第14話 宇宙船5
——僕を呼ぶ声がした。
はっとなり、僕は立ち上がる。自分を地上に引きつける、重力が何時もよりもやたらと強く感じられた。外は太陽がやたらと眩しく、全部が光に見えてしまい、僕はとっさに目をつむってしまう。
瞬間僕の目の裏には不思議な光景が焼き付けられていた。
在るのは緑の草原でなく、荒れ果てた、砂ぼこり舞う大地だった。それは、死んだ世界だった。何者もいない無機質の世界だった。
僕はそんな世界に五年前に降り立った。
何処から?
宇宙からから。
何故?
調査をするために。
何の?
僕ら、人類はこの惑星からの通信を受信した。
何をするため?
この惑星の人々は、孤独だった。この宇宙に仲間を求めていた。
だから来た?
そうだ。
そして君は会えたのかその「仲間」に。
僕は……。
僕は混じり合った無限の世界の中で、瞬間なにかを選択を行った。
僕は目を開けて、自分の目の前の映像を見た。
その先は見たくなかった。
*
「それを消せ!」
僕は叫んでいた。
「消してくれ……!」
懇願するように。
僕は宇宙船の中、自分のクローンによって椅子に縛り付けられて、彼が再生を始めた立体映像を無理やり見せられている。
映像の中は狂躁であった。人々が巨人のまわりに集い、何時もの穏やかな音楽とは打って変わった、激しいリズムと叫ぶような歌で作られた音楽に合わせて、狂ったように踊っているところだった。目は血走って狂気の色を浮かべ、激しい衝動に突き動かされ動き続けているように見えた。
明らかに、異常な様子であった。人が変わったように、叫び、まるでいがみ合っているかのように、互いに睨み合っていた。その表情には様々な欲求が丸出しで現れていた。野生であった。そのままの欲求を恥ずかしげもなくさらけ出す。
花が舞った。
レア?
違う。他の女性。二人、いや三人。様々な花を周囲に撒き散らしながら、毒々しい色の花の束にむしゃぶりついていた。目が見開かれ、悲鳴のような、絶頂の喜びのような、そんな叫び声が、次々に上がった。
横たわる巨人に、すがりついている者達もいた。巨人の上に半裸で体をすりつけて、ひどく淫蕩な様子の表情を浮かべ、自らの股間をまさぐっていた。荒い息を立てながら、更に体をこすりつけ、その度に快感に体を引きつらせた。
熱狂がその場を包んでいた。一人の女が服を脱ぎ捨て全裸になると、周りから悲鳴のような歓声が上がった。
ビートが激しくなる。太鼓が激しく打ち鳴らされ、全裸の女は艶かしく身体をくねらせて踊りながら、巨人の股間に自分の股間を擦り付け始めていた。
巨大なペニスは少し勃起し始めているようにも見えた。女は、その巨大なペニスを無理矢理身体の中に入れようとでも言うのか、股間を強く押し付けているが、自分の体よりも大きなそれが入るわけも無い。しかし女は諦めずに身体を揺らし続けている。
またもう一人の女が、全裸になった。身体を揺らす女に抱きつきながら自分も身体を揺らし始めた。
そしてまた一人、一人。様々な花が跳び舞い、音がますます激しくなる中で、狂躁は続く。集まり、互いにむさぼり合いながら……。
始まった乱交に、僕は呆然とその場に立ちすくんでいた。レアの手を取り、彼女がその中に取り込まれてしまわないようにと、握りしめていた。彼女は僕の顔を見た後、一緒に参加しようと誘うように振り向くが、
「駄目だよ」と言う僕の言葉に少し拗ねるような言葉を言って、諦めて……。
いや違う。
記録された映像の中、僕の手を振りほどいて、狂乱の中に参加して行ったレアは、そのまま別の男と濃厚なキスを始めていた。
一瞬動揺した様子の僕。しかし、直ぐ、別の女の手を握り、
「レア、駄目だよ」と言う。
きつく握り締める手。強く握れば握るほどそれはすり抜けて行って。僕はしかしその消失を認めることはできない。また違う女の手を握りまた「レア」と話しかける。
「レアなんて女はいなかったんだよ」
僕のクローンは映像の再生をいったん止めた。そして、哀れみの目で僕を見ながら言う。
「あのアザレアに似た花を持ってきた女のことをあの映像の中の男はレアと呼んだ。持ってくる女が変わっても、気づかずにレアと呼んだんだ。君は……君はあの映像の中の男とは別物だけど……そう思い込んでいるのならあえて『君』と呼ばせてもらうけど、——君はそれに気づかずに、気付こうとせずに、次々に別の女をレアと呼んでいた。君には覚えがないのかもしれないけどね。お望みならその映像を先に見せるけど」
僕は首を振った。
「……見たくないのなら無理強いはしないよ。事実は変わらないし、——まあ、違う女を全部同じ人物だとおもったのは、ある意味それも間違いではないかもしれないけど……。——ん、どう言う意味かって顔をしてるね」男は一度言葉を切って、一度息をついでから言った。「……どうだい、ああ、こうやって今見て見ても、あの星の連中は、全員同じように見えるよね。あそこまで全員が似てるなんてことがあると思うかい。君が送って来たデータによれば、ゲノムの分析結果を比べれば、クローンと同じレベルで連中は同じ人物だった。そんな偶然があると思うかい? 地球にも無性生殖のクローンで増えていく生物はいるが、こんな人間のような複雑な生物では例がない。もしクローンだとすれば何らかの作為が、操作が入った結果と思わざるをえない。いや、そんな事よりも、そもそも……こんな星に人類そっくりの生物がたまたまいることに疑問を思わないか」
僕は、自分が、自分のクローンが言おうとしている次の言葉が予想でき、耳を塞ぎたい気分だった。しかし彼は続け、
「あそこにいたのは全部君の、つまり僕と同じ君のクローンだ」と言った。
そん言葉に反発して、僕は縛られた身体をぐっと前に押し出して、必死の形相を浮かべる。
しかし、
違う。
と僕には言えなかった。
彼の言葉に僕は、自分でも、納得してしまっていた。
反論するべき言葉が浮かばなかった、何百光年も旅をしてたどり着いたその惑星に、たまたま人間そっくりの生物が存在しているなどと言う偶然があり得るだろうか。
そう思えば、あの人々は、僕があの星に降り立ってから、作られたとは考えたほうがよほどまともな理屈となるのではないだろうか。
あの星にいたのがどんな科学を発展させている生物なのか、はたまた、そんな恐ろしげな魔法を使える悪魔か、は分からない。でもそいつらが、あの星に降り立ち活動を始めた僕を捕まえ、僕のクローンを作り出したのだとしたら。発生の過程で性転換を起こし男女のあの様な集団を作り出していたのだとしたら?
「信じてくれなくても良いが、僕は君を騙したり、誤魔化したりするつもりはない。君が送って来た分析データは君が一緒にいた人々が、君のクローンであることを示していた。しかしそうだとするとそいつは、いったい何のために君のクローンをそれだけこしらえて、楽園まがいの世界までこしらえて、——いったい何をしようとしたんだ」
クローンの男は、視線でセンサーに命令を出し、また映像を再生をスタートさせた。
「自分どうしが乱行し合う異星人の姿を見て興奮したい変態エイリアンでもあそこにいたと言うのか」
狂乱はますますひどく、巨人に向かってうつぶせた女達に、おい被さった男達は獣の様に興奮しながら腰を動かし続けていた。悲鳴とも、歓喜ともつかない声が叫ばれ続けた。映像からは何処にいるのか確認できなかったが、こんな状態でもまだ誰かが叩き続けているのか、太鼓の音はますます激しくなり……
映像が止った。
「ここまでだ」男は少し怒っているかのような表情で言った。「記録はこれで終わっている。君があの星に降り立ってから、ずっと君に着いて行動を記録していたカメラはここで止まったんだ。君の眼球内にインプラントされたカメラは、ずっと君の行動を記録し続けていたのに、この瞬間に止った。君のクローンを作り出したあの星の何者かは、ずっと君に記録をさせるがままにしていたのに、この瞬間になぜかその妨害をしたのか、それとも何か不可抗力で止めてしまったのか?
着陸ポッド経由の君と船のリンクはこの時点ではまだ切れていない。身体中のセンサーから送られて来るデータは君の生命活動はまだ正常であることを示している。君は、オリジナルは、この後の光景を見ていたはずだ。しかしカメラはそれを送ってこなくなった。なので真相はこの後もずっと分からないままとなるだろう……」
男は、僕のクローンは、そこで言ったん言葉を止め、ため息をつく。
そして、
「さっきから言ってるように、僕は君がオリジナルであるとは思っていない。記録は、オリジナルの生体反応がこのあと数日で途絶え、それにより僕が生まれた事になっている。だとすれば、君は、オリジナルではない、あの惑星から来た何物かだ。それが君に成り済まし、まんまとこの船に帰って来た。
しかし君が自分がオリジナルだと信じているのならば、あの惑星の何物かが、君をそう言う存在として作り上げてここに送って来たのなら、その理由があるはずだ。
僕はそれを知らなければならない。それを君から取り出さないといけない。それは君の偽物記憶に封じ込まれていると僕は考えていて……」と言うと、
彼のまわりに浮かぶアイコンを操作して、青く輝く光の塊を僕の目の前に出現させた。
その光には、よく見ると少しずつ色の違う様々な青の筋が、うねり、渦を巻いていた。
これは見てはいけない。僕は反射的にそう思ったが、もう、目を閉じることも、顔を伏せるために首を動かす事もできなくなってしまっていた。
起きたまま寝ているような、起きたまま見る夢をみているような不思議な気分だった。催眠にかかってしまったようだった。深い睡眠に誘導するためのこの光、それは少し調整すれば、催眠にも十分に使えるだろう。そして僕の忘れている記憶を、心の奥底から取り戻す為にも……。
僕は逃れようとすればするほどに、自分に絡みついてくる、その光の魅力に抗うことができず、——次第にトロンとした気持ちになり、——水の中にででも沈んで行くような感じでゆっくりと、……ゆっくりと沈んで行き、底に向かっているはずが、いつの間にかもう直ぐに水面が、明るく太陽が輝き、浮かび上がる、意識の底から、……僕は眩しくて閉じていた目を開けると……。
レアの笑顔が目の前にあった。
草原の中の廃墟、僕がノートを前にぼうっとしているのを、下から覗き込んでいるのだった。
「レア」
僕はびっくりして身体を起こした。
これは……。僕は星間を航行する宇宙船の中で、自分のクローンに身体を拘束されていたのではないのか?
これは、夢? いや、僕は宇宙船の中で、あの男に縛られて尋問されていたのではなかったのか。記憶。
そう言えば、僕は、催眠に掛けられて、記憶を取り出されようとしていたのではないか。
奴が偽物だと思っている、僕の記憶。その中に今僕はいるのではないか。僕が本物であるのだから、これは、過去の思い出の中と言う事なのか。
そうなのであれば、これは何時の事なのだろう。
全く覚えのない光景だった。
いや、船に戻る時、僕は、何らかの理由で、レア達の事を全く忘れてしまっていたのだから、覚えが無いと言っても全く信用もならないのであるが。
しかし、この光景は何か違う感じがした。
全く経験した事がない、新たな体験、そんな風に思わせる不思議な新鮮さに満ちていた。
僕はその感覚に戸惑い、レアが僕をじっと見つめている事をも忘れ、辺りを見渡した。多分、僕はとても不安そうな顔をしてたのだろう。レアは、僕を落ち着かせるように、やさしく手を握ってくれた。
「レア」
僕は、また彼女の目を見つめながら言う。
こうすれば彼女はさらににっこりと笑って、小鳥のさえずりのような声で僕を癒してくれるだろう。
僕は、この記憶の中でもそれを求め、彼女の目を更に熱烈に見つめるのだが、
「何故……」とレアは言った。「何故、あなたは、私達と一緒になれないのかしら」
彼女が僕のわかる言葉を話したことに、びっくりした。
彼女は、草原の人々は、決して僕の言葉を話したりはしなかったのだから。
でも、
「私達はあなたを待っているのに」
僕がびっくりしている間に更にレアは続けて言う。
しかし、今度はもう僕は驚かない。
「ああそうか、ここじゃ催眠で無理矢理に入らせられた記憶の中、心の中であるんだ」
僕は思い出し、納得した。ここが、そうならば、心の中ならば、何が起きてもおかしくはない。レアが喋り出しても良い。
そうだ……。
そう思えばここは、レアと言葉を交わすことができる、好ましい場所。そんな風に思えてきた。
記憶の中に入ってできた、夢の中のごとく淡い幻想の世界。
でも、僕にとって、彼女とそのまわりの世界がある、とても美しく魅力的な世界。幻であろうと、偽物であろうと、僕にとっては、完全に望ましい。全き世界。
光射し、レアの髪の毛がキラキラと光る。風が吹きふわりと浮き上がり、ほのかな花の匂い。
花びらが舞い、僕の頬を撫でる。何もかもが優しく、穏やかで、清涼な、美と慈愛に満ちた世界。
そんな世界、そんな場所、そんな時。
レアはこの世界の現前したかのような素晴らしい笑顔で、
「今からでも間に合うわ。一緒になりましょう」と言った。
その彼女を、その言葉を、僕は直ぐにでも全肯定したかった。意味がよく分らなくても、それが何か望まぬ結果になるのだとしても。
しかし僕は黙って首を横に振る。言葉にできる程の意思はなかった。しかし今はまだ僕はこの世界に屈する事を拒んだのだった。
すると目の前のレアは、困ったような顔をして黙ってしまうのだが、
今度は、
「いえ、あなたはそうするべきだわ……」と、
僕は後ろから聞こえてきた声に振り向く。
そこにはアザレアのような花を抱えた別の女性がいた。
やはりレアだった。
「もう一度、見たら分かるのではないのかしら」
「何を?」
僕の問いに彼女は答えない。
「こっちよ!」
外からレアが手を振って僕を呼んでいた。また別のレア。しかしやはりレアだった。
開口部からその姿を見て、僕は立ち上がり、建物の外に出た。
「早く早く!」
駆け出す彼女を追いかけて僕も走り始めた。
行く先はあの巨人の横たわる丘の方向であった。
僕は懸命に走り、もうちょっとでレアに追いつきそうになるが、その度に、レアは僕のちょっと前を走っていて、手をつかむと振り返るのは、
「私は違うわ」と言う別の女性。
その瞬間、僕の世界は止まるのだが、
「さあ早く」と、
いつの間にか、僕の少し先を走るレアは、楽しそうに、少し意地悪っぽく笑いながら言う。
追いかける僕。走り、進む、すると世界は動きだし……。
追いかけてたどり着いた、丘の上、祭りは始まったばかりの様子だった。レアの姿は最後に見失ってしまったけれど、この中にいるのは確実なので、僕は彼女を探しがてら祭りの中を散策する事になった。
僕は少し身構え周りを見渡した。
普段は草原のあちこちに散らばる人々が今日はとばかりに集い来る、巨人の周りでは、陽気だが、落ち着く、綺麗な旋律の音楽が演奏されていた。
それは、楽しく、華やかで、瑞々しく、豊穣な様子だった。
花で作った仮面や蔦で編んだ冠なんかで仮装した、楽しげな人々が戯けて歩いていた。この日のために仕立てたのか、鮮やかに染められたローブのような衣服を来て、飲み物を振る舞いながら歩く女達がいた。巨人を取り囲むように、楽しげな踊りが舞われ、陽気な人々がそれに次々に加わって行った。
あの時とは、覚えている狂乱の祭りとは、打って変わった様子だった。僕は。今、記憶の中、心の中の過去、にいるのだと思ったが、これはまた別の祭り、忘れてしまっていた別の記憶なのだろうか。ここは、この祭りは、心地良く、穏やかでありながら、うきうきとした場所。芳醇な、香しく、落ち着いた愛に満ちた時であった。
世界は持続する調和に満ちていた。人々は結びつき、完全であった。ハレの日の高揚の中、しかしその高ぶる気持ちも互いに分け与える中で作り出される和声。それはあくまでも凛として、美しく、穏やかであった。素晴らしい場所であった。素晴らしい時であった。
ああ、僕にも分かっていた。この中に溶け込んでいったならば僕は、僕らは完全になれるのだと。僕らは永遠になれるのだと。そう思えば、その考えは魅力的だった。正直、僕は惹かれていた。僕はこの人々の仲間として、一緒に生きる事に強く幸せを感じる事ができたのだった。
すると、そんな僕の事を見透かしたように、
「どう気が変わった?」と、
前から歩いて来て、仮面を取った女性が言う。
——レアであった。
僕は何も答えずに、答えを出せずにいると、
「どちらが良いかに着いて迷う事はないんじゃないの。どうせここはみんな来るところなのだし」
後ろから声。
振り向くと、あのアザレアに似た花を手渡して来るレア。
「どう言う意味だ」
「分かってるのでしょ。もう……」
穏やかな日常。日がな一日、草原の散策をして、果実をたべ、花を摘み暮らす。変化も無い、
「今日は特別。あなたを迎える祭りだもの。あなたが一緒になるための儀式なのだもの」
レアの言葉に僕はあの映像の事を思い出した。
祭りは、狂乱と、乱雑の中に入って行くのだが……
「あなたが望まなければそうはならないわ」
言葉に出さない考えを読み取ってレアは答える。
その事を一瞬不思議に思うが、そうだここは心の中だったのだ。それらならば何が起きてもおかしくないと思いつつ、それならばその中でこその、僕が僕に伝えたいのだろう、レアの言葉の意味を考え、
「あれは、嘘なのか。あれは起きていない事なのか」と。
すると、
「嘘じゃないわ。あれはあれで起こった事よ。でも……」とレア。
「でも?」僕は更に問い。
「あればかりが起きる事ではないわ」と、
謎めいたレアの言葉だった。
あればかりではない?
その意味が僕には良く分からなかった。
なので、僕は、どう言う意味だとまた更に問おうと、一歩踏み出して彼女の肩をつかむが、
「全ては既に起こった事であるし、何もかも何処かの世界で、何処かの宇宙でありえる事なのよ」
僕は、声の聞こえて来た方、右を向く。
レアが、グラスを二つ持ち、ゆっくりと近づいてくるところだった言う。
僕は、戸惑った表情の知らない女性の肩から、軽い会釈をしてから手を離し、レアの方に向き直る。
グラスを受け取り、その中の酒を一気に飲み干した。
それは、死者の国の飲み物の味がした。甘く、僕を虜にする味であった。
僕は、飲込む寸前その意味が分かり、びっくりして、反射的にそれを吐き出す。
「どうして、ここが嫌いなの? こんな場所は何処にもないんじゃないの。あなたは、あなた達人類は、今、千載一遇のチャンスに恵まれたのよ。なぜここから逃げようとするの」
「嫌いなわけじゃない」
僕は咳き込みながら答えた。
「そうでしょうね、ここはあなたの心のうちから作られた理想の世界。穏やかな永遠の世界。なぜあなたがここから出ようとするのか私には全く理解ができないわ」
「穏やか? あんな狂態を起しておいて……」
僕は巨人の回りで繰り広げられた乱交を、その結末を思い出しながら言う。
「起しておいて? あら随分無責任な人だこと。私達はみんなあなたであるとあの男から聞いてるのではなくて? あれはあなたの望みだったんじゃなくて? あんな風に自らが混じり合い、食らいつくしあい、一つになろうとしている。でも素晴らしいじゃない。騒がしいのはその時だけよ。あなたはあれで、あの中に入れば私達と分かち合い難く結びつくはずだったのよ。あれは、あなたが起した事だとしても、決して恥ずかしい事では無いのよ、あれは……」
「うるさい!」
僕は思わず感情的に怒鳴る。
すると、レアはビクッとなって後ずさり、ひどく怖がった顔。
「あっ、——すまない……」
僕は、レアの言う事に心当たりがあるがこそ、カッとなった事に気付く。
なので、直ぐに後悔し、謝ろうと、彼女に向かって一歩踏み出すが、目の前の女性は別の人物となり、
「大丈夫。そんな激情も私達は取り込んであげる」僕の背中に抱きついてしゃべるレア。「悲しみも、喜びも、怒りも、慈愛も、天国では全て同じなのよ。全てが平衡に達して、すべてが足し合わされてそこには永遠と無限があるの。一緒になれば良いのに……」
密着したレアからは、花の良いにおいがした。そのにおいを嗅いだ僕は、ちょっとくらくらとする。それは酩酊したかのような、良い気分だった。僕は彼女の言葉にそのまま従って、言う通りにしそうになる……
自分の肩口を覗き込み、僕を上目遣いで見つめるレアと目が合った。何時ものようにとびきりの笑顔で笑う彼女。それが永遠、永遠に続くのだとしたら……?
迷う事があるのだろうか、僕は? 永遠の幸せが約束されているのに? 何を迷っているのだろう。僕は。
ああ、そうか、僕だけこんな幸福になるのが申し訳ないのではないのだろうか。人類で一人だけ救われて、醜い生の連続から救われるのを済まなく思っているのではないか。
でもそうなら……、
地球にも連れて行けば良いのではないか。
この幸せを。天を。
僕は戻って伝えれば良い。
この……。
其の瞬間、巨人の横に高く聳える、塔の扉が開いた。
中から、洪水のように、光り輝く原形質の固まりが、地表を流れ僕のいる方へ押し寄せて来た。
「さあ、あなたもこの中に」
レアは、僕の手を取って、その押し寄せるゼリーのような物質の中に僕と一緒に入ろうとしていた。
「これは……?」
僕はその中に膝まで飲込まれながら言った。
「私達よ。いえ、もはやあなたでもあり、かつて在った全てであり、これから在り得る全てでもある」
僕は、あっと言う間に嵩をます、その固まりの中に飲込まれた。
何も苦しくなかった。
何故?
ああそうだ、ここは僕の記憶の中の世界だった。それならば苦しくないのは当たり前。
夢と同じだ。きっとこのまま溺れ目が覚めて……
「違うわ」
レアの声が聞こえた。しかし彼女は何処にもいない。
「どこだ」
僕は言い、更に辺りを見渡すが彼女はどこにもいない。
「どこでもよ。もう私は先に溶け込んだ。この全ての中に、あなたも早く、ねえ、こちらに」
「こちら? いやもう終わりだ、ここは僕の夢の中のようなものだ。僕の目が覚めたなら、終わってしまう幻だ」
「違うわよ」おかしそうに、少し笑いながらレアは言う。「まだ分からないのかしら。宇宙は無限に存在し、何でもが在り得るのよ。そのすべてがそれをつなぐ我々の中に在り得るの。君の過去だって、夢だってなんだって、その中ではすべてがあって、全てが正しく素晴らしいのよ」
「嘘だ……」
僕は反論しながらも、レアの言っている事の方が正しいことが本能的に分かっていた。僕は、僕の過去の記憶、夢のようなものからここに来たかも知れない。しかし、来たからにはここは在る場所なのだ。
まわりには、僕と同じようにまだこの原形質の中に溶け込んでいない、自我をたもっていると思われる者も多少残っていた。しかし、彼ら、彼女らは、一様に蕩然とした表情で、遠からず自分を失い消えて行ってしまいそうに見えた。と言う間にも、一人、また一人。僕には分かっていた。きっと僕も同じような表情をして、同じように消えかかっているのだろう。
僕も半ばこの全てと溶け合っているのだろう。この中にある全ての瞬間、すべての生命、物、論理、非論理、未来、過去、無、色、形、何もかもを感じた。
様々な物が僕の前に漂い通りすぎた。白い毛の、恐ろしげな顔をした猿人のような生物。ロボットのような、無機物でできた生物。心しか無い生物。時間と空間が入り交じった生物。
僕は、次第に意識を、自我を、自分を失って行った。すると緑の草原もこの原形質の中へと入って行き、僕は、白の中に入る。真っ白に、僕は真っ白になり溶ける。僕は何物も違わない究極の平衡に向かい、素早く拡散し続けて……。
でも?
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