ゲルインク0.7ミリメートル


 人類は古来よりボールペンで文字を書き、自らの意思を宣言し、連綿と続く文化を紡ぎ、そして悠久の物語を伝え記してきた。


 文具の世界には様々なボールペン達がいる。水性ボールペンは軽やかな書き味で悲哀に満ちたストーリーを書き連ねて、流れた涙は文字を滲ませてきた。油性ボールペンは勇ましい宣言を高らかに紙に刻み付けて、その力強い筆跡は五十年経っても掠れる事はなかった。ゲルインクボールペンは多彩な色で鮮やかに文字を飾り立て、エマルジョンボールペンは滑らかに文字を綴る水性と濃く強く文字を刻む油性の双方の特性を活かしてペンを華やかに踊らせた。


 吹き抜け構造のメインストリートの向こうにホームセンター名物の中央大階段が見える。世界三大瀑布イグアスの滝を彷彿とさせるアーチを描く外観の中央大階段を臨み、文房具ストリート交差点から奥まったエリアへ抜けて、筆記用具売り場ボールペンコーナーにそれらの名だたるボールペン達が大挙して押し迫るように展示されている。どれを取っても試し書きし放題だ。


 日差彦は誰もがその名を耳にした事がある国内有名メーカーのゲルインクボールペンを手に取った。しっかりとした濃い黒のノック式で、ボールポイントの直径は0.7ミリメートルだ。


「やっぱりゲルインクだよね」


「いやいや、私は特にボールペンに思い入れないから」


 首をぶんぶん横に振ってやる有花。大型店舗内小規模店舗のように各メーカーごとにブロックが仕切られて、メーカー自慢のボールペン各種が一本ずつ、そしてケースでずらりと陳列されていた。展示ブロック前にはデスクが並び、試し書き用の大きな模造紙が敷かれている。有花は細長くスペースが仕切られたボールペン売り場を見渡して、模造紙に綴られた雑多な文字群を適当に拾い見た。


 そこは文字列の坩堝だ。ホームセンターに来て悟りを開いたのか『色即是空、空即是色』とやたら達筆な文字で書かれていたり、夕食の食材買い出しメモか『ブタ肉、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ』とクセのある角張った文字が並べられていたり、いったい前後にどんな会話が交わされたのか『ロカクってどう書くんだ?』と乱暴に書き殴られていたり、それはまるで宝のありかを記した秘密の地図のようにどこかの売り場の手書きマップが書かれていたり。


 拡げられた模造紙の海に渦巻いているのはまさしく有象無象の情報群だ。誰に宛てた訳でもない意味を成さない情報が蓄積し、ホームセンターを訪れた人々の無為の囁きとして古い地層のように幾重にも折り重なっている。


 平日のお昼過ぎだと言うのに、有花と日差彦も含めてそこそこの数のお客様がそれぞれ好きなボールペンを手に取り、謎の図形や意味のない文字列を試し書きしていた。


「ここが餌場なの?」


 さて、こんな場所で何をするのかと日差彦を見れば、ゲルインクボールペンでくるくると模造紙に時計回りの螺旋を描きつつ、きょろきょろと周囲に目を配っていた。ふと有花と視線がぶつかり合うと、日差彦は有花に小さく手招きして手元の模造紙に手慣れた様子で文字列を書き込む。


『ここでは筆談をするんだ』


「ひつ、だん?」


 最新のロボット技術が惜しげもなく注ぎ込まれた最先端の無人販売システムのホームセンターで、いったい誰と筆談すると言うのか。有花は日差彦のクセのある角張った文字をじっくりと読み込んでみた。何度読み返してもやはり筆談としか読めない。


「ちょっと意味がわかんない」


『対話ログを残したくないんだって』


 日差彦は模造紙の空いているスペースに書き込んだ。雑多に書き綴られた文字群の中を日差彦の文字列はうねるようにして隙間を埋めていく。


 有花が首を傾げてそれらの謎めいた文面を読み解こうとしていると、そこへ一体の接客応対ロボットが転がりやってきた。日差彦の首からぶら下がる入店タグから顧客情報を読み取り、日差彦と有花の間に割って入るようにして接客を始める。


『ぅいらっしゃいませぇー。ボールペンはあなたを待っていましたぁー。多賀日差彦様はゲルインクがお気に入りですねぇー』


「うん、そうだな。太くて濃い書き味がいいな」


 捕まってしまったか、と日差彦は素直にトコの顔を見ながら返事をした。


『四日前は水性の0.25ミリメートルの極細ローラーボールをお試しになりましたがぁー、六日前にお試しになったのはやっぱりゲルインクの0.5ミリメートルでしたよぉー」


「そうだっけ? そこまで覚えてないぞ」


『トコは何でも知ってますぅー。対話ログを再生しましょうかぁー?』


 日差彦は、ほらね、と言った顔で有花に目配せしてゲルインク0.7ミリメートルのペン先を走らせる。


『トコは手書きの文字が読めないんだ』


 日差彦は器用な事に、筆談とは違った内容でボールペンと同時に舌も動かした。


「気に入ったのがあったらそれを買うからさ、今は好きに試し書きさせてもらえるか?」


 トコは文字を書き連ねる日差彦の手元へ顔を向けて、少し首を傾げるような仕草をしてからまた彼に向き直った。


『はぁーい。ぜひお気に入りの一本を見つけてくださいねぇー』


 明るい声でそう言うと、トコは日差彦にくるりと背中を向けて隣に立つ有花の方へ一歩転がり出た。フェイスのアスキーアートが有花をちらっと上目遣いに見る。接客攻撃が繰り出されるか、と身構える有花だが、トコはすぐに有花の胸にぶら下がる旧式入店タグから情報を読み取り、ニコッと微笑んだアスキーアートを一瞬だけ見せてからするっと通り過ぎた。


「うわ、またスルーされたよ」


 思わず愚痴ってしまう有花。しつこい接客がないならないでそれに越した事はないが、どうにも仲間外れにされたような疎外感が残る。


 接客応対ロボットはがっくりと項垂れる有花のすぐ後ろでボールペンの試し書きを始めた男性客に明るい接客攻撃を仕掛けた。


『お客様、お目が高い! 時代はやはりエマルジョン0.5ミリメートルですねぇー。書き心地はいかがですかぁー?』


「いいからあっちに行ってろ」


『はーい。何かボールペンに関してのご質問がございましたら何なりとどうぞぉー』


 男性客の乱暴な切り返しにもめげずに、トコは次の接客目標を探して球状の脚を転がして駆けていった。


 有花がその健気な後ろ姿を丸眼鏡の奥から愛おしく見送っていると、いつの間にか乱暴な男性客が彼女のすぐ隣まで歩み寄っているのに気が付いた。


 試し書きし過ぎて手元の紙にスペースがなくなったのか、と有花が小さく一歩ずれてやると、その男もまた一歩深く踏み込んできた。


 ちょっと、近いって。有花はサイドステップを踏むようにしてひょいと避けた。日差彦と肩と肩がぴったり触れ合うまで横移動して場所を空けてやったのに、その男はさらに身体を寄せてきて、ついには男女男と三人が肩を寄せてボールペンの試し書きをしていると言う奇妙な光景を作り出してしまった。


 日差彦がボールペンを動かす手を止めてその男をじろりと睨む。その男もエマルジョン0.5ミリメートルを休ませて日差彦を睨み返す。間に挟まれた背の低い有花は二人の男を交互に見上げる。


 そして日差彦は少しわざとらしい抑揚をつけて言った。


「こんにちは。そっちのボールペンの書き心地はどうですか?」


 それを聞いた男も示し合わせたように芝居がかった口調で返す。


「悪くないな。このボールペンならいい商談ができそうだ」


 有花はすぐにピンと来た。


 これは合言葉だ。ボールペンを握りしめた二人の男達がこれからロボットに見つからないよう筆談による商談を始めるのだ。


 日差彦がゲルインク0.7ミリメートルを滑らせる。


『米が欲しい』

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