第7話 魔法が解ける

 薄っすらと、細い三日月が嘲笑うように浮かんでいる。街灯は広い間隔で申し訳程度に淡い光を明滅させている。そのせいか人通りもなかった。


「いやぁ、本当に驚いたよ。まさか本当に二人でやらされるなんてね。普通は支援員なんかがいるものだけど」


 定時連絡用の携帯電話から『病蜘蛛』の明るい声が届く。力尽くの正義計画プロジェクト:オールフォア・ワンの被検体という笑えない経緯を持ちながら、よく笑う人間だった。声だけなら、明るい少女のようだ。彼女のそんなアンバランスな人格を感じるたびに、不破はあの人を思い出してしまう。


「だからお前が居るんだろ」


「あはは、期待してくれるのかな? うれしいなぁ、張り切っちゃおうかな」


 そして、彼女からは時折、歪な子供らしさを感じさせる。もしかすると、力尽くの正義計画プロジェクト:オールフォア・ワンの被験者はそういう育てられ方をしたのだろうか。


「あまり、派手なことは……」


 釘を刺そうとした言葉が止まる。通話状態を保ったまま、携帯電話をポケットに押し込んだ。それは、あまりに異質な存在だった。一目見てそうだとわかる。人間と化け物の境界を生きる適合者ボーダーとして、化け物側へ振れてしまった哀れな人間。世界から浮いて、外れてしまった人外。


「『破滅の加護バッドラック・フォーチューン』だな、死ね」


 警告も、確認も一切なく、不破は能力を行使した。ポケットから携帯電話と入れ替えるように抜き放った小振りなナイフを、左手に突き刺す。傷口からあふれた血液は、彼の願いに呼応して、化け物を殺す世界を変えるために、降り注ぐ。痛々しいほどのペイン血の朱レッドが、夜の暗がりよりくらい赫が覗く。


「夜のあいさつはコンバンワ、だ。知っているでしょ?」


 血の雨が終わる。漂う鉄錆の匂いと腐臭。三日月よりなお鋭く嗤う影。


「今、ここで死ね。それが世の為人の為だ。知っているだろう?」


 油断なく間合いを詰める。ザリザリと靴底が鳴る。何をやって無事だったかはわからないが、遠くからやってだめなら近づいてみる他ない。薄い微かな月明かりが、彼、あるいは彼女―『破滅の加護バッドラック・フィーチュン』を照らす。線が細く、二次性徴も迎えていないように見える。フードの下の表情は暗がりということもあってかうかがえない。つりあがった口元が歪む。


「化け物が、人の世を語るんじゃないよ! 人の心を持てない化け物のくせして!」


 激しく、深い怨嗟の声。それと共に、『破滅の加護バッドラック・フォーチューン』から、黒い風が吹き出す。腐臭。服の袖がチリチリと焦げるように、崩れ落ちる。呪いにしてはずいぶんと科学的な反応だ。


「俺たちは、お前らとは違う」


 左手の傷に指を押し込んで、さらに開く。風が肌に触れた瞬間、ひりつくような痛みを感じた。恐らくは腐食速度はさして早くはない。弾幕を防いだのは別の何かのはず。


「それは、こっちの、台詞なんだよ!」


 『破滅の加護バッドラック・フォーチューン』の激しい感情に呼応して、黒い風が願いを叶えんと姿を変える。不毛な実験E・D・スクリプトの末路。叶わぬ願いの象徴。救いを求める第三の手が伸びる。差し伸べられた救いの手さえ腐らせる、救われない運命バッドラック・フォーチューンの手が。


「ぐ、げほっ、厄介、な」


 避けることは容易だった。しかし、腐った空気まではそうはいかない。体が拒絶し、強制的に吐き出される。傷口から湧き出る血を操作する。


「どうしたよ、殺すんだろ! やってみろよ、やってみせろよ、お前らが責任取ってさぁッ」


 このまま普通にやりあえば先に息切れを起こすのは不破の方だ。特殊な造血剤も、副次効果で高まっている造血能力にしろ、限界はある。だが、ここで引く選択はあり得ない。


「死にたいのなら、死ぬまで殺してやるよ。今、ここで」


 撒き散らされた血液をかき集める。一度使った血液も消滅しない限りは操ることはできる。いくら腐食させようがそれは消えたわけではない。圧縮された血液が、『破滅の加護バッドラック・フォーチューン』の傍で弾け飛んだ。


「く、はははっ、やって、くれるなぁ! ちょうどいい、丁度いいよ!」


 血液の爆発を受けても、大したダメージを受けた様子はない。パーカーは擦り切れ、フードが外れている。幼い顔立ちの少年だった。その右目だけが爛々と紫水晶のように怪しい光を放っている。


「よっと、おまたせ」


「遅かったな」


 『病蜘蛛』が屋根から飛び降りる。軽口をたたいたものの、想定よりはずっと早い。


「やっぱり、僕はついてないな。けれど、僕と出会った不運は、その上なのさ。ねぇ? 君もそう思うだろ」


「ひっ、な、なに? なんなのこれっ!?」


 後方からの声に、意識の全てが持っていかれた。封鎖するだけの人員はいなかったが、『病蜘蛛』の糸で最低限、一般人が迷い込まないようにはされているはずだった。


「あぁ、呪わしい。人間め、幸せな人間め、呪われろ、呪われて、死ね」


 黒い破滅色の手が伸びる。差し伸べられた手を引きずり込むために。体が反応する。迷いは、ない。


「ぐっ、……」


 声をかみ殺す。強引に割って入った不破に、黒い手が纏わりつく。救いを求める亡者のように。焼けるような痛み。


「チッ、なにやってんだ、不破ァ!」


 『病蜘蛛』の糸が不破を引き寄せる。


「後ろ向いて、走れ! 行け! 忘れろ!」


 『病蜘蛛』の荒げた声に、少女が身をすくませる。それがよくなかった。運が、悪かった。正しく、呪われているというタイミングで、街灯がへし折れた。半ばから腐ったそれは、少女を貫いた。標本でも作るように、地面に貼り付けにした。


「手、前ッ……」


 白光が落ちる。踏み出そうとした不破の足元が抉れ、体ごと吹き飛ばす。


「余計な真似を。……まぁいいさ、約束は約束だからね」


「逃がすとッ……」


 踵を返す敵を追うために動いた足が躊躇いを帯びる。脳裏に焼き付いたすべてを失った日がそうさせる。次は、次こそうまくやると、そう、誓った筈なのに。


「迷うな、決めろ!」


 背中を押されたのだと思った。そう感じた。少女のもとへ駆け寄る。『病蜘蛛』はしばらくあたりを見回していたが、舌打ちを一つして、不破の傍にやってきた。


「張っていた糸が全部やられた。失態だ、目先に集中しすぎた」


 少女に意識はない。だがまだ生きている。長くは、ないだろうが。片膝をつき、符座がりかけた左手の傷口を抉る。


「俺の血液を混ぜてしまえば、他人の血液でも多少は操作できる。それで、無理矢理にでも血液を循環させる。処置を、頼めるか?」


「ああ、君はO型だったっけ。でも血液を介して『果実』が伝染するケースもあるらしいけど」


 迷いがないといえばウソでしかない。けれど、決めてしまったのだ。


「恨まれても、間違いでも、身勝手でもいい。目の前の命を諦めるのは、嫌なんだ」


「それならいいさ、他ならぬ君の頼みだものね」


 断られると思っていた。彼女から気遣うような言葉が出るというのも少し意外だった。けれど、今は厚意に甘えよう。罪が落ちる。血より朱い罪が。その有様を月だけが目をそらさずに見つめていた。闇夜に於いて、三日月は全てを嘲笑わらっている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る