不満ヒューマン
ない。
有花の右手が胸の辺りをさわさわとまさぐる。ない。左手が太ももを撫でるようにしてスカートのポケットを探る。ない。お尻を弾くように尻ポケットを叩く。ない。
ないったらない。
孤独感を煽るような無機質な灰色の小部屋で、有花はしゃがみ込んでリュックサックの中身をぶちまけた。こんなところにあるはずもないと解っていながらもやらずにはいられない。
ロシア製軍用ビスケットがどさりと落ち、台湾無糖茶のペットボトルがごろり転がる。鯖照り焼き缶詰がその後をころころと追いかけて、小さなチェック柄の洗面用具ポーチがぽとり、くしゃくしゃに丸まったタオルがぱさり。やはり入店タグは出てこない。
「落ち着け、有花。落ち着きなさい」
ふう、と胸に溜まった重たい息を大きく吐き捨てる有花。気を落ち着かせるためにちょこんと正座して、散らばった所持品を再びリュックサックに詰め込む。さあ、落ち着いたところで考えろ。
今日になってからまだ有花は入店タグに触れていない。タグは首からぶら下げる仕様だ。財布やスマホと一緒にポケットに突っ込んだりはしない。首からぶら下がっていないと言う事はどこかで落としたか。
「着替えた時に落としたかな」
無くした場所として考えられるのは何よりも隠し寝床だ。ベッド一体型学習机のベッド下隙間、パジャマ代わりのジャージに着替える時に首から下げたタグごとシャツを脱ぎ捨ててしまったか。
いや、それもない。有花はホームセンター内に隠れて衣服を脱ぎ去ると言う異様なシチュエーションに奇妙な高揚感とささやかな背徳感を味わった。そのうなじがむずむずする感覚はしっかりと覚えている。その時にはすでにむずむずする首には入店タグはぶら下がっていなかった。
「どこよ、もう」
有花は丸めた背中にリュックサックを背負い直し、とぼとぼとエントランスの小部屋から抜け出た。狭い灰色の空間から天井の高い賑やかな空間に一気に突き出される。華やかな色使いのキャンプ用品が陳列された緑豊かな高原のような特設売り場に、ホームセンターは有花を招き入れてくれた。しかし歓迎はしてくれなかった。
入店タグがない以上、有花はお客様になり得ない。
一機の接客応対ロボットがエントランスから姿を現した丸眼鏡の人間を見つけ、バランスボールのような脚部を器用に転がして近付く。入店タグをスキャンしようとフェイスマスクを向けるが、この人間はタグを所持していなかった。
入店タグを持つ事は、当ホームセンターの利用規約に同意する事を意味する。ホームセンター内にいる以上はホームセンターのルールに従わなければならない。そんな大事な入店タグを持っていない人間はお客様ではない。処理は後回しだ。接客応対ロボットは有花の顔をちらっと一瞥しただけですぐにそっぽを向いて走り去った。
「そんな、トコちゃんに無視されるなんて」
そう言う事か。有花はがっくりと膝から崩れ落ちそうになった。隠し寝床からこのエントランスに至るまでの長い道のり、ロボット達による接客攻撃に晒されなかったのは単なるラッキーが続いた訳ではなかったのだ。お客様として認知されず、接客手続きをスルーされていただけだった。
このホームセンターの閉じた世界の中でたった一人、お客様でも従業員でも業者さんでもない、何でもない存在としてただそこにいるだけの人間だ。そこらに落ちている塵や埃の方がまだ清掃ロボットに感知される存在意義がある。有花にはそれすらない。
クローズドワールドとしてのホームセンターがホームセンターたる確固とした所以を構築するパーツに、吉野有花と呼ばれるちっぽけな人間は含まれていなかった。自分はホームセンターに必要とされていない。柔らかな身体に孤独と言う歪な傷が刻み込まれる。その消えない傷を抱きながら、きっと短いであろう生涯をこのホームセンターから出られずに暮らしていかなければならないのだ。
「なんて、感傷に浸ってる場合じゃないわ」
有花は高い天井を見上げた。一機の高機動ドローンが巡回バス通りに沿うように旋回していた。エントランス側に佇んでいるにも関わらずやはり有花はスキャンされず、トコちゃんが近付いてくる気配もない。
さあ、どうする、有花。ホームセンターから出るために何から始める?
有花はスマホを見つめて自分自身に問いかける。バッテリー残量は8%。誰かに電話するとしても、そのチャンスは数回もなさそうだ。出来れば日差彦と連絡を取りたい。昨夜一緒にいたのだ。有花の入店タグに関して何か覚えている事があるかも知れない。それに日差彦はジョイトコチャレンジ完全宿泊組だ。こんな平日午前中でもホームセンター内をうろついている可能性は高い。
「日差彦くんと連絡先交換しとくべきだったな」
しかし有花は日差彦の電話番号もメールアドレスも知らない。と、なれば。知っているはずの人物へ連絡を取るしかない。
スマホの通話履歴を親指で手繰るようにスクロールさせ、その人物の名前を見つけ出してタップ。と、意外にもコール音が一回鳴り終わる前に電話は繋がった。
『小西だ』
「もしもしもしっ、砂織さん? 私です。吉野有花ですっ」
『ああ、知っている。どうかしたか?』
電話の相手は小西砂織。ジョイトコ友の会会員にして有花をジョイトコへ誘い入れた張本人だ。
「あのねっ、私、今ジョイトコにいるんですけど、出られなくなっちゃって、タグをなくしちゃったせいで、それでっ、日差彦くんの電話番号教えて欲しいんですっ」
『……深呼吸してもう一度言ってみな』
有花はスマホを両手で包み込むようにして、言われた通りに深呼吸を一つ、そして吐き出す勢いでもう一度まくし立てる。
「だからっ、ゆうべ日差彦くんと会って、さっき一度帰ろうとしたらホームセンターから出られなくって、入店タグをなくしちゃったみたいなんですっ。日差彦くん何か知らないかなって思ったんだけど、電話番号知らなくって、スマホのバッテリーが残り8%!」
『……要約すると、多賀と吉野は夜のホームセンターで入店タグを首から外すような事をして、スマホの充電も忘れて朝を迎えてホームセンターから出られないんだな。おめでとう』
「無理矢理誤解してません?」
『他にどんな解釈が?』
残りバッテリー7%。とは言えいつもこの数値に騙される。ここから一気にバッテリー切れを起こしてもおかしくない数値だ。
『夜のホームセンターはアバンチュールだ』
「意味解りませんっ。とにかく、入店タグをなくしちゃってホームセンターから出られないんです。どうしたらいいですか?」
数秒間が空く。有花はじっと息を止めて砂織の返事を待った。残りバッテリー6%。
『アバンチュールな事があったかどうかは後で聞くとして、まずはタグの使用停止を申請しないといけないな』
「使用,停止?」
『ああ。吉野のタグを拾った誰かがそれで買い物したら大変な事になるぞ』
有花は言われてはじめて気が付いた。入店タグはクレジットカード情報と直結している。まさしくクレジットカードを紛失したようなものだ。
「それって、どうすればいいんですか?」
『そこらにいる接客ロボット捕まえて、タグの再発行手続きをしてもらうといい。どいつでもやってくれるはずだ』
有花は思わず周囲を見回した。普段なら視界のどこかに姿が見えているはずのロボット達も、このキャンプ地のような特設売り場には一機もいなかった。あれだけいる接客応対ロボット達はどこに消えたのか。
「トコちゃんに再発行手続きですね?」
『ああ。後は多賀の連絡先か。あいつならホームセンター内で自転車乗り回してるだろ。探せば見つかるはずだ』
「そんな無茶なっ」
『あたしは今講義中だから助けには行けないが、一人で何とかしてみせろ』
「講義中電話しちゃダメですよ」
『吉野が電話してきたんだろうが』
バッテリー残量4%。
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