第7話 異星3

 ある日。

 僕は、この草原の先はどうなっているのだろうかと思い、歩けるとところまでと思って、ずっと歩いて行って見たことがある。

 と言っても。何の準備も無しに、暗くなる前には戻ってくるつもりで、衝動的に歩き始めただけなので、そんな物凄く遠くまで行ったわけではない。

 日の出から歩き始めて、太陽が一番高くなった頃、多めに見ても三十キロも進まなかっただろう。そのぐらいでは、出発した丘と、全く同じ風景が続いていると言っても良いような様子だった。

 ずっとなだらかに上下する草原、時々ある濃い緑の森、その間を流れる川、湧き水のつくる沼。咲く花は美しく、香しく、風、高い空を雲が流れ、煌めく太陽が時々隠れるそのリズムも心地良い。

 ここに来るまでずっとそんな光景が続いていた。

 美しく、爽やかな大地であった。

 少々単調な様子ではあったが、ゆるやかに変化する景色は、見ているうちに、その単調さがむしろ陶酔感を誘う。

 楽しいと言うよりは、気持ちよい、不思議な高揚感を僕に与えてくれた。

 このまま何処までも歩いて行けるような気がした。

 ずっと先まで、このまままるで景色が変わらなくても、僕は歩いて行きたいと思っていたのだが。

 しかし……。

 どうにも気になる事があった。

 この場所を歩くにつれて、言いようも無い、不思議な、自分でも説明できないような、違和感が心の奥にある事に気付いていた。

 それが何に対してなのかすらも分からなかったが、この草原を進めば進む程にその奇妙な感覚は心の中で大きくなって行く。

 でも、それは危険な感じではない。なのでそれは僕の歩みを止めるようなものではない。むしろその違和感は、蠱惑的とさえ感じられるもので、自分はそれをもっと感じたくてもっと先まで、先までと進んでいるような気さえする。

 繰り返すかのように続く同じ風景。その中を、進めば進む程に違和感を感じながらも、僕は止まる事無く、先へ先へと進む。

 その、違和感は、目眩のようなものを伴って、少し嘔吐感さえあったけれど、それがむしろ心強く感じられる。感覚があることが、気持ち悪さが、確かに進んでいると言う事の実感を僕に与えてくれて、それが好ましくてますます前に進み……。

 ——それは止まらなかった。

 暗くなる前に、太陽の方向を目印にして戻ろうと思っていたのだから、日が傾き始めたのならばもう引き返さなければならない時分であるのだが、僕の足は止まらなかった。

 進めば進むだけ得られる、実感。

 なんだろう。

 ……自分が在ると言うそんな確信。

 それが心地良くて僕はどんどんと進んで行った。

 本当に進んでいるのかどうかも分からない様にさえ感じる、同じような風景の中。

 いや、同じ風景ならばなおの事に感じられる。自分が進んでいる事を。

 風景を進む為に動いているのではない、自分が進む為に進むのだ。

 世界とは別に、自分が在るのだ。

 つまり、止まる事は無くなる事を意味した。

 自分が無くなる事を。それが感じれなくなるかも知れない事を。

 であれば止まれない。

 僕は歩いた。ただ歩いた。

 止まれなかった。進み、ただ進む。

 もう引き返しても明るいうちには戻れないであろう場所、そんな時間をとっくに過ぎた。

 星を目標には戻れない。それは自分が知っている(過去の記憶が無いのに星の形は覚えているのは不思議だが)その形とは全然違う。

 それは、この草原で気がついてからしばらく過ごすうちに分かっていた。なので、それから方向を割り出す事はできなかった。

 ならばもう止まるべきであった。

 月も今日は昼に上った、夜半には沈むだろう。

 それなら、夜には動かずに朝まで待つのが良い。

 明日の朝、日の出の方向に向けて歩き出した逆に進むならば、僕は元の場所に帰れるはずだ。

 別に正確に元の場所に帰れなくても良い。

 あの丘の人々は、周り十キロ程度までは良く散策をしているので、それを見つけて後に着いて行ったならば、確実に帰れるに違いなかった。

 最後には、必ずあの巨人の横たわる丘に戻る人々に着いて行けば。僕も必ずそこに戻れるはずなのだ。

 コンパスも時計も無く、カンで時間と太陽の方向の補正を行いながら歩いて来たとは言え、そのくらいの精度でなら、方向を間違わずに進める自信があった。


 ——明日の朝まで待ったのなら。


 しかし、夕焼けの空が暗く、星が瞬くような時間になっても、僕は止まることもできずに歩き続けていた。月も沈み、足元もよく見えないような暗闇となっても、止まらずにさらに歩き続けた。

 すると、瞬く間に方角を失った。暗闇の中を歩くのだから当たり前だった。

 しかしそれでも止まらなかった。向かっている方向はさっぱり分からなくなったまま、僕は更に歩き続けた。

 うっかりと川や沼にはまってしまわないように風に乗る水の匂いに気をつけながら、少し慎重な歩みにはなっていたが、しかし決して足は止めなかった。

 今、この瞬間に止まる事は、自分を消してしまう事になるような気がしてならなかった。

 歩き続けると、僕が僕である事を取り戻す事ができるような気がしたのだった。

 なぜそんな風に思うのか、自分でも意味が分からないのだけれど、それは理屈でなく、そうとしか思えないのだった。

 苦しかった。

 歩く事の疲労がではない。乗り物酔いのような気持ち悪さ、何か世界の認識が定まらないような、そんな精神的な動揺が僕に次々に襲いかかって来た。

 ここは、この世界は、こんな事をする場所ではないのかも知れない。こんな風に、遠くへ向かっては行けない場所なのかも知れない。僕は何か禁忌を侵そうとしているのかもしれない。

 なので、世界はそれを止めようとしているのかも知れない。

 なぜなら……。

 あれ?

 もしかして、何か思い出しそうな気がする。

 失われた記憶の断片が少しずつ。瞬間瞬間の光景がなんのつながりも無くフラッシュバックのように。浮かぶ。

 荒れ果てた大地。

 不思議な建築物。

 赤い空……。

 落ちていたノート。

 僕は……。

 

  <見ては行けない>


 僕は後ろから何ものかが話しかけたような気がして立ち止まり、振り返る。

 しかし、そこにあるのは暗闇。誰もいない。

 少なくとも誰も見えないし、何の気配も感じない。濃い闇が降りた野には夜しかない。

 なので僕はまた歩き始める。

 さっき思い出しかけたイメージの断片は、もう何処かに行ってしまい。歩いても思い出す事は無かった。

 しかし、そのイメージは言葉に変わって、僕の目の前に浮かんでいるような気がした。

 言葉は暗闇の中にあるように思えた。

 言葉は色に変わって漂って、暗闇の中では見えないが、見えない色でも色は色。

 色々。

 それが僕の目の前に浮かんでいるはずだった。

 しかし僕には見えない。

 暗闇にある色は暗闇。

 僕はそれを求め必死に歩くが、追いついても見る事ができないまま、進む、僕は、次第に暗闇の中に、そこに満ちた見えない色、言葉の中に溺れていった。

 そしてもがく。

 水に溺れたものが、空気を求めもがくかのように、僕ももがく。

 濃密な意味から逃れ空白を求めもがく。

 しかし、気付けば、僕は、いつのまにか前向きに倒れ、立ち上がることができずにいた。

 僕は夜の底に沈み、横たわり、それでも前に、地面の中に進もうとしている。

 僕は草地に頬をつけたまま倒れ、自分でも意味の分からないうわ言を繰り返している。

 そんな自分が、何をしているのか、それは分かっていた。

 立ち上がらなくても良い。このまま休み、朝まで待てばよいだけであるのに。

 止まらない。空気を求め、僕はもがく。

 濃密な、

 夜の底、

 色の底、

 言葉の底。


 そして……。


 朝。

 太陽の光りが眩しくて、僕は目を覚ました。

 いつの間になのか全く覚えていなかったが、目を覚ましたと言う事は、いつの間にか寝てしまったのだろうか。

 寝たと言うよりは気絶に近い状態だったのかも知れないが、どちらにしても、昨日の夜の状態からすると信じられないくらいの、すっきりとした気分だった。

 僕は横になり、赤ん坊のように縮こまって寝ていたようだ。

 ずっとその体勢でいたようで、夜明けから太陽に照らされていた。後頭部が少し暑い。

 なので、僕は寝返りをうち、仰向けになる。

 そして、そのままもう一度目を瞑り、瞼に太陽の熱をほのかに感じながらそのままじっとしていた。

 昨日からしたら、信じられないくらいに、僕は落ち着いていた。

 夜の、追いつめられたような感情、焦燥感、使命感はさっぱりと無くなっていた。思えば、昨日の自分はどうしてあんなにも止まる事を怖れたのか、まるで分からなかった。

 ちょっとおかしくなっていたのかも知れない。

 身体は疲れていないつもりでも、遠出の疲労に思考も影響されたのかもしれない。

 ともかく今はまともだ。

 頭もはっきりとして、身体に疲労や痛みはあるものの、少しでも寝たおかげかだいぶ回復しているように思える。

 きっと、もうちょっと休めば、来た距離を歩いて戻る事だってできそうに思える。

 思ったよりも疲労がひどければ、一日ではなく二日をかければ大丈夫だろう。

 たぶん体力的には問題はない。その心配はしていない。

 しかし方向が問題なのであった。僕には、日が暮れてから何も見えない中で何も分からずに歩き回ったせいで、自分がどの方角にどれくらい進んだのかさっぱり分かっていなかった。

 もし夜のうちに大きくずれて進んでいたとすれば、果たして簡単に元に戻る事ができるだろうか。

 東にむかって歩いているつもりの自分であった。しかし、もし夜のうちに南北に大きくずれていたとすれば、ここから西の方向へと戻るために進んでも、同じような丘の続くこの草原で、果たして、元の場所を通りすぎてしまわないだろうか。あるいは、全く見当違いの方向へどんどんと歩き、二度と戻れないような遠くへ僕は歩いて行ってしまわないだろうか。

 あるいは……。

 いや、心配はいくらでも浮かぶ。

 しかし、

「取りあえずは動いてみなくては」 

 心配だけしててもしょうがない。

 僕は決意を口に出して言うと、とにもかくにも、起きて進み出そうと目を開けて立ち上がろうと上半身を起しかけるが……。

 ——笑い声。

 びっくりして身体を止め、目を開けると、上には、面白そうに笑いながら僕の顔を覗き込んでいる女性。

 ——レアだった。

 僕はびっくりして、

「レア」と叫ぶ。

 彼女は何もかもが分かっていると言った風な深い首肯の後、僕に手を差し出す。

 僕はその手を取って起き上がる。

 ここは?

 僕は、立ち上がると、慌てて周りを見渡すが……。

 直ぐ横には、あの、身動きもせずに横たわる巨人の姿。

「戻って来ていたのか?」

 僕はびっくりしてもう一度まわりを見渡した。

 確かにその場所であった。丘から見下ろす、草原。幸せそうに歩く人々。水辺の宇宙船……。

 僕は夜のうち方向も分からずに歩き、いつのまにか元の場所に戻っていたのだろうか。なにも考えずに歩くうちに偶然元の場所戻って来たのだろうか。

 あるいは昼のうちに方角を間違い同じようなところをぐるぐるとしてしまっていたと言う事はあるだろうか?

 それにしても——。

 倒れた場所が巨人の真ん前であるなどと、そこまでの偶然など、「偶然」にあり得るのだろうか。

 何者かが仕組んでいると考えた方が良いのではないか。

 そんな考えが僕の頭に浮かぶ。

 今のこの事だけではなく、楽園のごとく穏やかで美しいこの場所は、それ自体が何か仕組まれているものなのではないか。

 偽物なのではないのかと……。

 そう思えば何もかもがしっくりと来るのだと。

 そう考えた瞬間。

 僕は、何か例えようも無い寒気が自分の背中を駆け抜けるのを感じ、

 

  <忘れろ>


 そして——全て忘れたのだった。

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