キサラギ・サラは帰らない

「何だってんだよ、こんな所へ呼び出して」

 夜、人気の無いプール棟で、日比野先輩が僕に不機嫌そうに言った。

 例の窓枠を外して建物の中に入り、僕らは明かりも点けないまま、二人きりで水の枯れたプールサイドに立っていた。

 このことはハインツにもカルフにも、内緒だった。

「聞きたいことがあるんです」

「昼間にしてくれりゃいいだろう。サラのことだろ? 前にも言ったけどな、俺はあの件には疎いんだ。あいつが自殺した時、寮で仲間と――」

「自殺、ですかね」

 日比野先輩の顔色が、憮然とした表情に変わった。

「何を言ってる。もう警察が調べたんだぜ。間違いなく自殺だ。調べりゃ判るんだってよ、自分で首を吊ったのか、そうでないのかなんて」

「サラ先輩が自分で首を吊った。自分の手で、自分の意志で。でもそれだけで、自殺と言えるんでしょうか」

 迷惑さを隠そうともせずにふてくされていた日比野先輩が、ようやくまじめな顔付きになって来た。

「もう一回訊くぞ。……何だってんだよ、お前」

「もう新しい彼女を見つけたんですか」

 相手の質問に答えずに、自分の言いたいことだけを告げる。それも、相手が無視出来ない内容のことを。

 あまり好きなやり方ではなかったけど、この場合は有効だった。日比野先輩が鼻白む。

「……何だ。人のことを嗅ぎ回りやがって」

 本人にはばれない様に最大の注意を払って、僕は日比野先輩の新しい恋の裏を取っていた。

 彼がサラ先輩から別の女性に乗り換えようとしていることは、高等部では有名だったので、すぐに確かめることが出来た。

 しかし、

「出まかせだったんですけど。そうですか、当たってましたか」

 彼の神経を逆なでするために、敢えてそう言う。日比野先輩の表情を見ると、それは成功したようだった。

「人目につく所で、サラ先輩とけんかすることもあったみたいですね。別れ話、うまくいってなかったんですか」

 これは本当に出まかせだった。けど、近いことはあっただろうと見当をつけていた。

「おい。……おい。まさか、俺がサラを手に掛けたと思ってるんじゃないだろうな。確かに、ちょっともめてはいたさ。でも、そんなことで人一人をどうこうしようなんて思うわけ無いだろ? それに、警察を煙に巻く様なトリックなんて俺には考えつかないぞ」

「でも、サラ先輩を死なせたのはあなたです。首を吊らせたのはあなただと、僕は思っています」

 がんっ、と鈍い音がした。

 先輩が手近な壁を殴った音だった。

「いい加減にしろ! ふざけるな! 寮にいた俺がどうやって、サラに手が出せる!」

「その前に、会っていたんじゃないですか? サラ先輩と。女子寮の、サラ先輩の部屋で」

 ぐっ、と日比野先輩が息を呑んだ。

「それが……どうした」

「想像を交えて、ですけどね、当日何が起こったのか、僕なりの考えをお話しします。まず、サラ先輩はとても心を許している誰かと、自分の部屋で会っていた。そしてその時、睡眠薬を飲んで眠った。弱い睡眠薬をサラ先輩は常備していたというのは、女子寮の寮母さんに聞きました」

「おい、待て。薬のことは確かにそうだが、あいつの部屋でそんなことがあった証拠がどこにあるんだよ」

「日比野先輩。これは、足場から順に組んで行って、高みにある答に到達する様な話じゃないんです。空中に浮かんでいる答から、地面に向って階段を下ろす様なものなんですよ。だから、最後まで聞いてください」

 ちっ、と彼が舌打ちするのを聞き流し、僕は続ける。

「その誰かは、女子寮で会うのがはばかられる相手、つまり男性だった。だから寮に入る時、誰にも見られずに忍び込んだ。そして眠った彼女をこれも人に見られない様に運び出して、プール棟に向った。もう冬ですからね、すぐに暗くなる。女子寮から出さえすれば、簡単に運べたでしょう」

 日々の先輩の目を見る。

 一度絡まった視線は、向こうから外した。

「仮に見つかっても、場面としては彼氏が彼女をおぶっているだけです、不思議なことじゃない。人に見られたら、この後に行おうとした行為の一切を中止すればいいだけのことです。途中でサラ先輩が目を覚ました場合も同じ。何のリスクも無い。プール棟の窓が外れて出入りが出来るのは、この学校の多くの生徒が知っています。でも、そこから人を一人運び入れようとすれば、これは女性には難しい。やはりその誰かは、男性だったんでしょう」

 日比野先輩はじっと聞いている。

「プール棟に入った誰かは、プールサイドにサラ先輩を寝かせ、その首に用具室から出したロープを巻きつけ、もう一方の端を潜水用プールの手すりにくくった。そして潜水用プールを挟んで、サラ先輩を寝かせたのと逆側のプールサイドにラジカセを置いた。実はここの用具室に忍び込んだ時、何もかも埃だらけの中、ラジカセがずいぶん強く光を反射していて。つまり埃が薄くしか積もっていなくて。不思議だったんですよ、部屋ごと忘れられた様に放置されている用具室なのに、ラジカセだけは最近何かに使ったのかなって。それを考えた時、ここで何が起こったのか、大体見当を付けられました」

 日比野先輩が苦笑した。

「おい、まさかそのラジカセに俺がサラを呼ぶ声を吹き込んだテープを入れて、プールの向こう側から鳴らしたら、それに目の見えないサラがつられて起き出して、プールの中に落ちたなんて言うんじゃないだろうな」

「さすが、よくご存じですね」

 先輩の笑みが強くなる。醜悪な笑顔だった。

「そんなのが上手くいくわけ無いだろ。あいつは聴覚はまとも以上だった。ラジカセの音か俺本人かなんてすぐ判る。首に縄なんぞかかってればなおさら不審に思って、そうそう迂闊に歩き回ったりするかよ」

「ラジカセから鳴ったのは、あなたの声なんかじゃありませんよ。サラ先輩がいつ目覚めるか解らない以上、彼女にラジカセを確実に聞かせるには、下手すれば数十分から数時間分の音を録音しておかなきゃならない。人間の声を吹き込んでおくのは非現実的です。ラジカセじゃあ目覚めたサラ先輩と会話も出来ないから、サラ先輩から声をかけられたらすぐに録音だとばれますしね。それに、もうテープは回収したんでしょうけど、もし回収する前に警察がラジカセを調べられてしまってあなたの声のテープが出て来たりしたら、一気にあなたの立場は悪くなる。そんな直接的なものじゃいけない。おそらくテープに吹き込まれていたのは、雷雨の音です。演劇部がよく、嵐の演出の時などに使う様な。これなら第三者に発見されても、すぐにはあなたに結び付かない。リピート設定にしておけば、エンドレスに流れ続けますしね」

 日比野先輩が、息を呑んだ。

「サラ先輩が自分の部屋で睡眠薬を飲んだという考えは、ここで生きて来るんです。サラ先輩が目を覚ましたら、当然自分がいる所は眠る前と変わらず、自分の部屋だと思う。そんな時に強い雨音が聞こえて来たら、彼女は思わず窓際へ駆け寄るでしょう。大切な恋人からもらった観葉植物を毒となる過剰な水分から守るため、窓が閉まっているかを確認しようとして。そして……プールの中へ、落ちる。そうなる様に誘導した人間が、別の場所にいる時に、一人で死んでしまう」

 日比野先輩を見る。狼狽している彼は、ひどく、薄っぺらく見えた。

「おい、さっきの問題が解決してないぞ。首に縄がかかったまま、歩き回るやつがいるかって。証拠は何一つないし、第一そんないい加減な仕掛けで殺人が出来るか?」

「殺人は出来ませんよ。殺すつもりが無かったんですから」

 先輩の呼吸が、凍りついた。

「おっしゃる通り、こんな方法で殺人は無理です。首の縄の件もそうですし、警察をごまかし得るためのせっかくの雷雨の音も、音質でラジカセだと見抜かれてしまう可能性が高い。そもそもさっきも言いましたが、計画実行途中で頓挫する可能性も高い。寮の部屋と冬のプール棟じゃ気温が違い過ぎるから、それでサラ先輩に自分がいる場所が寮ではないと気付かれることも充分あり得る。そして何より危険なのは、サラ先輩がプールに落ちずに生き残った場合、彼女には犯人がすぐに特定出来てしまう。自分の部屋で、睡眠薬を飲んだ時に――」

 視線に力を込めて、僕は日比野先輩の目を睨んだ。

「隣にいた人間がそうだと」

 日比野先輩は、体ごと顔を背ける。

「つまり、犯人の目的は、それなんです。犯人が誰だか解り、その明確な殺意もサラ先輩に伝えることが出来、殺意は本気でありながらも、手順のまずさにより、サラ先輩は生き延びる……ように仕立てる。これが犯人の望みだったんです。殺す気なんて――無かった」

 目の前の人物には、もう、さっきまでの突き刺す様な気性は感じられない。

 しおれる様に、意気が鎮まっているのが解った。

「こんな手の込んだこと、普通はいきなりやろうとはしないでしょう。では誰ならやるだろう? 密会した部屋で睡眠薬を飲んで眠るほどにサラ先輩が気を許しているのに、一方では彼女に殺意を伝えようとする人物。それは、何度も別れ話を切り出したのにサラ先輩に許してもらえない、そこで極端な方法で自分の悪意を伝えてまでも別れようとする、追い詰められた恋人くらいです。もちろん、事後に彼女が、自分のされた仕打ちを周囲に吹聴する様な性格ではないのを織り込んだ上で。決して彼女を殺さない様にしながら殺意を伝えるのは、しんどかったでしょうね。こんな、いびつなやり方になってしまった。しかも……サラ先輩は、死んでしまった。おっしゃる通り、証拠は無いですよ。でも、説得力はあるでしょう? あなたが反駁はんばくせずにこのまま帰るのなら、僕はこの話を学校中に匿名で流布させます。警察にも、届けます」

 僕が話し終わると、わずかな沈黙が訪れた。

 それを破ったのは、日比野先輩だった。

「合ってるよ。ほとんど、合ってる。……プールサイドに、じかに寝かせたんだ。ロープだって長くて……プールからはずいぶん離した。寝ているサラとプールの間にビート板を置いて、目を覚ましたサラがプールに向かって歩けば、つまずくようにもした。ロープは首にかけただけじゃなく、サラの体のあちこちに触れさせておいた。間違ってもロープに気付かずに落ちたりしない様に。ラジカセの音だって、演劇部が持ってた古い代物で音なんて割れまくってた。……なんで、……落ちたりしたんだ」

 急激に憔悴していく男を見て、僕の感情は逆に昂って行く。

「気付いているんでしょう。サラ先輩は、ロープに気付かずに落ちたんじゃない。あなたの意志を理解したから落ちたんだ。自分がたった一人、身も心も預けていた人に、一方的に別れの意志を伝えられて。何が何でも別れたいんだと、こんな場面まで用意して告げられて。絶望して、フェイクの殺人道具を敢えて使って、彼女は死んだんです。彼女が死んだ後、おそらくあなたは計画が上手くいったかどうか確認するためにプール棟に再度忍び込み、当日の深夜にでも彼女の遺体を発見したでしょう。最悪の事態だ。でも、もうどうすることも出来ない。形の上では自殺なのを幸いに、あなたは黙り通そうとしたんでしょうね。そして、ラジカセやビート板を片付けた。……ここで一つ、訊きたいことがあります。その時、あなたがリピート設定にしていたであろう雷雨の音のテープ。それは、止まっていませんでしたか?」

 驚く先輩の表情が、その通りだと告げている。

「なぜ……それを知ってる」

「知りませんよ。でも彼女には、彼女の様な人なら、そうするしかなかったはずなんです。それを止めることが出来るのはただ一人、サラ先輩だけです。ラジカセが鳴り続けていれば、サラ先輩が首を吊った後、その音を不審に思った誰かが入って来て、あなたが回収する前にラジカセを見付けてしまうかもしれない。そうすると、自殺としては極めて不自然な場面になります。かといって、目が見えない彼女にはそのラジカセやビート板を元あった場所に返すことが出来ない。自分が死んだ後、万一にもあなたに疑惑の目が向かない様にするにはどうすればいいか。……サラ先輩は自分の首にかかったロープを一度外し、プールサイドを歩いてラジカセを見付けて停止させ、また元の場所に戻ってロープを首へかけ直し、そして……プールへ降りたんじゃないでしょうか。こうすれば、自殺を誘発する装置たるラジカセを最初に見つけるのは、計画の首尾を確認しようと間もなく現れる、あなたです。同時にこれは、サラ先輩があなたの企みをすべて理解した上で、死後あなたに迷惑をかけない様に自分がそれに気付いたことを伝える、ただ一つの方法でもあったんです」

 言葉数が増え、早口になると、つい癇癪かんしゃくを起こしそうになる。

 伝えるべきことを残らず伝えるため、冷静さを失わない様に意識して、続けた。

「だから、あなたは気付いていたはずです。これは殺意が無いのに人が死んでしまった事故ではなくて、あなたの悪意が用意した舞台で一つの生命が存続することを諦めさせられた、事件なのだと。これを自殺と呼んでいいんでしょうか? 気丈な様でも、きっとあの人はずっと不安の中で生きていたんだ。その不安を受け止めてくれる人は、あなたしかいないと信じていた。そのあなたに強固な拒絶を突き付けられた時、寒く、冷たくて硬い床の上、一人ぼっちの密室で、どんな気持ちだったでしょう。鳴り続ける雷雨の音を自分の指で止めた時、どんな気持ちだったでしょう。彼女には別の選択をする意志は消えてしまった。彼女は自ら死んだかも知れない。でもそれは、自殺なんて呼べない。あなたが殺したのと同じなんだ。あなたなんかのせいで、彼女は死んだんだ」

 傍らの壁に、日比野先輩がぐったりと寄りかかり、力無く口を開いた。

「俺には、サラは重過ぎた。君らは知らないだろうが……あいつはいつも明るく振る舞っていたけど、いつちぎれてしまうか解らない、か細い糸みたいだった。まいりかけると、いつも俺によりかかって来た。俺の方が、そんなあいつを見ているのも限界だったんだ。あいつは、自分が足手まといだと思っていつも俺に気を遣っていた。それも辛かった。俺は、ただ、大人しく引き下がって欲しくて、……別れて……欲しかっただけだ」

 苦しそうに顔をゆがめる先輩を見ていると、抑えようとしていた苛立ちがまたぶり返して来た。

「それで、別の女の人に乗り換えようとしたんですか」

「何が悪い。くっつこうが離れようが、皆やってるだろう」

「皆って、誰です。サラ先輩は、『皆』とやらじゃない」

「お前だって、自分が俺の立場になれば解るんだよ!」

 そう言って、日比野先輩はその場にくずおれた。

「……俺をどうする」

「別に、どうもしませんよ。何をしたって、サラ先輩は帰って来ないんですからね。ただ……あなたのしたことを知っている人間が、この世にいるってことは、覚えておいてください」

 そう告げて僕は、例の窓枠へ歩き出した。

「おい、待てよ。やっぱり言いふらすつもりか……」

「だったら、どうします」

 言いながら振り向く。精一杯の敵意を視線に込めて。

「死なせますか、僕も」

 それ以上は、彼の顔を見る気になれなかった。

 そのままプール棟の外へ出て、寮へ向かって歩きだす。

 今回のことでこれ以上、何かをする気はなかった。彼のしたことを人に言うつもりももちろん、無い。

 ただ、――彼のサラ先輩への仕打ちを知っている人間がもしかしたら複数人いて、その人物達は彼に日々、冷酷な視線を送っているのかも知れない。それは彼のクラスメイトや、教師かも知れない。

 そんな恐怖を、せめて自分のしたことの報いとして味わえばいい、と思った。

 彼が警察へでも行って、自分のしたことを白状すれば、多くの人から責められるだろう。

 けれど、殺人罪が成立することは無いと思う。

 立件されても、人を一人殺したよりははるかに軽い刑罰を受けて、執行猶予も付いて、それで『許された』ことになって、何食わぬ顔でまた彼は自分の生活を続ける。

 サラ先輩はもう帰って来ない。それなのに法の名の下に償いが済んだことにされるなんて、冗談じゃない。

 それよりは、償う方法も見つからないまま、少しでも長く疑心暗鬼に苦しめばいい。

 日比野先輩のことは許せない。でも、僕もどす黒い感情で汚れている、と感じた。


 寮へ戻ると、ハインツがロビーのソファに座っていた。

「何、こんな時間に。僕を待ってたの」

「そうだよ。カルフは寝てる。ここにはいない。でも犯人はもう、お前が見つけてきっと懲らしめて来たって確信してる。だから安心して、寝てる」

 ハインツは、優しい表情をしていた。

 詳細までは知らなくても、彼らは気付いているのだ。僕が僕なりに、サラ先輩の『事件』にけりをつけて来たことを。

 僕は自分に出来る限り残酷になるために、二人には何も言わずに今夜日比野先輩と会った。

 そんな勝手を、二人は責めもせずにいてくれる。

「だから、正直になっていいよ」

「……うん」

 僕は今回、サラ先輩は親しかった先輩ということ以上に、親友であるカルフの想い人だからと、図々しく事件に踏み込んでいった。

 そうしなければ、自分を保ちながら事件のことを調べる自信が無かった。

 サラ先輩は、僕自身にとっても特別な存在だったから。

 幾度となく向けてくれた頬笑みを思い浮かべると、もう涙が止められなかった。

 ハインツが、ソファーに添えられているクッションを渡してくれた。

 目を背け続けていた大きな悲しみにとうとう捉えられて、僕はクッションに顔をうずめ、絶叫の様な嗚咽を挙げて泣いた。

 もう一度、名前を呼んで欲しい。

 暖かなものを与えられるだけで、何も報いることの出来なかった季節を、やり直したい。

 もう一度僕があなたに会えるとしたら、それは、脈絡もなく無機物や風景の中に見つけ出すあなたの面影に、霊などという名前を付けて思い出に遊ぶ、慰めの様なものなのでしょう。

 でもそれは、あなたじゃないんですよね。

 あなたはもういないのだから。

 もう一度だけでも、名前を呼んで欲しいのに。


 そしてその夜は、更けていった。

 遠からずまた、明けるために。


■■■■■


 数日が過ぎた。

 表面上は何事もなく、僕らの生活は平穏に続いていた。

 高等部では日比野先輩がやたら落ち着きがなくなったという噂が立っていた様だけど、もう知ったことではなかった。

 朝、寮の部屋で授業の支度をしてから、食堂へ朝食を取りに行くためにカルフを起こした。

「毎朝毎朝、なんで食事の前から勉強の用意が出来るんだ……」

 モンスターを見る様な目で僕を見るカルフを二段ベッドから引き下ろし、着替えさせる。

「カルフ、クリスマスが近付いて来たから、そろそろ食堂でもシュトウレンが出るよ」

「砂糖のお祭り!」

 急に元気を出して、カルフは赤いセーターを素早く着込む。

 身支度を終えてドアを開けると、ちょうどハインツが部屋の前に来た。

「おはよう、二人とも。食堂だろ?行こう」

 うなずきながらドアを閉めようとして、一度部屋の中を見る。

 窓際では、いまだに名前も知らない観葉植物が、朝の陽光を受けてくすぐったそうに光っていた。

 もともとは日比野先輩が購入したのかも知れないけど、僕らにとってはサラ先輩の形見だった。

 今度こそドアを閉めて、三人で歩き出す。


 朝食を終えてから、僕は一人で、授業の前にプール棟の北側の壁を見に行った。

 目を凝らしたり、眺めたりしながら、しばらくぼうっとツタの陰影を視線でなぞり、面影を探す。

 でもそこにはもう、誰もいなかった。

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