第6話 アラームが鳴る
普通であることは難しい。一般的であることも同様に、そして当り前であることも。物心がついたころから、少なくとも一般的とはいえなかった。成長するにつれ、その乖離に戸惑ったような記憶もある。けれど、それを不幸だと思ったことはない。むしろ、幸せだったとさえ思う。だから、いつだって普通の人と、みんなと分かり合えないような、溶け込めないような疎外感を感じ続けていた。
「どうした、
隣を歩く背の高い女性の声に、現実に引き戻される。つやのある長い黒髪。皮肉っぽく口元を釣り上げて、いたずらっぽく笑う。
「お前はうっかりやというか、ドジっていうか、ちょっとどんくさいから、心配だよ」
「もう、大丈夫だよ。私だっていつまでも子供じゃないんだから」
「でも、久しぶりだよね。ずっと忙しかったんでしょ?」
「まぁね、でもこれからはこっちで仕事ができる。先のことはわからないけど、暫くは我が家に居られるね」
離れていても、時間がたっていても、そうやって家を帰る場所だと思ってくれていることが、嬉しかった。母は、十分な愛をみんなに注いでくれていたし、何人もいる兄や姉をみんな家族だと思っているけれど、思っているからこそ帰ってこれなくなった家族を思い出すたびに、悲しくなるから。
「母さん、喜ぶだろうな」
「だろうねぇ」
刃渡は苦笑を浮かべる。それも無理もない話だった。母は子供たちに十分な、十分すぎる愛情を注ぐ人で、所謂子離れのできない気質の人だった。兄や姉が帰ってこない理由の一つになるくらいには。
「あれはあれで、愛されている実感があっていいとおもうけどね。ただ、難しい年頃でもお構いなしだから、いろいろはあるよね」
「あはは、でも母さんだから、仕方ないかなって」
でもきっと、家族の誰もが母の愛を受け取って育ったから、不幸だなんて思う暇さえなかったのだと思う。
「離れて解ったよ。母さんは凄いなってね。あれだけ、他人をひたむきに愛するだなんて、私にはできやしなかった」
「他人じゃ、ないよ」
そうだね、と刃渡は寂しげに、悲しそうに力なく、泣き出してしまいそうに微笑んだ。
「嫌になるよ、本当にね。……ああ、ごめんね。格好悪いところ、見せたくなんてなかったんだけど、油断したかも」
何も言えなかった。何も、言わなかった。きっと、子供の、妹の言葉では、彼女の悩みの助けにはならないだろうから。沈黙が下りる。二人の足音が重なりながら続いていた。
「変わってないなぁ、こうして見ると、帰ってきた実感があって、いいもんだね」
カギはかかっていない。いつでも、誰が帰ってきてもいいように、と母は玄関に鍵をかける習慣がなかった。ドアベルが鳴る。バタバタとせわしない足音が近づいてくる。いつも、母は誰よりも早く駆けつけてくる。どんなに忙しくても、一番に来てくれる。
「おかえりなさい、立華ちゃん」
エプロン姿の女性が息を切らして出迎える。満面の、花が咲き誇るような笑顔と共に。平均よりやや低い立華よりもさらに小柄で、親子に見られたことはほとんどない。せいぜい、姉妹だったか。
「ただいま、母さん」
思い返してみれば、刃渡は直接、母をそう呼んだことはなかった。それもあったのだろう、きょとんとした表情で二人を見つめていた彼女は、つぼみが花開くように笑顔をうかべ、刃渡に飛びついた。
「刃渡ちゃん! おかえりっ、お母さん、うれしい、とっても、とっても嬉しいわ。帰ってきてくれて、母さんって、もう、もうね」
抱き留められた母は、言葉の途中から感極まって涙声を混ぜた。言葉にならなくなかった思いに、母のぬくもりに、その小さな体に、縋りついて、泣き出しそうになるのを、刃渡は押さえつけた。
「ずっと、会いにこれなくてごめんなさい、母さん」
忙しかったという言い訳は、口に出せなかった。会おうと思えば、いつだって時間は作れた。連絡だって、取れないわけがなかった。けれど、ずっと決心がつかなかった。あの時の刃渡には、母の愛は重く、そして痛かったから。
「んー、刃渡ちゃん成分補給完了!」
赤い目をして、刃渡から離れた母は、今度は優しく立華を抱きしめた。揚げ物と、石鹸の混ざった母のにおいがした。
「おかえりなさい、立華ちゃん」
「ただいま、お母さん」
立華はしっかりと抱き返した。血のつながりのなんてなくても、家族だから、家族でありたいから。そして、この行為もまた、普通の家族の在り方ではないと自覚していた。
「刃渡ちゃんも、ご飯食べてくれるのかしら?」
「こんな時間からでは、大変でしょう。コンビニでも行けば……」
くすり、と小さく笑って目を細める。
「お母さんは、食べてほしいな。久しぶりだもの」
「……うん、お願い」
いくつになったとしても、どれだけ離れていても、親にとっては子供は子供のままだ。少し顔を赤らめて、うつむいた刃渡は、昔よりも、小さく見えた気がした。
「みんな一緒に待っててね。一人分くらい、お母さんすぐつくっちゃうんだから」
慌ただしい、バタバタという音とともに彼女は台所へ駆けていった。いつでも全力な、彼女らしい姿だった。
「ホント、母さんは変わらないね」
「変わらないで待っていてくれるのは、きっと素敵なことだよ」
かもね、と刃渡はまだ少しだけ赤い顔で返した。リビングの引き戸が静かに開かれる。
「おかえり、立華さん。……そっちの人も」
不機嫌そうにもとれる愛想のない顔がのぞく。別に仲が悪いというわけでもない。まだ、心に壁があるだけだ。だから、待っていればいい。そう立華は思っていた。
「ただいま。姉さん、この子が
「そっか、私は峰柄刃渡。十年近く親に顔も見せなかった、親不孝な姉だよ」
「別に、アンタの弟になったつもりは……」
睨み付けて、言葉をつなごうとした真理の頭が快音をたてる。後ろから現れた少年は、手に持っていたスリッパを落としそれを履きなおした。しょうがない、とでも言いたそうに大げさにため息をつく。
「あのさぁ、いつまでもウダウダやってんなっての。お前はもううちの子で、刃渡姉さんも立華姉さんも家族なんだから、それらしくしろよ」
「ほっとけよ、要」
わざとらしく肩を落として、小馬鹿にするように要はため息を吐いた。
「要兄さんだって、教えてやったろうが」
「同い年に兄も弟もあるかよ。つーか、生まれで言ったらお前が弟だろうが」
「俺の方が先に家族になったから兄なんだよ」
小柄で、まだ成長期を迎えていないような体格の真理と比べれば、長身の要は確かに年上には見える。
「あほくさ……」
「あ、おい! ……ごめんな、姉さん。アイツ、まだ前の家族のこと、引きずっててさ」
要は、少しでもなじませようと善意で接しているのだと思う。けれど、二人の間には事情の違いという壁がある。親に捨てられた要と、親を亡くした真理。家にやってきた年の違い、心の問題。多感な時期の二人にとって難しく、そして素晴らしい経験になるだろう。
「真理くんとお前は違うんだろう? あのくらいの年頃だと、やっぱりね」
「それに、真理は自分の親が大好きだったみたいだものね」
不満そうに、要が顔をそらす。彼にとっての実の親は、母から愛されるほどに憎しみの対象になっていくのだ。だからこそ、二人の間の溝は深い。
「真理くんは、母さんと呼べないかもしれないけど、それでも家族だよ。それだけは、覚えておいてあげてくれ。折り合いは、そうそうつくものじゃないんだ。今だからわかるよ、いまだって、折り合いがついていないんだけどね」
母の呼ぶ声が聞こえる。新しい弟と、帰ってきた姉。この家は賑やかで、温かいものになっていくんだと。サンタクロースを信じる子供のように、無邪気に信じていた。けれど、立華にとっての普通の日々は、日常は、この日を境に過去のものになる。結局のところ、彼女は自分が普通ではないと、気が付いている気になっていただけなのだ。この日までは。
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