キサラギ・サラの死
昭和のある時期の話だ。
秋が終わり、なんとなく空が低くなって来たように感じられる。
僕が通う全寮制の中学はドイツ系の学校で、先生や学生にもドイツ人やハーフなんかが多い。純粋な日本人の僕の方が珍しがられるくらいだ。
東京の片隅にありながら、石造りの校舎やドイツトウヒの植え込みなど、ちょっとした異国感が評判で、よく塀の外から建物の写真を撮っている人もいる。
特にドイツトウヒをクリスマスツリーとして飾りつけるとなかなか見事で、生徒達も毎年楽しみにしている。
そんな冬の日の放課後、下校しようと思って昇降口を出た。
東京の冬も充分寒いけど、ドイツはこんなものじゃないと同級生によく脅かされる。
レンガ造りの寮は、校舎からゆっくり歩いて五分程の距離にある。外から見ると冷たい印象を受けるけれど、しっかりと温められた内部の空間の頼もしさは好きだった。
その寮の入り口をくぐろうとした途端、名前を呼ばれて、振り向いた。
「大変だよ」
真っ青な顔でそう告げて来たのは、クラスメイトのカルフ・コイルフェラルドだった。
震えているのはどうも、寒さのせいだけではないらしい。
「何が?」
僕とカルフ、そしてその双子の兄のハインツの三人は特に仲のいい三人組で知られ、学校内では大小様々なトラブルに見舞われることでも少し有名だった。
ただ、そのトラブルのほとんどはカルフが僕らに持ち込んで来るのが常だった。
「高等部が使ってる、プール棟があるだろ。そこに、幽霊が出るんだ」
歯をカチカチ言わせながらカルフが言う。
「プールの建物の、外の壁だよ。北側の壁は、ツタで覆われてるだろ?そのツタに……」
「死者の姿が浮かび上がるとか?」
「知ってたのか!?」
カルフが大声をあげて飛びすさった。
僕は、適当な答が当たってしまったことに半分あきれた。
「知るわけないだろ。カルフが持ってくる話は大体そんな感じじゃないか」
ため息交じりに言いながら、僕は何となく嫌な予感が広がって来ているのを感じた。
カルフがオカルト関係の話を持って来るのは珍しくは無い。けれど、いつもは意気揚々と仕入れた噂話を披露し、楽しそうに「さあ、幽霊の正体を暴きに行こう!」とはしゃぐのだ。
それが今日は、何かにひどく怯えている。
「違うんだよ、今日は。違うんだ」
「どう違うのさ」
「昨夜、プールの壁に人影が現れているのを見たって人がいて、高等部では騒ぎになってる。その浮かび出る死者というのは、つい一昨日、プールで死んだ人と同じ姿なんだよ。遺体が発見されたのは今朝なんだけど」
「ええ、それって、この学校のプールで死んだ人がいるってこと? しかも一昨日!?」
これにはさすがに驚いた。
高等部の敷地は少し離れているので、その騒ぎはまだこっちまで伝播して来ていないのだろう。時間の問題だとは思うけど。
「待てよカルフ、今の時期プールの水は抜いているだろ?どうやってプールで人が死ぬんだよ」
「溺死じゃないよ。首吊りさ。潜水の練習用の、深いプールがあるだろ? プールサイドの手すりにロープを掛けて、一昨日、水の無いプール内に降りて首を吊ったんだ」
「なんで一昨日だって判るんだよ」
「昨日はプール棟の鍵開けてないって言うんだ。一昨日の夜に施錠した人が、首吊りに気付かないまま鍵を閉めたんだと思う」
頭の中で、時系列を整理した。
一昨日、プールで首を吊った人がいる。
施錠者は、それに気付かずにプール棟を閉めた。
昨日はそのまま誰もプール棟へは入らず、夜になって壁に浮かぶ幽霊(?)が発見される。
そして今日、プールで首を吊っている死者が見つかった。
そのため、やはり昨夜のあれは幽霊だったのだ、と騒ぐ人も出て来ている。目の前の友人の様に。
「それって本当に大事件だよね。カルフ、なんだかいつもと様子が違うと思ったらそういうことか」
「……それだけじゃないんだ」
カルフは、何か忌まわしいものを体の内側から押し出すようにして口を開いた。
「首を吊ってたっていうのが、サラ先輩なんだ。キサラギ・サラ先輩なんだよ。一昨日から姿が見えないって騒ぎになってるのは、聞いていたけど。まさかこんなことになるなんて……」
その名前を聞いて、僕は立ちつくした。
高等部二年の、サラ先輩。
後輩の面倒見がよく、以前ある事件で知り合った僕らのことも、弟の様に可愛がってくれた。
サラ先輩は生まれつき視力がほとんどなく、白い杖をかつかつと鳴らして校内を歩いていた。休日でも敷地の外に出ることはほとんどなく、図書室で点字の本を読んだりしているらしかった。
彼女は明るい性格で、生来のハンデを嘆くようなそぶりを見せることは無く、むしろ堂々と気高く自分の人生を生きている様に見えた。その姿は、彼女の容姿の美しさと相まって、多くの生徒の憧れを誘った。
僕は、サラ先輩に対するカルフの思慕の情が、淡くも確かな恋に変わって行くのを間近で見ていた。
カルフは、小さなつむじ風が枯葉を舞わせる中、その場に泣き崩れた。
僕には、何の言葉もかけることが出来なかった。
ただ、血がにじむほどに唇をかみしめていた。
「犯人を捕まえよう」
その日の夜、寮の僕らの部屋で分厚いマグの中のココアを舐めながら、険しい顔付きでカルフが言った。
カルフと僕は同室で、そこにハインツが加わって夜更かしするのが恒例だった。
「犯人って、他殺と決まったわけじゃないんだろう」
そのハインツがカルフに言った。双子なのに、ハインツの方は弟よりもずいぶん落ち着いている。
「他殺に決まってる! サラ先輩に、自殺する理由なんてないだろう!」
「……どう思う?」
ハインツが僕に尋ねて来た。
「他殺かどうかは、判らない。でももしそうなら、犯人は絶対に許せない。サラ先輩は、いたずらばかりしてる僕ら――まあ、実行犯は十割方カルフだけど――のこともいつもかばってくれた。あんなにいい人はいないよ」
「でも、警察が調べてるだろう? 俺らが手を出す様な事じゃないんじゃないか」
カルフが、だん、とマグをテーブルに置いて叫ぶ。
「ハインツ、そんなこと言ってるようなやつ、男じゃないぜ!」
飛び散ったココアを、諦めた様な顔で傍らに会ったタオルで拭くハインツ。
けれどその顔にも、明らかに理不尽な事件に対する怒りが浮かんでいた。
「ハインツ、カルフ、僕らなりに調べよう。サラ先輩はもう帰って来ない。でもこのままじゃ、僕らが治まらない」
二人は、同時にうなずいた。
「日比野先輩ですね」
翌朝、僕は高等部の昇降口で、待ち構えた人物に声をかけた。
二年生の、日比野ハルト。
背が高く、顔立ちも整っていて、中等部の女子からも人気がある。
そしてサラ先輩の、公然の恋人だった。
「誰、君」
僕は名前を名乗り、続けた。
「キサラギ・サラ先輩のことで、聞きたいことがあるんです」
日比野先輩は憂鬱そうな顔で応える。
「君、あれだろ。中等部の少年探偵団。サラがよく、話してたよ。……サラが自殺する心当たりを聞きたいんなら、そんなものは無い。俺が聞きたいくらいなんだ」
日比野先輩は、ずいぶん参っている様に見えた。当り前では、あるのだけど。
気が引けながらも続けて質問しようとすると、
「サラのこと、調べようとしてくれてるんだな。あいつ、好かれてるんだよな。色んな人から好かれてるんだ。死んでからも何かしてくれる人間がいるなんて、凄いことだよ」
この二人の関係は、どちらかというと、サラ先輩の方が日比野先輩に入れ込んでいる、というものだったと聞いている。
サラ先輩も、障害のせいも含め、生活している中で心が弱ることはたびたびあり、その度に日比野先輩の包容力が彼女を救っていたらしい。
「ああ、ごめん。他に何か、聞きたいことがあったか? サラが死んだのは、夜の十時頃らしい。俺はその時高等部の寮に、寮仲間と一緒にいてね。あいつがそんなことになってるなんて、知りもしなかったんだ。だから、ほとんど話せることも無いんだが」
「いえ――さっきので、結構です」
本当はまだ色々質問があったけど、憔悴した日比野先輩を見ているとそれもはばかられた。
あいさつをして、僕はその場を後にした。
だが、心に残る疑念は晴れてはいなかった。
サラ先輩はほどんどこの学校の敷地内で暮らしていた。
他殺にせよ、自殺にせよ、彼女がそうなる程に影響力を持つ人間というのは、限られている。
日比野先輩は、その筆頭だった。
何か、交際に関わることで気を病んでサラ先輩は自殺したのか。
あるいは、日比野先輩が彼女を――……
僕は冷たい空気の中で、頭をふるふると横に振った。
まだ、予想を言葉にするべきじゃない。
放課後、プール棟の入り口で待ち合わせをしていたので、時間通りにハインツがやって来た。
カルフも来ると騒いだのだけど、例のツタの人影とやらを静かにじっくりと見てみたかったので、ハインツと二人で調べることにした。
「どうだった、日比野先輩は」
「今のところ、何もなし」
正直に伝え、建物の北側下回りこむ。
こんな日当たりの悪い所によくも、と言いたくなる程にツタはプール棟の壁面を覆っていた。
ツタは複雑な陰影を形作っていて、人影の様に見えるところもあれば、そうでないところもある。
「ねえ、ハインツ。幽霊がいたとして、いたとしてだよ。ツタに浮かび上がってなんて来ると思う?」
少し黙ってから、ハインツが答えた。
「思わない。ツタも生命体だから、幽霊――魂というものがあるとして、やりよう次第で植物に乗り移るくらいは出来るのかもしれないが、動物の様な筋組織もないのに、一朝一夕に何らかの意味ある造形を成すなんて不可能なんじゃないか」
ハインツらしい物言いに、僕は何だか安心してしまう。
「僕はね、幽霊はいると思う。でもそれは、いわゆる亡霊ではないんじゃないかとも思う。人間に宿る魂が肉体から抜け出して、ふわふわと物理世界を漂って、時には物を言ったり、何かを操ったり、生きている人間相手に恨みを晴らしたり、宿る物質もないのに何年も自縛霊として存在したり。魂って、そんなに都合のいいものじゃない気がするから。大脳無しに、感情や思考を有することが可能かっていうのもピンと来ないし」
「……お前、可愛げないなあ」
どっちがだよ、と胸中で言いながら、僕は続けた。
「幽霊は死んだ人じゃなくて、生きている人間が作るんだと思うんだよ。いなくなった人への祈りや恐れが、僕らの脳の中に幽霊という夢を作り出す。だから僕らは、自分で見た幽霊を無視出来ないんだ。だってそれは、自分が見た夢なんだから」
「目を開けて見る方の、ってことだな」
ハインツが僕の意図を誤解無く汲んでいることが分かった。こういうところ、僕は友達に恵まれたと思う。
「僕は、このツタに幽霊が見える。それは、未練とか、思い入れとか、気のせいとかって呼ばれる様なものなんだろうけど。何か、解き明かさなくちゃならないものがこのプール棟の中にあるんだ。そう思わせるのは――」
複雑に絡まりあったツタの中に、ぼんやりと人影が浮かんで見える。
きっと、僕がそれをそこに見たがっているから。
その顔は、泣き顔の様に見えた。それは僕の脳の中に住むサラ先輩だ。
彼女の涙を、止めたいと思った。
たとえ、もう死んでしまった人は泣きも笑いもしないと、解っていても。
深夜、立ち入り禁止のプール棟に、僕ら三人は侵入した。
西側の窓のひとつにはがたが来ており、窓枠ごと簡単に外すことが出来るのは、生徒の間では公然の秘密だった。
窓は僕らが背伸びすれば届く程度の高さにあり、縦横とも長さが一メートルくらいはあるので、何か台にでも乗ればすぐに中へ進入できる。
プールサイドへ出て、足音を殺しながら、建物の外に光が漏れない様に気を付けながら懐中電灯をかざす。
一番深いプールの手すりが、その光を反射した。
手すりの傍へ寄り、底の方を見降ろす。首を吊るには充分な深さだった。
思わず、震えが全身に走る。
でも縦長の貯水槽の様なそのプールからは、何も発見出来なさそうだった。
と、カルフが、声を出した。
「なんだか、何にもかもがあやしく見えて来るなあ。この扉、なんだろう」
言いながら、取っ手を掴んで扉を開けた。
「カルフ、あんまり好きにその辺触るなよ」
ハインツの声が聞こえているのか、カルフは扉をくぐって行く。
すぐに、ぶは、ぺっ、というせき込む音が聞こえた。
「埃だらけだ、この中。古い用具室みたい」
どの道一通り見て回る予定だったので、僕もその中を見てみた。
懐中電灯で照らしてみる。
ずいぶん前から使っていないのか、置いてある物には、毛布の様に分厚い埃がかぶっていた。
一番近い床に、擦り切れたビート板。
厚いビニールのマット。
ロープやワイヤーの類。
古そうなラジカセなどは懐中電灯の光を鋭く反射していたけど、他のものは灰色に覆われており、もはや判然としない。
人の出入りだけはあるようで、床の埃は薄くて乱れていたけど、中へ踏み込んでいく気にはなれなかった。
その時、ハインツの声が僕の耳に刺さった。
「おい、まずい。人が来る」
僕とカルフが探索に気を取られている間、ハインツは見張りをしてくれていたらしい。
僕らは懐中電灯を消し、乏しい月明かりの中で先程の窓から素早く脱出した。
見回りに来たのは、学長よりもおっかないことで有名な、ノイマン先生らしかった。
独特の低い声で、「明かりが見えた様な気がするが」「誰かいるのか」と言って回っている。
今夜は、これ以上の捜索は無理の様だった。
僕らはこっそり寮へ引き返し、眠れない夜を過ごした。
数日後の休日、僕らは三人そろって、寮母さんの案内の下、サラ先輩の部屋を訪れていた。
全校での黙とうはあったものの、いくら親しかった先輩の為でも学校を休んでお葬式には出席出来なかったので、今日がその代わりだった。
部屋の中で、十字を切り、胸中で祈りをささげる。
今にもドアを開けて、「あら、ようこそ」とサキ先輩が戻って来る様な気がした。
それは、何の変哲もない様な、けれど永遠に失われた日常。
切なさに身を切られる様な思いで、僕らは部屋の中の様子を目に焼き付けた。
あと少しすれば、この部屋も片付けられてしまう。命の残り香を、わずかでも胸に吸い込んでおきたかった。
窓際には、小さな観葉植物が置いてあった。柔らかい陽光を受け、ぴんと葉を張っているのが、なんとなく健気だった。
僕らの、というかカルフの大人しさ(彼のやんちゃぶりは学内どこでも有名だった!)に戸惑っていたらしい寮母さんに、
「あれはどうするんですか」
と訊いた。
「私が引き取ろうかと思ったけど、日比野君に返した方がいいかねえ」
「あれ、日比野さんからのプレゼントだったんですか」
「そうよ。サラちゃん、それは大事にしていてね。窓を開けて風を当ててやることはあったけど、水をやり過ぎると腐ってしまう草らしくて、雨に降り込まれないように気にしてたわ。あの子、目が不自由だったでしょう。ティールームなんかにいても、雨の音がする度に、部屋へ急いで戻っては窓際へ行って、窓が閉まっているか確認していたの」
カルフは、嫉妬も混じっているらしい、なんとも複雑な表情で寮母さんの話を聞いていた。
僕はそれに構うことも出来ず、続けて訊いた。
「目や耳が不自由な人って、他の感覚が鋭くなるって言うじゃないですか。先輩はそんなことありましたか」
寮母さんはなぜそんなことを聞くのか不思議そうにしたけど、少し考えて、
「そうねえ。耳って言うか、音にはけっこう敏感だったみたい。例えばテーブルを叩く音がしても、それがテレビの中のことなのか、その場で実際に叩かれたのか、なんてのはまず間違えなかったねえ」
他にも生前のサラ先輩のことを少し訊いてから、僕らは寮母さんにお礼を言い、サラ先輩の部屋を出た。
中等部の寮への道を歩きながら、僕は考えをまとめていた。
証拠と呼べるものは何一つない。
そんなものがあったら、警察がとうに彼を連れて行っているだろう。
もちろん、そう遠くないうちにそんなことになるのかもしれないけれど。
ただ、僕の中では、プール棟で起こった出来事がどんなものだったのか、確信が出来上がっていた。
自殺。他殺。彼女の死は、どちらに類するべきなのだろう。
彼女の生と死の尊厳を、より守るためには、その死に何と名付ければいいのだろう。
自殺というには、悲し過ぎる。
他殺と呼んでしまえば、醜く過ぎる。
木枯らしが、色を失った葉を一枚、傍らの木立ちからもぎ取って、中空を舞った。
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