第8話 ふいに目覚める

 水の中にいるような感覚。体にゆったりと絡みついている。不快感はない。ぼんやりとした、半覚醒のような、酩酊感にも似た心地よさがある。今にも眠ってしまいそうなのに、意識ははっきりしていた。夢を、見ているのだと、ぼんやりと実感している。


 こんなところまで誰かが来るなんて、随分と久しぶりだなぁ。ネオン以来かも


 誰かの言葉が混じる。声が聞こえたというわけではない。まるで自分の思考に誰かの意識が入ってきたような感覚。これが別の誰かの意識だとするなら、それは誰のものなのだろう。


 さて、どうだろう。名乗ってもいいのだけど、どうせ覚えていないだろうしね。僕は何でもない。誰でもないし、誰でもある。真理でもあるし、きっと他愛ない回答でもある。結局、僕は今この瞬間でしかないのだからね。


 これは夢だ。けれど、この彼、あるいは彼女は現実の存在だと理解した。それは、理解の及ばない何かへの理解で、目をそらし続けた本物への実感でもある。体が、引き上げられるような、浮かび上がるような心地がする。目が覚めるのだろう。


 おや、もうお別れか。ま、縁があったらまた会うでしょ。きっと、僕らは会うことになるだろうけどね?


 目が覚めた。体が重い。風邪の日の寝起きをずっとひどくしたような気分だ。寝返りを一つ打って、あたりを見渡す。いつもの自分の部屋ではない。病室、というよりも保健室か仮眠室のような、簡素な部屋だ。ベッドの脇のパイプ椅子には、見慣れない、見覚えのある女性が座っていた。目が合う。頬に蜘蛛のフェイスペイントのようなものを施している。口元を釣り上げるようにして笑った。そんな、悪い顔が似合う綺麗な女性だった。


「おはよう」


「お、おはよう、ございます」


 女性は探るような、試すような、あるいは確かめるような視線を向けた。


「ふぅん、上手くいくもんだねぇ」


 ここがどこなのか。彼女は何者なのか、何が起こったのか、問いかけようとすると、それを彼女は手で制した。


「不破、入りなよ」


 仕切り代わりのカーテンがゆっくりと開かれる。


「調子はどうだ?」


 入ってきたのは、少年といってもいい年頃の男だった。気遣うような優し気な声と、ややキツイ目つきにギャップがある。


「えっと、体がちょっと、重い? かな」


「そうか。それで済んだだけ、よかった、のだと思う。殆ど蘇生に近かったからな」


 ああ、そうだ。ぼんやりと、しかし確実に立華は思い出した。鮮烈に、明確に、あの痛みと、熱を。指先が無意識に腹部に触れる。痛みは感じない。


「傷なら塞がってるよ。当然さ、君は一線を一度超えたんだ。余計なことするから、運がなかったのもあるんだろうけど」


「とりあえず、信じられないかもしれないが落ち着いて聞いてほしい。俺は不破契という。君を巻き込んだのは俺だ」


 話は見えてこない。けれど彼が答えを求めていることはわかる。


「ううん、助けてくれて、ありがとう」


 立華は、まだ自分に何が起こったのか、何があったのかがわかってはいなかった。けれど、それでも彼が何とかしようと力を尽くしてくれたことだけは、理解していた。


「不破さんは、ケガとかは……」


「え? あ、あぁ。不破でいい。俺に問題はない、今は君の話をしないとな」


「簡単に教えてあげるよ。君はもう元の日常には戻れないよ」


「……病蜘蛛」


 女性は心底楽しそうな笑顔を浮かべた。不破は苦々しい表情を浮かべ、一瞬だけ女性を睨み付けた。しかしすぐにその視線は力なく足元に落とされる。


「勿論、無かったことにして戻ろうとすることはできるかもね。勿論、その対価は払わせないといけなくなるけど」


 それはきっと、彼女なりの誠意でもあったのだろうと、立華には理解できた。おかしなことが続きすぎて、冷静になっているのか、それとも元からそうだったのかはわからない。けれど、今まで薄っすらと感じてきた疎外感の原因が、きっとこれなのだと第六感が告げる。


「君には恨む権利も憎む権利もあるとは思うよ。君の今までの対価に、ボクらが支払えるものは何もないんだからね」


「それでも、私は、私の気持ちは変わらないです。ありがとう、ございました」


 痛くて、暗くて、寒くなっていく感覚の中で、確かに感じたあの熱を、温もりを与えてくれたのが二人なのだと思えるから。だからこの言葉を贈ることが出来る。


「そっか。ああ、そうだ、君の名前は?」


 不破は俯いてしまっていて表情がうかがえないが、女性は少しだけおかしそうに、けれど嬉しそうにくすりと笑う。


「太刀花立華です」


「約束するよ、立華。たとえどんなことがあったとしても、どんな過ちを犯したとしても、君に後悔だけはさせないって」


 このとき、彼女から向けられた笑顔を、立華は終生忘れることはなかった。少なくともそれだけの価値はあったと、思い続けた。泣きそうなほどに歪んだ不破の表情と共に、胸の奥に焼き付けられた。


「もう少し、休んでおくといい。ひとまず面倒なことはこちらで済ませておくから」


 気持ちを切り替える様に、2度3度と首を振って不破が告げる。瞼が重い。目を開けていられない。それをおかしいと思うけれど、その思考も長くは続けられなかった。意識が、沈む。


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