった。

しかも、幻覚を見るたびに、虫は数を増し、その大群は肉迫して来るのである。

幻覚のはずの虫たちが船虫のように皮膚の上をもぞもぞと這い回るのを感じるのである。

それに、背中の鈍痛とみぞおちあたりの違和感が体の奥で一つにつながって大きなしこりになったような感覚がある。

そのことを喜子に話すと、

「それは飲み過ぎのせいよ、きっと。お酒をやめないと、

ほんとうに命取りになるかも知れないわよ。一度お医者さんに診てもらって」と言う。

「ふん、すぐそう言って酒をやめさせたがる。お前こそ食っちゃ寝していないで、少しは痩せたらどうだ」

「飲まないでと言うと、意地になって飲むのね」と、喜子は大袈裟に肩をすくめて見せる。

時夫は、そんな喜子を横目で睨みながら、

たとえ酒をやめても百年も生きられはしないのだと心の中でうそぶく。

だが、あの奇妙な虫の幻覚も、みぞおちあたりの鈍痛も、アルコールが原因であることは充分ありうる。

二十歳前から飲み始め、定年に近い今日まで飲まなかった日はそう多くは無い。

やはり自分はアルコール依存症かも知れない、酒はやめた方がいいかも知れないと思わないでもない。

やめないまでも、少し量を減らしてみようかと思わないでもない。

そんなある日、冷たい水でも飲もうと思って冷蔵庫を開けると、買い置きしてあるはずのビールが無い。

わけもなくカッとなった。

「おい、ビールはどうした、買っておけと言ったはずだぞ!」

「お酒は、もうやめて。あなたのためを思って、わざと買わなかったの」

「わざとだと、勝手に決めるな。今すぐ買って来い!」

喜子はしぶしぶビールを買いに行った。

時夫は意地になって喜子が買って来たビールを全部飲んでしまった。

それでも腹の虫はおさまらない。

ぐずぐずしている喜子を怒鳴りつけて、今度は日本酒を買いに行かせた。

玄関を出て行く喜子の後ろ姿を見送っていると、なんだかドアを閉めた途端にペロリと舌を出しているような気がしてならない。

家の中ではいかにもぐずぐずしているように見えるけれど、

酒を買いに行く足音が軽やかに聞こえるのは気のせいだろうか。

喜子は酒をやめさせたいのか飲ませたいのか、どうも釈然としない。

しかし結局、時夫は、一旦はやめようか量を減らそうかと思ったことなどすっかり忘れて、

前にもまして飲むようになった。

真面目に働いて来たのに、名前ばかりの係長になれただけだし、

子供はいないし、喜子が自分を鬱陶しく思っていることは間違いなさそうだし、

趣味も無いし、いまさら自己啓発もあるまいし…

飲むことしか憂さ晴らしを思いつかない。

奇妙な虫の幻覚も不快な鈍痛も上司のことも喜子の顔も、飲めばきれいさっぱり消えてしまうのだ。

まさに酒は百薬の長だ。

自分で稼いだ金で飲むのが、なぜ悪い。

喜子に金など遺してやるものか、すっかり飲んでやる、なんなら飲んで借金を遺してやってもいいのだ。

そんな生活を続けていた。

深夜、時夫は、突然、激痛に襲われた。

腹が痛むのか、背中が痛むのか、どこが痛むのか、息もつけない激痛だ。

腹をかかえながら体を二つ折りのようにして、呻き声で喜子に助けを求めた。

喜子が電話している間に、時夫は意識を失った。

緊急手術から1週間経った。

時夫は自分の生命力がすっかり衰えてしまったことに気付かないわけにはいかなかった。

時間はあまり残されていないような…命の危機を感じる。

思い切って、回診に来た主治医の堀田外科部長に自分の病名と病状を尋ねてみた。

医師は、あなたの体調と精神状態が安定してから説明しましょう、と言った。

更に1ヶ月後、時夫は喜子と共に、堀田外科部長の詳しい説明を聞いた。

末期の膵臓癌で腹腔内だけでなく腋窩リンパ節にまで転移しているので有効な治療法が無いと説明された。

「あとどれくらい時間がありますか?」

時夫の問いに堀田外科部長は、あくまで推定ですが、より良い時間を過ごしていただくためにと断りながらも、

「余命は3ヶ月くらいと思われます」と答えた。

その夜、時夫は独りベッドの中で、

もし喜子に渡した給料を全部援助交際に使っていたら、

何人の女子高生と付き合えただろうと、とりとめもなく考えた。

いつの間にか眠っていて、喜子の夢を見た。

夢の中の喜子はテーブルの上に時夫の生命保険証書や定期預金証書や退職金の予想金額のメモなどを並べていた。

それから満足そうに微笑んで、テーブルの上のワイングラスに手をのばした。

ふと、その手を途中でとめると、定期預金証書を1枚テーブルの隅にのけて溜息をついた。

時夫は、夢の中で、たぶん葬式代に使うのだろうと思った。

(おわり)

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