第2話 秒針が進む
雑居ビル、というのは存外にして中にどんな人間がいるのか、地元の人間さえ知らない場合が往々にしてある。まぁそもそも、アパートの隣人の顔さえ満足に覚えていない昨今では大した違いはないのかもしれない。少なくとも、自分たちのような社会不適合者からすれば、丁度よい住処になるということだけは確かだった。ビルの裏口から入り、わざわざ壊れそうな加工が施されたエレベーターに乗り込む。指定階は屋上。以前、大変過激なお客様の気の利いたパーティの合図で一階が全壊するという素敵な事件が起きて以来、殆どの拠点で上階に重要な施設は置かれるようになった。エレベーターの浮遊感とともに、大きく息を一つ。エレベーターが止まり、扉が開く。指定した階は、まだ先だ。
「ありゃ、不破ちんじゃまいか。いつ帰ってきたの? 今? さっき? 休み明け?」
止まったエレベーターに、パンクファッションの少女が滑り込むように乗り込んだ。サングラスの奥の目はやや垂れ目で、小柄な体躯も相まって愛らしい印象さえ与える。
「その呼び方はやめろ。帰ってきたのは今だよ」
「いいじゃんさー、べっつにー。私と不破っちの仲じゃんねー。今からカイチョーに報告? 何してたの?」
少女が飛びつくように肩に首に腕を絡ませる。身長差もあってかなり苦しい。とはいえ不破も平均的な身長でしかないのでそこまでではないが。とにかく、この少女はなれなれしいというか、距離感の近い気質だった。彼女を払いのけることもなく、一つため息をつく。
「いつも通り、さ。俺たちのやることなんて、一つっきりなんだから」
「そっかー。不破っちには苦労を掛けるねー。苦労ついでにさ、たまには
エレベーターが停止する。今度は目的の階についたようだった。
「俺はあいつの方が心配だけどな。いっつも顔色が悪い、ちゃんと食ってるか心配になる」
青白い顔をした、不健康を擬人化したような同僚の顔が浮かぶ。医療班のくせに一番病人のような奴だ。パンクファッションの少女は楽し気にくすりと笑った。
「それ、本人に言わないでよ、結構気にしてそうじゃん。っと、カイチョーのとこに行くんだったっけ。ひきとめてごめんね」
「いや、久しぶりに会えてよかったよ。気も晴れた」
サングラスの下の目が細められて、嬉しそうに少女は笑った。
「じゃ、また後でね。今度、一緒にご飯でも食べよう」
小さく手を振って、少女が資料室へ消えていった。軽く服装を正して、会長の待っているであろう部屋へ向かう。安っぽい扉を開くと、簡素な部屋に置かれたデスクと、そのそばのソファで寝転がるジャージの女が目に入った。
「お帰り、契。書面では届いているから、口頭は簡単にしてくれればいいよ」
ソファーにぐったりと横たわったまま、眼鏡の女が告げる。気だるそうな表情が物憂げに見える程度には顔立ちは整っていたが、いかんせんジャージ姿では尊厳に欠ける。安楽椅子探偵でも気取っている所もあったが、似合ってはいない。
「今回も、
「手口や遺留品等からの判断ですがね。他にも雑多な連中が協力していたようで、奴らが主導だったかは解りかねます」
そこまで言ってから、窓際に初めて見る人間が立っていることに気が付いた。気が抜けていたのだろうか。蜘蛛の巣の意匠が取り込まれたゆったりした服と頬に施された蜘蛛のタトゥーがやたらと目立つ、長身の女だった。夜明け前の空のような黒い瞳が、不破に向けられる。
「どうも、
笑って、女が告げた。その笑顔に、言いしれないおぞましさを感じた。背筋に虫が這いまわるような、忌まわしさ。目が笑っていないだとか、あからさまに演技くさいだとか、そういう話ではない。そもそも、社交的な笑顔なんて大半が演技だ。だから、この違和感ともいえる感覚はもっと根源的なものだ。そして、そのおぞましさの理由に、不破は気が付かない。気づけない。幸運なことに。
「あ、もしかして
「いや、我々、
「あ、名乗らなかったことが問題だったかな? でもほら、僕は君のオトモダチと同じ
頭に血が昇ったのがはっきりと解る。熱が一気に体中を駆け巡り、目の前が真っ赤に染まる。殆ど反射的に手が得物のある右ポケットに突っ込まれ、そしてその手を何かが押さ
えつける。
「痛いところ探られたら、ちょっとは痛そうな顔してよね。そんな怖い顔しないでさ」
力を入れても、腕は動く気配がない。何かに拘束されているようだ。冷静さを欠いていたとはいえ、何をされたのか全く分からなかった。
「『病蜘蛛』、仲間をあまりからかうものじゃないよ」
「うふふ、ごめんごめん。好きな子ほどいじめたくなっちゃうんだ。ホントだよ、ホント。嘘じゃないよ。ホントにさ、好きなんだよ。ね?」
腕にかけられた力が弱まる。『病蜘蛛』がやや大げさに手首を反す。窓からの光に反射して、細い糸のようなものが見て取れた。その糸は病蜘蛛のゆったりした袖の中に吸い込まれるように消える。
「二人に来てもらったのは、じゃれあいの為じゃないんだよねぇ。君らのイチャコラを眺めているほど、心も広くないし、暇でもない。仕事の話だ。嫌になるね、人間はなんで働かないと食っていけないんだか」
至極面倒そうに、机に積まれた書類の束の一部をひっつかんで、寝そべったまま告げる。
「今回は、他のチームからの依頼だ。『七人神楽』の
「その研究素材ってのは?」
「知る必要がない」
「ああ、それ
『病蜘蛛』は心底くだらなそうに、ニヤニヤと笑ってスマートフォンに目を落としながら告げる。細くしなやかな指が液晶を撫ぜた。
「『病蜘蛛』、好奇心が最も人類を殺してきた、って話を聞いたことがあるか?」
「ああ、失礼。大事な大事な子供には、聞かせたくない話も……」
睨み付けるような、探るような視線が剣呑なものに変わる。
「好奇心が殺す前に、私が殺してやろうか? 自殺するよりは手っ取り早いな、たしかに」
不破が久しく聞いていない、会長が真剣に苛立っている時の声色だった。それでも『病蜘蛛』はにやついた表情を消そうともしない。
「……既に対象はこの街に潜伏している可能性もある。ま、どちらにせよ私たちらしい仕事さ。化け物は殺す、例外はない。『
この手の人間には何を言っても、やっても無駄だと思いなおしたのか、気を取り直すように銀縁眼鏡を押し上げて、努めていつも通りにふるまう。不敵な笑みも、ジャージ姿でなければもう少し様になるのだが。
「わかりやすくて素敵だ、『
『病蜘蛛』はひどくやる気のない敬礼を一つ送り、嬉しそうに、愉快そうに、にやついた笑みを浮かべた。
「……了解、会長。いつかの、為に」
それは、不破がかつて交わした誓いだった。決して破られることのない、契、彼の名前のままに。たとえ己が最後の一人であっても、いつまでも、それは彼の中では有効な、約束だった。
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