神様は誰も愛さない

くせもの

第1章 全ての魔法が解ける時

第1話 祝福された0:00

――奇跡を起こすのは、たぶん人間の役目だよ。魔法使いにできるのは

  彼らの背中をそっと押してあげるだけなんだ           ――


 真っ白な、清潔な布団を押し上げて、けだるそうに少女が起き上がった。美しい少女だった。白磁のごとき肌には薄っすらと血の気が通った赤らみがあり、幼くも見える目鼻立ちが庇護欲を誘う。白い囚人服のようにさえ見えるワンピースも、絹のような長い白い髪も、よく似合っていた。何よりも人目を引き付けるのは彼女のすべてをあきらめたような、曇天のように濁った灰色の瞳だった。


「はやく、みつけて、わたしは、ここにいるのに、まちくたびれて、しんでしまうわ」


 その声には、いかなる感情も含まれてはいない。しかし、その言葉には狂おしいまでの哀愁と、願いが込められていた。指先にかすかに力が籠められて、シーツがくしゃりと歪む。やがてそれがゆるゆると弱められて、力なく皺のついたシーツに横たわった。

 窓の外には、何よりも臨んだはずの、どこまでも遠い日常がある。穏やかな日差しの中で、木々や花々が柔らかな風に揺れて、そこを人々か行き交う。ガラス越しの、別世界だった。


「あいたい、わすれて、しまったの、わたしは、ずっと、ここに、いるのに」


 誰に向けた言葉だったのか、誰と通わせた想いだったのか、誰と交わした約束だったのか、だれかなんて本当にいたのかさえも、不確かだった。それでも、彼女は信じていた。その盲目的な信仰だけが、彼女を支え続けていた。それだけで生きていられた。いつかきっと、約束と思いを重ねた誰かと再会できるのだと。

 軋んだ音を立てて、扉が開かれた。


「おはよう、無花果いちじく、息災だったかな? ま、君には息災もクソもないか。忌々しいほどに、素晴らしいことに」


 少女は応えない。虚ろで力のない瞳を、男に向けて、また外の景色へと視線を向けた。その瞳に果たして外の風景が移っているかは、定かではないが。


「つれないな。どうでもいいけれど」


 よれよれの白衣の男は独り言のように、あるいは語り掛けるように呟いた。無精髭に、くしゃくしゃの髪。フレームの歪んだ眼鏡の下には色濃く残った隈。いかにもな研究者然とした男の右胸には『無限虚数なかぎりうろかず』と刻まれた銀のネームプレートが吊り下げられている。


「やっぱり、いつ見ても異常な数値だ。機械の誤作動を疑うべきレベルだよ。本当にね。こんなバイタル値では、人類は生きていけないよ。けれども、君は確かに生きている。そうだろう? それもまた、この数値が証明している」


 少女が繋がれたケーブルの先、無数の計器を眺めながら、どこか己に言い聞かせるように語る。その言葉さえ、少女は聞いてはいない。きっと認識してさえ。なんの意味も持たない視線が、窓の外を撫ぜているだけだ。


「『果実』が君にもたらした祈りは、不死なのだろう。そして君の願いもね。私は、いつだって不思議に思っている。不死とは、私は人類の夢だと思うのだよ。無意識レベルのね。いや、だってそうだろ? 普通の生き物は死にたくないものだ。彼らが定義するように『果実』が人の願いを叶えようと力を与えるのならば、適合者ボーダーは不死身の化け物だらけになっていなければおかしい、なっているべきだ。だが、そうではない。私を含めた普通の適合者ボーダーはあまりにも簡単に死んでしまうし、殺せる」


 やはり、少女は何も応えない。反応を、示さない。何かを待つように、耐えるように、求めるように、ずっと、探しているのだ。今までも、これからも。


「ああそうだ、ここもじき、安全ではなくなるよ。私にとっても、そしてもしかすれば君にとってもね。まったく、どうやって彼も嗅ぎつけるのだかね。君も万が一死ぬなんてことになりたくないなら、少しは協力的な態度にになってくれよ」


 ここで初めて、少女が無限なかぎりの言葉に反応した。それは彼の発言に、というよりも、文字列に反応を示したというような、機械的な反応だったのかもしれない。けれど、初めて少女は目の前の人間に意識を割いた。


「わたしは、しねない。ひとりで、しねない。いっしょに、いっしょじゃないと、だって、わたしは、さいごまで、いっしょだって、やくそく、やくそくしたの。そうだ、わたしは、やくそくしたの」


 少女の瞳に、光が灯る。心の奥底から湧き上がる衝動と、本能とともに。意味のなさない、思いつく限りを、思いつくそばから発するようになった少女を一瞥し、無限なかぎりはため息をついて、白い病室を後にする。


「もしも君が、彼女を殺せるというのなら。私の研究は一歩進む。それはきっと、大いなる、忌むべき一歩だ。彼女がまた生き残るのなら、私は続けよう。命のありかを見つけるまでは。くだらない実験と、検証と、実証と、証明と、帰結を。重ね続けようじゃないか」


 いつかの、どこかの、彼の心の中でだけ、生き続ける彼女のために。あるいは救われない己自身のために。彼はいつの間にか、これまでも、これからもいつまでも、続けるのだ。永遠に、延々と。それだけが、彼の願いだった。






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