第9話 地球? 3

 そのままずっと、僕は川の堤防の上の遊歩道の道なりに進んでいた。

 夜、人通りの無い堤防の道は、少し不気味な感じもしたが、構わずに走り続けた。

 どうせ、……どうでも良い。自分がどうなろうと、なんの違いも無い。この世界にとっては自分など何の意味も無い。そう思ってしまえば、不思議に、この夜のサイクリングの、その包む闇は僕に優しかった。

 なにしろ、暗闇は何も見えなくさせた。美しい物も隠すかわり、醜い物を見せなくさせてくれた。それが今の僕には好ましかった。

 なので止まらなかった。

 ライトの僅かな灯りを頼りに、自分だけが見える僅かな世界の中を走っているのは、むしろ、とても安心できる行動だった。

 在るものは自分の見るものだけ、明かりに浮かぶ物だけだった。それらはなんのそれぞれに何のつながりもなく現れ、過ぎ去って行くように見えた。

 世界から切り離された、瞬間だけそこにある。——ように見えるそれらに美醜はなかった。論理から、因果から、切り離されたモノ達は、そのモノでしかなかった。それはただの——直ちに在るモノであった。

 僕はそんな瞬間瞬間の世界を走った。それは、大いに楽しいとまで言うものでもなかったが、別に、悲しいものでも、辛いものでもかった。

 どんな方向にも振れていない、未分化の心理だった。感情ともいえないような、それは、色の無い夢の中で思う色のごとく……。

 何も余計なことを考えずに、無意味の中を走った。現れるもの、それはすべて唐突であり、まるで世界とつながりのないように感じられた。

 弱い灯りに照らされた風景の細切れの断片。それが目の前を流れて行く中、自分もその一部なのだとしたら、同じように

 その自分自身の問いに答えられなかった。喉元まで答えは出かけるが、声にならないままそれは飲込まれた。

 だから進んだ。

 なぜそう思うのかは分からなかったけれど、どうしてもそうしなければならないのだと思え、ならばさらにペダルを踏む。

 であれば、それについて思い悩んだりしなければ、僕には分かっているのだった。問われなければ知っているのだった。動いているのならば嘘は追いつく事ができないのだった。

 だから止まれなかった。

 僕は、夜の闇の中を、川の堤防の上を、ついつ鼻歌を歌ってしまいながら、進み続けた。

 忘れれば、思い出さなければ、気分は悪くなかった。

 このままずっとここを走っていたかった。


 しかし……。


 この心地良いサイクリングは、突然、強制的に中断させられる事になった。堤防の上の遊歩道は、突然、補修工事のため通行止めになっていたのだった。

 いったん堤防に並行走っている車道に下りて、案内板によれば、百メートルちょっとくらいをやり過ごしたら堤防の上に戻れるようであったが……。

 一度止ってしまうと、

 ——何かに追いつかれてしまったようだ。

 僕は自転車を押して階段を下りて車道に出ると、そのまま自転車には乗らずに、少し先に見えた小さな公園まで歩き、そこにある木のベンチの上に深く腰をかけた。

 ずっと腕に掛けたままだったコンビニの袋を又のあいだに置くと、ゴツンと言う音。そう言えば、と中に缶ビールをいれたままであったことを僕は思い出し、何の気なしにそれを取り出すとてにもってそのままあけた。

 ぬるくなった上に自転車で散々ゆすられて、ビールは盛大に吹き出した。それを、僕は飛び散る雫を避けることもせずにただ呆然と眺めていた。

 それは不思議と心休まる光景だった。起きるべき状態にあることが、起きるべくして起きている、それはとても自分を安心させた。

 起こるべきことがただ起きて、終わるまでを待つしかない、その間、落ちてゆく間に感じる無重力のような、浮遊感を、僕は感じていた。感じながら、僕は、それをじっと見つめていた。

 吹き出すビールは、直ぐに勢いは弱まって、チョロチョロと泡混じりで僕の足元に滴り落ちるだけになった。僕はビールが、地面に吸い込まれてゆく、泡が始め消えるのを見ながら、それがすっかりなくなってしまっても、濡れた土をじっと見てしまっていた。

 時間が経った。蝉の鳴き声が聞こえてきた。夏はもう間近とは言っても、まだ蝉の鳴き出すような季節ではないと思うが、気の早い奴もいるもんだ、と思いながら、気になり出すとどうしても無視できないその鳴き声がどんどんと気になってしまう。

 僕は何処から聞こえてくるのだろうかと、辺りをキョロキョロするうちに、それは蝉の声でなく、自分の耳鳴りであったことに気づく。

 ああ、喉が渇く。無意識に、手に握りしめていたビールの残りを一気に飲み込みこんだ。すると、耳鳴りは、蝉の鳴き声かと思い込んでいたそれは、無くなっていた。

 かわりに口の中に温いビールのひどい苦みを感じ、そしてそれは僕の気持ちをはっきりとさせる。

 何か、心の中で弾けた物があって……。

 僕は立ち上がった。

 あらためて見る夜の公園は、白い街灯の光りに照らされて輝くプラスチックの遊具の動物達は、やたらとリアルに見えて、それが奇妙な感覚を僕に与えた。あまりにもしっかりと、表面の質感までも見えるため、色の無い光りに照らされた表面に、あまりに深さがないために、これらに僕は違和感を感じたのだった。

 違和感、それは現実性であった。ここは、アクチュアルではない、現実の場所ではないような気がした。

 現実と言うにはあまりに平ら過ぎる、——表面しか無い。その中に自らもいる。

 歩き、ラッコとパンダのスプリング遊具の間を通って、カバの小さな滑り台の前に立つ。その横の砂地に生える雑草も、街灯に集まって飛んでいる蛾や蚊もプラスチックの動物達と同じような表面だけの存在に思えた。

 僕はここ、表面だけのモノ達の集う、表面だけの世界、その中にいた。世界は今は表面だけであった。この白い平板な光りに照らされたなら、世界はそうなってしまうのであった。

 でも、それならば、僕を、今、僕自身が見る事ができたなら……、

 僕も表面だけの存在に見えるのだろうか?

 もしも、そうであるならば、それは、僕が表面しか無いのであれば、それこそが、不思議な事に、救いででもあるかのように、——僕には思えるのだった。

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