第6話 地球? 2

 コンビニで買ったビールの入ったビニール袋を片手にかけたまま、アパートから遠く、無意識に帰り道の反対側、反対側へ。僕はそんな風に自転車を走らせてしまっていた。

 初夏の蒸し暑いながらも、夜の風は涼しく心地よく、少しは気持ちも晴れて、どんよりと鬱屈した気持ちで自分の部屋の中にいるよりも、余程ましなものだと思えた。

 ならば帰りたくなかった。

 最初はちょっとした気晴らしに買い物を、と思った程度の外出であったのだが、何の気なしに踏んだペダルは、自然に、遠く遠くへと自分を運んで行くのだった。

 何処か目的地が思い浮かんでいるわけではなかった。

 何も考えずに僕はただ自転車を進めるのだった。

 しかし、それが自然に僕を遠くへ遠くへと運んだ。

 どこに向かうのか分からなかった。自分がどこに向かいたいのか分からなかった。

 ただ無意識に僕は曲がる角を選んで進んだのだ。朦朧としながら自転車を走らせていた。

 すると——。

 通るのは、灯りも少ない寂しげな道だった。

 いつの間にこんなところまで来たのか。

 僕はそれを覚えていなかった。

 まるで夢。その中を走っているかのような気分であった。

 まわりの暗闇は——夢——僕の無意識とつながって、それが、この暗闇が、この世界に満ちる思考以前の感覚が、僕を包み、導く。

 思考以前の原始的な感覚により、僕は行くべき方向を決めているのではと言うような考えが心の中に浮かんだ。

 とても小さな、か細き声が暗闇から聞こえたような気がした。

 それは、風の音か何かの音を聞き違えたのだとは思う。まわりには誰もいない。

 しかし、その声の引き起こした感情は僕にとっては間違いないもの、確かなものであった。

 それは、まるで色のようであった。

 声でない声。意味とならないそれ。

 形とならないその感情は色のようであった。

 匂いのように、味のように、肌にまとわりつく湿気のような。

 そんな言葉にできない感情の中を僕は走っていた。

 静かだった。

 時々聞こえる音がさらに静けさを増した。

 車のクラクション。どこかで叫ぶ酔っぱらいの声。犬の吠える声。

 無音よりも静かな、そんな夜の郊外だった。

 誰もいない。何も無い。いないよりもいない。無いよりも無いこの場所、

 街灯に集まる蛾よりも清純で、電信柱のように控えめで、作りたてのガードレールのようにふざけている。

 そんな場所。

 意味の死んだ場所。

 そんな所に、今、僕は落ちる。

 螺旋を描き、ポテンジャルの一番下に次第にずり落ちてゆく。

 僕が、そうやって引き込まれてゆくのは夜の最も濃い場所。

 何処かの家の開けはなたれた窓から漏れるテレビの音が聞こえた。

 緊迫を告げる世界情勢の後に始まる能天気な洗剤のコマーシャル。

 僕はその陽気な音楽を思わず口ずさんでしまう。

 笑う。

 思わず自分が歌っていたことに。

 この人通りのない夜の道で、誰に聞かれていたわけでもないが、キョロキョロとまわりを見渡して、ごまかすかのように、照れ笑いをする。

 しかし、それが、照れ笑いが、誰にも見られていない事に気づくと、少し悲しくなる。

 孤独。

 もし自分一人だけの宇宙があったのなら、そこにそれはあるのだろうか。

 そんな事を僕は突然思う。

 比べるもののない暗闇の中で、照らす光もないなかで、僕は孤独などと言う感情を持つことができるのだろうかと。

 どうなのだろうか。

 暗闇。

 それが答えをくれないだろうか。

 僕は問いかけるが。

 静寂。

 それが答えなのだろうか。

 それとも解は……。


 ——星空だった。 


 目の前の突然に開けた風景にびっくりして僕は自転車を止めた。

 突然視界に飛び込んで来た星々を見てその意外性に驚いてしまったのだった。

 角を曲がったら突然見えたのだった。何処までも続いて行くように思えた郊外の住宅街が、突然終わり、そこには宇宙。

 それに、現れた星空に、僕は、思わず自転車を止めてしまう程に爽然としたのだった。

 走っているうちに、僕はいつの間にか川べりに出たらしかった。

 目の前、突き当たった道の先には堤防があって、そしてその先にはもう何も、

 ——星空しか無かった。

 ああ。

 僕はその光景に感動しながら、

「あそこに行ってみたいな」

 と声に出して呟いた。

 僕は、自転車を降り、それを押しながら、堤防の階段を上った。

 行きたいのは、そこでは、堤防の上ではないのだが。

 しかし、星空に、これで少しは近づいたのか。

 と思いながら上る。

 そうしたら、

 ——風。

 川に沿って吹いて来る涼しい気持ちよい風だった。

 僕は、その風に吹かれれば、即座に、この後は、このまま堤防沿いに進むことに決た。

 暗く少し治安に不安な感じもしたが、住宅街の中の道を進むよりも、断然、こっちの方が気持ち良さげであった。

 と思えば迷いは無かった。

 そう決めたなら、僕は、直ぐにもう一度自転車にまたがった。

 何となく、少し昂った気持ちのうちに、走り初めてしまいたかったのだ。

 僕はペダルに足をかけ、もう一度空を見て、

「どんなとこなんだろうな」と。

 星と星の間、暗黒に向けて言ってから自転車を走らせる。

 暗闇の中。宇宙から続いているようなその闇の中へ。

 自分自身に何事かずっと問いかけながら、答えが来るよりも早く早く。

 僕は川に沿って自転車を進ませた……。

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